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2015年04月

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備後 三蔵稲荷神社

赤門を過ぎ、城郭に沿って歩いていくとありました。

三蔵稲荷神社
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逆光で斜が入ってしまったのが口惜しい・・・

思い込みもあるのですが、実は私。

お稲荷さんとはあまり気が合わないような感じがしたりします。

多分、畏怖に近いのかも。

でもこの神社は入りやすかったというか、優しかったです。

本殿
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御祭神は【宇賀魂大神】【猿田彦大神】【大宮女大神】の3神。

【由緒】
この神社は、福山の開祖、水野勝成公が福山城を築城する時に、守護神として祀った神社。
勝成公は二十一歳の時、三河国刈屋の城より放浪と武者修行の旅に出た際、祖父の多忠政公が京都伏見稲荷大社より受けられたご神体を授かりました。
勝成公は、四国・九州での戦においてもご神体を肌身離さず持ち続け、お稲荷さんへのご加護を受けることが出来ました。
元和五年、この福山の地に城を築き、城内の北側(鬼門)に備後の国の守護神としてお祭したのが三蔵稲荷神社の起源です。
以来、代々の福山城主が直祭し、藩内は多くのご分社がありました。以上。

確かに小さいお社がいくつかありました。

お参り(ご挨拶)を済ませ、社務所を覗くと神主様がいらっしゃいましたので、御朱印をお願いしました。

写真は無いけど、厄除けの可愛いブルーの鈴も購入。

御朱印が書きあがるまでの時間をどうしようかと思っていたら、神主様が寒いでしょう、と室内に招いてくださり、お茶までご馳走になってしまいました。

書きあがっても少しお話させていただき、楽しかったです。

その間、母から鬼電が入っていましたが。

放置し過ぎました。

お礼を述べて、母達が待つ福山城へ急いで戻ります。

体感時間はそんなに経っていなかったんですけどねぇ。

書いていただいた御朱印
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短い時間でしたので、じっくり回れなかったのですが、私的にはとても充実したものになりました。




備後 赤門

さてさて、お次に向かいますのは【赤門】でございます。

幸いにも備後護国神社をでて、向かって右に回っていくとありました。

徒歩5分も掛からない位。近くてよかったです。



備後護国神社が鎮座している場所は天神山と言い、福山城の背後の山に当たります。

明治維新時、新政府軍は西国における幕府側の重要な拠点でもあり徳川譜代大名である福山へ侵攻してきます。

来るべき戦に備え攻撃の防護として天神山の山肌を削り胸壁を造っていました。

しかし直前に藩主の阿部正方が急死。藩主の死を隠し新政府軍を迎えることになります。

しかも藩内の実権は勤皇派に握られており、福山藩は恭順の意を新政府軍に示しましたが、城下まで侵入され大砲による攻撃を受けます。

さらには城内まで侵攻されるのですが、福山藩も反撃し新政府軍兵3名を戦死させます。

しかし圧倒的な武力の差もあり、福山藩首脳の必死な奔走も手伝って本格的な攻撃が始まる前に恭順を許されます。


城下は戦火に巻き込まれる事はなかったようですが、後に福山藩兵は新政府軍の先兵として不遇の扱いを受けることになります。

さて問題の赤門ですが、これは阿部神社に当時あったもの。

新政府軍の銃弾が残っているとか。幕末維新に関係しているものであれば、見に行かねばね!

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当時は鮮やかな朱色だったんでしょうね。

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阿部家の紋様がしっかりと。



門を潜って裏からみたところ。

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銃弾の後はそれらしき穴はあったのですが、確証持てず、でした。


【捨生取義】の碑

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碑の意味は【生を捨て義を取る】

新政府軍と戦った際の福山藩の戦死者110人の名前が碑の裏に彫られています。


手水鉢

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こちらにも阿部家の紋が彫られています。















備後護国神社

次は江戸幕府老中であった阿部正弘さんに会いに備後護国神社へ。

福山城と直結?しているから、近くて助かります。

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阿部家の家紋【鷹の羽】紋でテンションあがります。

この門を潜ると、その脇に社務所があり、そこで御朱印を頂きます。

ここには見た目が可愛いわんこがいるのですが、人が近づくとものすごく吠えられます。番犬としてはとても良いです。無人の社務所にも人を呼んでくれますので。

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石段から見上げる鳥居。雰囲気あって素敵すぎる。

この石段の途中に、あの宮本武蔵が腰掛けたという石もありました。
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由来書によると―

元和元年(1615)、大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。
寛永年中(1624〜1629)、武蔵は福山城に勝成を訪う。
武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり。
水野家二番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗應。その時、武蔵が将監屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石をして伝承されていた。
水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第二家老下宮氏の屋敷となる。
明治四年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引拂うにあたり、この石の由来によりこれを阿部神社に貴信したものである。

 原文のままですが、読みやすいよう句読点入れてるところもあります。


そして拝殿
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ちゃんと正面から撮りたかったのですが、スマホでは全体が入りきれなくて。

少し石段下って、こんな感じに。

境内は広くないんですね。こじんまりとして参拝者もいない時間帯というのもあったのでしょうけど、静かで良い神社の気?でした。

そして目的の阿部正弘像
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教育に熱心だったからでしょうが、なんか合格祈願の神様になってます。

備後護国神社と合祀される前、昭和32年まで【阿部神社】と称していたそうです。

阿部神社の建立は、文化10年(1813年)の時の福山藩主が歴代の祖霊を祀ったのが始り。

以下案内板より↓
御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を始め、歴代藩主をお祀りしてあります。
歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永六年(西暦一八五三年)ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。

そして備後護国神社の前進は、【招魂社】
明治元年、最後の福山藩主代10代目である阿部正桓が幕末〜箱根戦争での戦死者の霊を祀るために旧深津軍吉津村に建立したのが初まり。

昭和に入って第一次、第二次大戦の英霊を祀る為、時の内務大臣の指示により備後護国神社となる。その際、阿部神社、招魂社ともに合祀される。ざっくりいうとこんな感じ。

拝殿神門
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お城からまっすぐ来た、私は南門から入ったようです。正しくはこちらの西側から入るようです(汗)



備後福山城 

ここに来るのかなりひさしぶりです。

スマホからの投稿の仕方が分からないから、PCからになっちゃうんだけど。

仕事でPC使用しているから、帰ってからもPC開くの嫌気が差しちゃって。

まぁ、そんなことは置いといて、久しぶり&気が向いたのでぼちぼちと。



先月3月に広島・福山へ行って来ました。

何しに?

母の実家が福山で、法事の付き添いです。

祖父と祖母が生きていた頃、学生だった時分は休みの度に遊びに行っていたものですが。

亡くなってしまえば、もう法事の時しか行かなくなってしまって。

今回も何年ぶり?な感じでこの地を踏みました。

旅行会社で新幹線とホテルのチケットを予約したのですが、ふと気が付いたのですよ。

そういや、私。お城行ったことないやん!?

この機会を逃すと、もうここには来る事も無いだろうなって思い立ち、法事の日前のりで福山へ。

しかも広島乗換え(めんどくさい)

前置き長いけど、福山駅新幹線を降りると、正面にお城がど〜ん!!

三の丸南側です。
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ガラス越しでも綺麗に撮れるものですね。

改札口で母の従姉妹夫婦が出迎えてくださり、駅構内のカフェで近況報告。

私は早く行動に移したかったでの、1人でお城に行くつもりでしたが、従姉妹のお姉さんも一緒に行きたいとのことで女3人で出発。

母は石段が難しいというので、なるべく階段が少なそうな二の丸方面から入城しました。

途中で水野勝成さんの像と遭遇(二の丸付近)
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もともと備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則が武家諸法度違反(広島城無断修築)で改易され、毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑えとして、徳川家康の従兄弟・水野勝成が備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ郡山藩(奈良県)から転封してきたとのこと。
入封と同時に福山城と城下町の建設に着手。

また、勝成さんは新田開発や灌漑事業、産業育成を行うなど領内の経営に努め藩政の基礎を築き、寛永3年には従四位下昇進により福山藩領は相模国愛甲郡厚木村(神奈川県厚木市)に飛び地1000石の加増を受け計10万1000石となったそうな。

そして出ました、福山城!
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天気良くてお城が映えますわ。

水野勝成さんは当初神辺城に入城したけど、そこが内陸すぎるという事と何度も落城していることなどから、この地で新規築城が行われることになりました。

築城の用材には福山城の築城に伴い廃城となった神辺城や、幕府より下賜された伏見城(京都)の遺材も多く用いられたそうですよ。木材が貴重な時代。使えるものは使わないとね!

そして築城開始から3年近くの歳月を要した元和8年(1622年)に福山城は完成。
福山城は10万石の城としては破格の巨城で特に5重の天守や三重櫓7基を始めとした20以上を数える櫓があり、どれだけ要衝を護る城として幕府に期待されていたか分かりますね。

天守内部は博物館になっているようですが、時間のない私は見ることも出来ず、すばやくベンチを発見確保したのち、母と従姉妹のおねえさんをそこに残し(まさかの放置)次の場所へGo!

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