幕臣

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友人が『家紋』に興味を持ち、近藤勇と同じ家紋だというので、私も自分の家紋で誰か隊士の方と同じ人がいないかな〜と調べたのが始まりでしたw

残念な事に隊士ではいませんでしたが、なんと『榎本武揚』さんと一緒ではないですかっ!!

うちの家紋は『丸に梅鉢』↓これ

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しかも、お父様は広島県福山市神辺町のご出身だというじゃないですか!?

私の母方の祖父は、福山市府中元町で。

福塩線の沿線でと〜〜〜〜っても近く(;゚Д゚)!

いやいやビックリしました。

もしや何か関係があるかな?とか母に聞いてみたのですが、祖父はもともと松永(尾道)で生まれ、土地持ちだったとの事。

福山大学を建てる時、その土地を売ったんだとも言っていました。

祖父も亡くなってますし、全然分かりませんので、図書館で色々情報収集を―

以下、榎本さんのお父様のお話です。



榎本武揚の父は、備後福山藩箱田村(現:神辺町)出身で箱田良助(真与)

貧乏郷士(庄屋とも)の出だが、若い頃から秀才の誉れ高く、江戸に出て勉学を志す思いが強かったという。

17歳の時、土地の奉行が、参勤交代の供として出府する際、一緒に連れて行ったのだという。
 
念願の江戸に住む事になった箱田良助は、天文方出仕であった高橋作左右衛門景保や伊能忠敬に師事。天文・暦法・数学の研究に従事する。

伊能忠敬の九州地方第1回測量の旅に参加(伊能忠敬 測量日記 第3巻に同行者として名前がある)実測図の製作にも関与。

忠敬の死後は、日本全国地図の製作が終わるまで測量・地図・実測図を完成させるまで携わった。

その頃には、数学者・測地家として世の中に認められる存在だったそうだ。

その後、御徒士として代々徳川幕府に仕えていた直参の身分を持つ榎本家の御家人株を千両で購入。

名を『榎本円兵衛武規』(別名左太夫)と改める。

榎本家の娘とみと結婚(養子縁組)

五人扶持、五十五俵の旗本の身分となった。

榎本とみ病死後、榎本円兵衛は一橋民部卿馬預かり林代次郎正利の娘ことを後妻に迎え、天保7年(1836)に次男武揚が誕生。

榎本姓を名乗るようになってから、天文方出仕を仰せつけられ高橋作左右衛門景保と共に暦局にて暦法の研究に従事。

更に、西丸御徒目付、右大将御目付、旗本丸勤務など次々こなし、紅葉山御宮御霊屋敷殿の修繕に従事し、小普請組へ。

将軍家から、度々金子・その他の物を拝領しているなど、いわば、徳川幕府に多大な恩恵を受けていたと云える。

七十一歳で没するまで、徳川家に対する忠誠の念は深かったものと思われる。


と、まあこんなところですか。

家系図などもありましたが、これが面白い(^。^)

薩摩の黒田清隆さんと縁戚なんですね。

他にも聞いたことがあるような方々のお名前もチラホラと。

う〜ん、やっぱり私のところとは関係ないようですが、調べて良かった。

こんな機会がないと、福山の歴史なんかも調べたりしなかったと思うし。

ちなみに、神辺町には箱田良助関連の碑が建てられているそうです。

祖父母はもういないので、頻繁に行くことはなくなりましたが、法事で行った時にでも寄って来たいと思います( ̄∀ ̄*)

内村彦次郎暗殺事件

 元治元年5月20日(1864年6月23日)大阪西町奉行所与力の内山彦次郎が天神橋(蜆橋とも)で暗殺されました。

『元治新聞紙』という記録によれば、数人の浪人が内山の乗っていた駕籠を槍や刀で刺し、内山を引きづり出した上での斬殺。
 内山は、前年の冬から浪士が内山の屋敷門前に度々『天誅』を示す貼り紙をしていたので、用心の為に常に護衛を2名つけていましたが、突然の襲撃に反撃することもなく逃走。犯人は特定されていません。

 ところが、西本願寺侍臣であった、西村兼文が明治になって脱稿した『新撰組始末記』では、内山は新撰組の大阪での豪商への金策の暴挙に憤りを覚えており、常にこれを排除しようと思っていたとの事。
 そんな中、『大阪力士事件』が起きます。奉行所に届け出た近藤を内山は、渡りに船とばかりに厳しく詮議したといいます。近藤達はこれを非常に恨みに思い、内山を暗殺することにしたと。
 そして、西村兼文の『新選組始末記』をベースとして、広く他書籍に書かれる事になったのです。新選組が『真犯人』として。

しかし実際、近藤達が届け出たのは、内山がいた西町奉行所ではなく『東町奉行所』でした。西町奉行の内山が管轄外の事件を扱うのは、あまり考えられません。

そもそも、内山彦次郎はあの『大塩平八郎の乱』で功績があった人。若くして『譜代』まで登りつめたという逸材でした。ただ、幕閣の中では評価は高い人だったようですが、お膝元の大阪では、御用金を巡って商人達とは深い因縁があったようです。
 どっちかというと、勤皇の志士を名乗る輩に狙われる可能性が大きいように思えます。

 新選組の関与を全く否定する事は出来ませんが、幕府側にいた彼らが内山を殺す事は一寸無理がないでしょうか。

永井尚志 後編

 榎本武揚と共に箱館に上陸。
 五稜郭を根城に永井は箱館奉行となり、新政府軍と戦った。 
 
1869年(明治2年)5月1日
 新政府軍との激しい戦いが続くなか、永井は弁天砲台を守ることとなる。その弁天砲台を守る兵士のうち半数を、相馬主計をはじめ新選組隊士が占めていた。しかし、新政府軍の遊軍隊の新入破壊活動をうけ致命的な打撃を受けてしまう。
 籠城戦を試みるも食料がつきかけ、兵力も疲弊していく中、新政府軍 薩摩藩士黒田清隆の進めにより同月18日五稜郭にいる榎本武揚と共に降伏。  

 東京へ護送された幹部は東京兵部省にて約3年拘束され、1871年(明治4年)の1月4日に放免。
 彼らが無事放免された影には薩摩藩士 黒田の活躍があったといわれている。

1872年(明治5年) 明治政府に出仕。
            開拓使御用係、左院小議官を就任。 

1875年(明治8年) 元老院権大書記官就任。

1876年(明治9年)10月 政府の要職を退官。

 その後は向島の屋敷『岐雲園』にて余生を過ごす。
 この屋敷はかつての盟友岩瀬忠震の別荘であたという。その庭には祠が建てられ朝夕その盟友達の霊を弔っていたという。

1891年(明治24年)7月 76歳で死去。

墓所は 東京都西日暮里の本行寺にある。

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永井 尚志 中篇

文久2年(1862) 京都町奉行として復帰
 当時の京都は攘夷の嵐が吹き荒れていた。開国に理解があった永井だが、頑なな朝廷の攘夷の命を受けないことには幕府の存続にかかわるという実感をもつこととなる。

同年12月 三条大橋にて京都守護職就任の松平容保一行を迎える。

文久3年(1863) 八月十八日の政変

元治元年(1864) 大目付就任 
 禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮。

元治2年(1865)禁門の変から1年。
 長州征伐のため、総督の尾張藩主 徳川慶勝の補佐役として長州へ赴き、長州藩主の責任を追及。その結果、長州藩は三人の家老と十数名の家臣を処罰し、三家老の首級と共に恭順の意を示す。
 永井は首の真偽を確かめた後、藩主の謹慎などを提示し、征長軍は実際に出動されないこととなった。しかし、幕府内部からはその処罰が寛大すぎたとして大目付を解任される。

 その後長州では、高杉晋作を中心とした討幕派の藩士(奇兵隊)により藩の実権が握られ、幕府への脅威が強まっていった。この危険を重視した幕府は、再び永井を大目付への再任、次いで外国奉行、長州御用掛に任命する。その間5ヶ月。

 ≪ 蛇足 ≫
 永井の二度の長州行きには、新選組の近藤勇を始め、伊東甲子太郎ら数名と共に護衛と探索の名目で同行している。長州出張については、新選組から会津を通して幕府に申請し了承された。京都赴任の際、永井は3年間壬生村の医師の家を間借りしていた。その時、近藤らと多少の接触があったものと思われる。

慶応3年(1867)12月 若年寄り就任
 10月 新選組は板倉伊賀守と永井尚志の身辺警護の任務につく。
 当時の新選組に対する永井の証言「新選組ノ者トハ別ニ予ノ統率ノ職権ハナカリシモ常ニ随附シテ離レス。頗ル情誼深カリキ。故ニ隠現トモニ予ノ身辺ヲ保護シ呉レタリ」(史談会速記録)とある。 

 同じく10月、土佐藩の後藤象二郎が大政奉還の建議を幕府に提出。これに永井が対応している。武力抗争を避け、徳川家の権勢の存続を求めていた幕府は大政奉還を受け入れた。永井は大政奉還においても交渉能力を発揮した。
 14日に幕府から朝廷へ提出された起草文は永井によって作成されたといわれているが、実は松山藩主板倉勝静の依頼により、山田方谷が起草したのが真相であるという。
 大政奉還後、永井は新選組を伏見の警護に当たらせる。

 ≪ 蛇足 ≫
 この前月20日に、永井は近藤勇を後藤象二郎に引き合わせている。彼に近藤は深く感銘を受けたとされ、隊員に『土佐の後藤先生には何があっても手を出すな』と命じている。

慶応4年(1868)1月 鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争
 将軍 徳川慶喜が密かに江戸へ去ったあと、永井は大阪城の混乱を収拾し城を尾張藩に預け、必要最小限の荷物だけを持ち逃れるようにして江戸を目指した。
 命からがら江戸へ戻った永井は、鳥羽伏見の責任を負わされ罷免される。

 4月 江戸城無血開城
 
慶応4年(1868)8月
 永井は養子岩之丞とともに長崎の海軍伝習所時代の生徒であった榎本武揚の旧幕府軍と共に艦隊『回天』に乗込み、箱館を目指す事になる。

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文化13年11月3日(1816) 〜 明治24年(1891)7月1日 幕末期の幕臣

 通称は岩之丞。号は介堂。官位は玄蕃頭。

 三河国奥殿藩主 松平乗尹の次男として生まれる。しかし2歳の時、相次いで両親を亡くす。俊才であった尚志は旗本美濃加納藩主 永井家の分家である尚徳の養子となった。

 嘉永6年(1853) 阿部正弘による優秀な人材の求めによって、御目付役として幕府から登用される。

 嘉永7年(1854)8月 御目付役となった永井は、長崎監察史として長崎に赴任中、スターリン率いる英国の艦隊が入港。条約の締結を要請してきた(日英約定七箇条締結)この時、永井は水野忠篤と共に交渉にあたっている。

 安政2年(1855)7月 幕府は、長崎に海軍伝習所(海軍学校)を設置し、長崎海軍伝習所の総監理を永井尚志に命じた。
 永井が、日本最初の海軍学校である長崎海軍伝習所を創設するに当たり行った準備は、
  ・軍艦や大砲小銃と言った教材と演習場の確保
  ・教師達や手伝いにかり出された水夫に対する手当の規定作成
  ・以上を実施するために必要な費用の確保
  ・退学命令を行う権利を含めた校則の整備
 など。
 更にオランダ人の教師達の行動の自由を保障するため日蘭和親条約を結ぶ。
 卒業生に、榎本武揚(20歳)・五代友厚(21歳)・勝安芳(勝海舟)(33歳)がいる。
 また、オランダ政府派遣の軍医が来ることを知った幕府寄合医師 松本良順は自分を連れて行ってくれるよう永井尚志を説得し、海軍伝習生御用医として弟子と共に加わっている。

 ≪ 観光丸 ≫
 オランダ国王ウィレム3世から将軍徳川家茂への贈物として幕府に贈呈された軍艦。洋式軍艦の練習艦として長崎海軍伝習所で活躍した。
 長崎海軍伝習所は、日本の海軍士官または軍艦運用の専門知識人を育てる為に作られた日本最初の海軍兵学校である。軍艦を購入しても、それを動かす事が出来なければ意味が無い。しかし、現日本で操縦できる人間はいなかった。そこで幕府は、人材教育に踏み切ったのである。長崎海軍伝習所の成績優秀な一期生と永井尚志は、日本人の手だけで『観光丸』を江戸まで航海させ、築地の講武所内に軍艦教授所を作り、江戸でも海軍士官を教育する事になった。
 『観光丸』は軍艦教授所の練習艦として使用されている。軍艦教授所は、軍艦操練所、軍艦所、海軍所と名を変え日本海軍創設に深く関わった。幕府上層部では、幕府の監視下に海軍教育機関を置きたかったようで、終に長崎海軍伝習所は閉鎖へ追い込まれる。

 安政5年(1858年) 長崎での功績を賞されて江戸に呼び戻された永井は、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられる。
 そしてロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進。

 安政6年(1859)松平春嶽に呼応し、将軍後継者争いで徳川慶喜を支持する一橋派に協力したため、岩瀬忠震らと共に安政の大獄に巻き込まれ、家禄没収、隠居差控という重い処分を受ける。

 安政7年(1860)大老井伊直弼の桜田門の変後、松平春獄が政治総裁に就任。
 永井は、再び復帰し京都町奉行に任命される。
 9月 江戸から激動の京都へ赴任。





    ごめんなさい 続きます(汗)

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