新選組全般

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試衛館

 天然理心流の道場として名高い「試衛館」は、三代目の近藤周助が天保10(1839)年、道場を多摩郡小山村から江戸に移したことから始まりました。
 
 1849(嘉永2)年10月、近藤周斉が宮川勝五郎(近藤勇)を養子とする際に、近藤周助と宮川家との間で証文が交われ、その証文に「江戸甲良屋敷地面内 近藤周助」と記されており、また、世話人筆頭として記されている山田屋権兵衛は、1851(嘉永4)年の「諸問屋名前帳」によると市谷甲良屋敷の商人であることが判り、試衛館は『市谷甲良屋敷』にあったと確定されたのです。
 が、これを現在地に置き換えると、『甲良町』とするものが多いようです。

しかし、永倉さん著の『浪士文久報国記事』には、試衛館の場所は『市谷加賀屋敷柳町』であるとし、『新選組顛末記』では『小石川小日向柳町坂上』となっている。これは、小石川小日向=市谷との間違いであるとはっきりしています。
 
これはどういう事なのかというと、甲良屋敷は元々、幕府作事方に所属する大棟梁甲良家の『拝領町屋』であるであり、拝領町屋とは、武家が拝領した町屋敷を幕府の許可を得て町人に借地させたり、借家させた結果、多くの町人が住み着くようになり、1713(正徳3)年、江戸町奉行の支配下に組み入れられ、これを機に「市谷甲良屋敷」は正式な町屋となったのだそうです。
 明治維新時は、町名を新たに『甲良町』としましたが、元からこの地に住んでいた士族から、町民と同じ地区に住むのは考えられないと、猛反対を受け、『市谷甲良屋敷』地区は『市谷柳町』に編入されてのです。
 なので、試衛館の現所在地は『市谷柳町』なのです。
 

あれは忘れもしない去年の12月。福岡地方で近年まれにみる大雪の日でした・・・

大河の影響で、縁の地では色々なイベントが開催されており、行きたくても遠すぎて指を咥えていた日々。そこに朗報ともいえる情報を入手したのです。
 
北九州の小倉城で『幕末維新展』を開催するというのです。しかも、私の好きな新選組関係の隊服や書状も200点展示されるというのです。これはもう行くしかないでしょう!!

当日、朝から雪がちらついていて少しヤバイかな、と思っていたのですが予感的中といいますか、高速バスに乗って直ぐ、道路が封鎖されたという事で下車。運転手さんに電車だったら動いているという情報を頂き、博多駅へGO!各駅停車で行こうと思っていたのですが、時間的に遅くなっていたので特急で行く事に。
 北九州に着いたときには、前が見え無い位の大雪。心底寒いし、傘は役に立たなくて髪はビショ濡れ。しかし、ここで挫けてはいけないと気合を入れて小倉城を目指しました。バスの中から新選組のだんだら幟が見えたときは、期待に胸が膨らみました。
 降りしきる雪の中で見る小倉城はとても美しかったです。

ここまでは、良かったんです。

順番に展示品を見て行ったんですが、幕末における小倉藩の歩みはなかなか良かったです。奇兵隊関係の書物の展示・銃や大砲などもあり割と楽しめました。
 いよいよ新選組コーナーだっ!!

いや〜、マジにコケました。一番初めに目に入ったのは、【誠】の旗にお土産用のハッピ。更に隊士の名前が入った定価500円の扇子。これらを見てしまうと、もうガックリですよね。展示されているもの殆んどが、コピー物が多かったと記憶してます。

その中で唯一光っていた書状が『宮川助五郎の嘆願書』だったのです。近藤さんの直筆だけど、下書きだということもあり、字体が斜めだったり、二重線で消されていたりと私には読める部分が殆んどなかったのです。
 でも、内容が気になって後日小倉城に電話で問い合わせをし、持ち主の方を紹介して頂いたのです。それが、小川忠文氏です。
 
失礼を承知で、電話口で色々お話をさせて頂きました。まずこの書状が山口県の下関で発見されたということだったので、どういう経路で彼の地に書状が渡ったのかを聞きました。

 小川氏が仰ることには、長州藩の末藩である『清末藩』で主に諜報活動を主にしていた藩士の子孫の方から入手したそうです。その他にも、【兵庫開港】など十項目について箇条書きしたもの(展示してたけど読めなかった)もあったそうです。本当にこの方は良い方でして、私が幕末を勉強していると言うと展示していた書状のコピーを送ってくれ、更に勝海舟の手紙のコピーまで。
 勝さんの手紙も近いうちに記載したいと思います。

全体的に【新選組】展は肩透かしでしたが、小川氏とお知り合い(と言っていいのか・・・)になれたことは大きな収穫でした。
 

 1865年(慶応元年)に実施された第2次長州征伐の失敗以降、江戸幕府の権威は失墜し、慶応2年になると京都では幕府の立てた(長州藩を朝敵とする内容の)制札が引き抜かれるという事件が頻発しだしました。
 特に、鴨川にかかる三条大橋の西詰に立てられた制札が3度に渡って引き抜かれ、鴨川に捨てられたことから、新選組に制札の警護が命じられました。
 新選組は、三条大橋を中心とした3拠点に隊士を配置し、いつでも包囲体制をとれるように準備を整えていました。事件当日の9月12日は三条会所に原田さんら12名が、町屋に大石さんら10名が、そして酒屋に新井さんら12名が配置された上に、さらに斥候として浅野さんら2名が配置されて不逞浪士の出現を待ち構えていたのです。
 そして、藤崎吉五郎と宮川助五郎を中心とした土佐藩士8名が三条大橋西詰に出現、制札を引き抜く動きを見せたため、原田さんの隊が現場に急行。逃走を開始した土佐藩士達に、遅れて駆けつけた新井さんの隊が追い討ちをかける形となり、新選組は有利に戦いを進めました。
 ところが、斥候の浅野さんが乱戦を怖れた為に大石さんの隊への連絡が遅れ、当初予定していた包囲体制が完成せず、土佐藩士たちは退路を確保することができたのです。また、土佐藩士の安藤鎌次の奮戦もあり、結局、新選組は8人の土佐藩士のうち5人を逃してしまうことになってしまうのです。
 捕縛された宮川助五郎を近藤さんは屯所に連れ帰り、怪我の治療をさせています。宮川は『縄目の恥を受けた以上、早く死罪になり、武士らしく散りたい』と訴え、それを聞いた近藤さんはその潔さに感銘を受け、助命を申し出る嘆願書を機関に出すのです。

 【原文はこちら】
 10月17日
土州藩 宮川助五郎
(土佐藩の宮川助五郎という者は)
事去年九月 長州之
(去年の九月 長州の人達と)
義方々之旨趣有之制
(訳あって結託し)
札乱暴之次第柄ニ付
(三条大橋の制札を引き抜くという狼藉を働き)
當組中手負之
(当組中より 隊士を向わせ)
召捕則町奉行所
(召捕ってすぐ町奉行所へ)
御渡申候處近頃平
(引渡し処分を申し付けました。 近頃 乱闘による)
愈之由既ニ長州御所
(傷も直り、これによってすでに長州の御所に置ける)
置之義モ寛大之思召
(処置も寛大の思いです。)

(ああ)
御所被仰出候ニ付
(御所にお出向きになられ)
右制札御取拂可相
(制札事件を取り扱うのであれば)
成候上ハ助五郎義モ
(宮川助五郎の事も)
一応御取糺之上御趣意
(一緒にお取調べください。)
世上一般貫徹仕栽断
(世間の人々にとって、貫き通す事、道理には合わないかもしれないが)
感佩イ多シ様去来
(心に去来する思いがあり)
可申哉愚考仕候間
(愚かな事とは思いますが、宮川助五郎の)
右御赦免歎願奉
(罪を許して(減刑)して頂けるよう)
申上候恐々敬白
(心から謹んで(お願い)申し上げます。)
                      ≪小川 忠文氏蔵≫

 この嘆願書が誰に宛てて書いたのかは分かりませんが、近藤さんが敵味方に関係なく立派な態度を示した者には、寛大な処遇をしていた事はこの書を見ても分かる事ですね。ちなみに()内の訳は私がしましたので、細かいところは間違っているかもしれません。大体、こんな感じだと思って下さい。

そしてこの嘆願書(正確には下書き)は、山口県下関で発見されています。
この書については、忘れもしない裏話があるので、次回に書き込みたいと思います。

  
 

豊玉発句集

 土方歳三が薬売りの行商の道すがら、筆を走らせた句集です。
俳号は『豊玉』(ほうぎょく)。意識的に読んだというより、頭に浮かんだものをただそのままに詠んだといった土方さんの自然体の句。全四一句の句集です。

 さしむかう心は清き水かがみ
 裏表なきは君子の扇かな 
 水音に添てききけり川千鳥
 手のひらを硯にやせん春の山
 白牡丹月夜々に染めてほし
 願う事あるかも知らず火取虫
 露のふる先にのぼるや稲の花
 おもしろき夜着の列や今朝の雪 
 菜の花のすだれに登る朝日かな
 しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道
 しれば迷いしらねば迷う法の道
 人の世のものとは見へず桜の花
 我年も花に咲れて尚古し 
 年々に折られて梅のすがた哉
 朧ともいわで春立としのうち
 春の草五色までは覚えけり  
 朝茶呑てそちこちすれば霞なり
 春の夜はむづかしからぬ噺かな
 三日月の水の底照る春の雨
 水の北山の南や春の月 
 横に行足跡はなし朝の雪
 山門を見こして見ゆる春の月
 大切な雪は解けり松の庭
 二三輪はつ花だけはとりはやす
 玉川に鮎つり来るやひがんかな
 春雨や客を返して客に行
 来た人にもらいあくびや春の雨
 咲ぶりに寒けは見えず梅の花
 朝雪の盛りをしらず伝馬町
 丘に居て呑のもけふの花見かな
 梅の花一輪咲いてもうめはうめ
 (井伊公)
 ふりながらきゆる雪あり上巳こそ
 年礼に出て行そやとんびたこ
 春ははるきのうの雪も今日は解
 公用に出てゆくみちや春の月
 あばらやに寝ていて寒し春の月
 暖かなかき根のそばやあぐるたこ
 けふもけふたこのうなりや夕げせん
 鶯やはたきの音もついやめる
 武蔵野やつよう出て来る花見酒
 梅の花咲るしだけにさいて散

みなさんはどの句がお気に入りですか?私は、『さしむかう心は清き水鏡』土方さんの凛とした気持ちが表れているようでこれが好きですね。『ふりながら〜』もいい句です(^^*)

おまけの鴨ちゃん♪

ちょっと個人的に『可愛い〜』と思った、芹沢さんを紹介!!

☆友人に聞いた話です。
京都の壬生狂言を観に行ったおりに、当時の事を地元の方とお話した時の事。

― 新徳寺さんに池があり、芹沢さんと土方さんが2人で鯉を摑まえようとした、という話が残っているそうです。(微笑ましくないですか?)

☆八木家から唐銅の火鉢を借りて2〜3日後に返ってきたが、刀で斬り込んであったので聞いてみると、「どうも済まん済まん」と芹沢さんは頭を掻き、逃げた去った。

☆八木家の幼女が亡くなったとき、芹沢さんと近藤さんの二人は受付を手伝っている。
 子供達を慰める為か、2人で絵を描いてあげていたそう。
 確か芹沢さんは『だる磨』の絵を描いていたんじゃないかな?しばらくはこの絵も残っていたそうですが、襖の下紙なんかに使って残ってないそうです。残念!!

☆虎の見世物を見に行った時のこと。
 人間が虎の被り物をしていると、噂が立ち、芹沢さんがその噂の真偽を確かめようと因幡薬師に出向いた。虎の檻の前で脇差を抜き、その鼻先に突き出すと物凄い声で吼えられた。吃驚した芹沢さんは、これは本物だと苦笑いをして引き上げたそうです。

 お酒が入っていない時の芹沢さんは、優しくて、お茶目な一面があったようですね。お酒を飲むのは、病気(一般に梅毒と云われている)の辛さを忘れる為。そのせいで、悪い風聞しか残ってないようですが


 ということで、私が『可愛い〜(*^^*)』と思った鴨ちゃんでした!

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