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水戸時代、新見は芹沢と行動していたことから、新見は水戸藩士の中で『激派』(破約攘夷論者)だったと考えられる。

 浪士隊に入隊し、京都に残ったのは、文久3年1月に故郷水戸より一橋慶喜及び随従の水戸藩士が入京しており、更に3月には水戸藩主慶篤が郷士・藩士を率いて入京していた為だと思われる。

 京に残ったのは意図的なもので、新見は在京の各藩の攘夷派と密かに接触し、水戸との橋渡し的なものの役を担っていたのではないか?

新選組に残ったのは、京都守護職である会津藩 松平容保公の支配下で幕府の動きを察知するのに都合が良かったからではないか?

 もちろん、芹沢も同志であったと思われるが、史料によると芹沢は『病』に罹っていたと記述があるものもあるので、その『病』がどの程度のものか分からないが、水面下で活動出来るものではなかったのだろう。

生麦事件での賠償金問題や横浜鎖港問題で高まる攘夷論に反応を示さない幕府。
及び腰の幕府に対し、ますます討幕に向かって盛り上がっていたことだろう。

水戸藩士激派と新見の中に亀裂が入ったのは、『八・十八の政変』及び『池田屋事件』の出来事が関係していると思われる。

八・十八の政変では、激派で水戸とも関係があった三条実美はじめ七卿が長州藩士と共に都を追われ、池田屋事件では、水戸藩士 梶清次衛門と知己であり同志であった熊本藩士 宮部鼎造が討死。

新選組が関わっていた事件である為、新見は何がしか水戸同志に非難されたのではないだろうか。

そして、元冶元年(1864)9月 祗園新地貸座敷『山緒』で同郷の吉村常郎に狼藉を働いたという名目で、梅津某の介錯によって切腹させられた。

吉村というのは、本国寺党の吉村恒次郎の事か。

吉成恒次郎というのは、水戸藩反射炉建設、戊午の勅書返納反対(長岡屯集)に尽し、長岡勢解散後、攘夷を促しに薩摩藩邸に駆け込み、水戸藩邸に幽囚された人物。
赦免後は、藩主慶篤の上京の同行を求めたが許されず、長州藩の伊藤俊輔(博文)に連れられて入京している。

このような人物とどんな話し合いがあったのか、非常に気になるところだ。

明治になってから、『京都養正社所祭神名録』に新見錦の名で、霊山護国神社に祀られていることから、水戸や長州、土佐などの尊王攘夷派と共に勤皇活動を展開していた事は確かだろう。結構、名が知られていたのかもしれない。

新選組隊士・田中伊織と新見錦を同一人物とする説もあるが、定かではない。壬生寺にある、田中伊織の墓には死亡日が文久3年9月13日と刻まれており、時期が新見が死んだ日と近いことからそういわれている。

近年では水戸浪士の新家粂太郎が新見錦であるという説も出ているくらいだ。
水戸に『新見』姓が無い以上、その可能性も有り得るだろう。

新見が書いた書簡などが出てくれば、もっと彼の心情や動きが分かるのだろうが、今後を新発見があるのを期待したい。

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