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生年不明。
出雲国母里出身。
本名は福田廣。徳裕とも。
若い頃は、医師を目指していたという。
脱藩ののち江戸に出向き、甲州流軍学を学ぶ。
甲斐武田氏にちなみ、「武田観柳斎」を名乗るようになる。
文久3年(1863年)に新選組入隊。
軍学者として近藤勇に重用され、翌元治元年(1864年)には副長助勤として幹部に抜擢される。
同年、京都に長州の過激派が多数潜入していると情報を得た武田は隊を率いて探索。
長州人などの潜伏浪士に便弁を図っていた、四条小橋の薪炭商 桝屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕縛。
池田屋事件の際、近藤隊に属し、池田屋の周囲を固めた。土方隊の到着後は屋内の戦闘に参加、天井が破れて落下してきた土佐浪士・大秋鼎を斬った。
このときの功で褒賞金20両を賜る。
その直後 長州藩士が隠れているとの情報で料亭明保野に武田観柳斎ら新選組と応援の会津藩士が踏込んだ。しかし、同行していた会津藩士の柴司(しばつかさ)は逃げた土佐藩士を長州藩士と間違って刺し、騒ぎとなる。後日、柴司は収拾の為切腹をして果てた。(明保野亭事件)
武田はこの時、指揮官を務めていた。
また永倉新八らが局長近藤勇の専横を会津藩に建白した際には両者の仲裁に努めたりした。
7月19日の禁門の変では、軍事方として戦略担当幹部となり、天王山攻略などで甲州流軍学を発揮。
慶応元年(1865年)の組織再編で五番隊組長になる。文学師範も兼任した。
9月の江戸行き、11月の長州行きにも軍奉行として近藤に同行。
一方、隊では甲州流軍学をふるい隊士の訓練を行っていたが、その巧みな弁舌で幹部連中に媚びへつらう姿に嫌悪感を示す隊士も少なくなかったという。
その後、洋式調練を取り入れるようになると、武田の軍学は徐々に時代遅れのものとなっていく。
隊内での立場を失った武田は、脱退を図って先に離隊し、高台寺党を設立した伊東甲子太郎に接近したり、倒幕派である薩摩藩との接触も企てるなどした。
しかしそれらの行動は近藤や土方らに看破される。
慶応3年(1867年)6月22日
除隊を申し出た武田の送別会と称し、近藤が宴を開いた。しかしこれは、無論武田暗殺の宴であった。 宴の後、斎藤一、篠原泰之進が武田を送ることになり、伏見薩摩藩邸に向かう途中の鴨川銭取橋で斎藤一によって暗殺された(この暗殺者には諸説あり、当時斎藤らは御陵衛士に加わっており、暗殺したのは別の隊士の可能性もある)
後日、加藤羆という隊士が武田観柳斎に同心したとして、切腹。
同じく、京都醒ヶ井通り松原下る町で善応という僧侶が武田と応意していたとして新選組に殺害される。
武田の墓自体は不明
唯一 東京板橋駅前にある新選組殉難者墓碑の脇にその名が刻まれているのみ。
追記 ― 子母澤寛の『新選組物語』では、「隊中美男五人衆」にあげられる美少年馬越三郎との男色話 があるが、馬越は武田暗殺より三年も前に脱退しているので、この話は創作の可能性がある。
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