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6時半。 鶴ヶ城体育館駐車場にて、最後のパフォーマンス練習。 ポツポツと落ちてくる雨足が心配で。 体育館内で衣装を身に着ける。 衣装一式は全て用意されているけど、腰紐と帯は自前のを持参。 締めなれているほうがいいので。胴着で隠れるからいいよね? 出陣前の一枚。 外に出てみれば、やっぱり空模様悪し。 鶴ヶ城に入城するのに待機してるも、雨足がどんどん強く。 配られたビニールシートを被り、テルテル坊主に。 願いが通じたのか、出陣式中盤には止んでくれましたw 行ってきます、楽しんできます! 練習した『型』 みんなに付いていくのに必死です(汗) 敵出現!! 『おのれ、新選組めぇ〜〜〜っ!』 『刀の錆びにしてくれるわっ!!』 『敵、討ち取ったりっっ!!!』 (勝鬨)『エイエイオッ〜〜』 前方で斬り合いをしているなか、私がしていた事。 後方から来た敵に斬られ、倒れ臥す仲間。 隊士A『大丈夫か!?しっかりしろっ』 駆け寄る私。首を振る隊士A。 『許せっ』 ―と介錯してました。 前の方が見えない観客に少しでも楽しんでもらおうとの、小さいパフォーマンスでした。
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会津若松 新選組&会津藩の旅
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住吉神社のすぐ側にあります。 現在は、若松測候所。 説明板に書いてある通り、長く続く財政悪化に加え天明の大飢饉により更なる大打撃を受けた会津藩は、5代藩主の容頌公の命により、病気を理由に家老職を退いていた田中玄宰を再登用し、藩財政の建て直しを計ります。 田中玄宰は、倹約令や華美な風俗の取り締まり、荒廃した農村復興や支配強化、殖産興業政策や特産品(絵蝋燭や漆器・養蚕など)の売買奨励、教育の普及(日新館)などの改革を行った。 この御酒蔵は、他国から酒造商人を招聘し製造。他の特産品とともに江戸を中心に販売され、藩財政へ利益を齎したのです。
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秀長寺と共に佐川官兵衛さんが兵を率いて戦った場所です。 場所は、秀長寺の裏手。 この神社も当時はかなりの広さがありました。 本堂裏手 会津戊辰戦争唯一の戦勝地です。 この裏手に川が流れていたとの事。 川を挟んで銃撃戦が行われたのですね。 しかし、『唯一の戦勝地』だというのに、なんか寂しい扱いですね・・・ 蛇足ですが。 この場所で戦端が開かれた折、前日に如来堂から脱出した『斉藤一』さんも合流し一緒に戦ったと思われます。 ◎如来堂 1868年9月4日 斉藤一以下13人は会津高田方面へ脱出。 ◎住吉神社 1868年9月5日 佐川官兵衛率いる隊と新政府軍の戦い。 位置的には合致してますしね。合流していてもおかしくありません。
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練習後。 無理を言って、局長に連れて行ってもらった『秀長寺』 ここは、『住吉神社』とともに鬼官こと『佐川官兵衛』さん率いる隊と日光口から攻めあげる官軍との戦いに勝利した場所です。 由来書。字が消えかかっていて、判読が難しい状態です。 佐川官兵衛さんの歌碑。新しいもののようです。 古戦場碑。松平家十三代当主 松平容定公の揮毫によるもの。 秀長寺本堂。光が反射して綺麗に撮れなかったのが残念。 本堂脇にある『忠魂碑』 今でこそ境内もそう広くは無いけど、当時は寺領の田畑をいれて約千五百坪の広さがあったそうです。 佐川さんは住吉神社とこの秀長寺に鉄砲隊・手勢の四百人程を引連れ、その他四百人の兵は北側にある柳原町に潜ませ、官軍を迎え撃ったのです。
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家臣団屋敷跡地巡り後、中央公民館で14時から行列のパフォーマンス練習。 1年ぶりにお会いする方、初めての方。 みなさん、気合が入ってます。 今年は、パフォーマンスコンテストが無くなりましたので残念でしたが、みんなで出来る『演武』をと考えって下さったT本さんと局長発案で、剣術の1番基本だという『型』をすることに。 『八相の構え』 『袈裟懸け』 『逆袈裟』 『切上げ』 『後ろ』 『前真っ向』 『横の血の振るい』 上記の流れで。 初心者の私は、頭では分かっているつもりでも足が逆だったり、タイミングがみんなとはズレたり。 その他にも、沿道のみなさんに楽しんでもらえるよう、敵方が登場し斬り合いの場面などあったり。 私も少し『役』を貰ったりしましたw 参加する方も楽しみますが、見る方にも『おお〜〜っ』と思ってもらえるようなそういう工夫をしているのも、私がこの隊を好きな一因でもあります(^^)
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