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江戸に着いた芹沢さん一行は、浪士組本部である伝通院に行き、参加表明をします。そこで6番隊隊長を任命されました。
永倉さんの手記には自分達が推薦したという風に書いてありますが、天狗党(玉造党)だったという肩書きと、やはり威風堂々とした姿に彼らも一目置く存在だったのでしょう。
そして2月8日、浪士組234名は中仙道を経由し京都へ向かいます。
2月23日 京都は壬生村に到着。
永倉さんの言葉を借りれば、道中滞りなく着く事が出来たということです。
ですが、ここで取上げたい事件があります。そうです、本庄宿で近藤さんが宿を取り忘れ、芹沢さんを怒らせた
◎『大篝火事件』
これについては、どの本でもまことしやかに書かれていますが、創作の可能性もあるのです。そもそもこの話が始めて書かれたのは、北海道小樽新聞に掲載された『新選組顛末記』で、次に新選組のバイブルとして評価されている『新選組始末』。本人、または当時の方々の話を聞いての小説という事で、史実として扱われているところが多々あります。私が、持っている史実を中心とした書籍には、この事件について書かれているものは1行もありませんでした。ただし、本庄宿泊まり後の2月15日の廻状留で『火の用心』の御触れが出ていますので、多分この箇所を膨らませた話ではないかと思います。
京都での芹沢さんの所業は、だいたい皆さんが知っているとおりですね。
まず、隊士の格好が悪いというので大阪の鴻池(平野屋説も)から200両もの大金を借金(脅して)し、隊服を大丸で新調します。あの有名なだんだらの羽織です。
◎次に『大阪相撲事件』
これについては、永倉さんと嶋田さん双方供に日記に書き残しています。ただ、何故大阪に居たのかに弱冠違いがみられますが。一応記してみますね。
永倉さん『浪士文久報告記事』より
― 大阪に御用のため〜
嶋田さん『嶋田魁日記』より
― 大阪の与力の風聞が悪く、新選組においてこれを探索していた〜
前記は、夕涼みで、後期は探索中に、道中で2回相撲取りに会いました。彼らに対して無礼を働き、悪口を言ったので、斬捨てられるところを打倒したのみにしたところ、相撲取りはこれを恨みに思い、4,50人の仲間と供に手に手に六角棒(八角棒)を持って襲ってきたのです。で、しょうがなく相手にしたようです。これだけ読むと、芹沢さん達に落ち度は無いように思いますが、如何でしょうか?
◎次は『角屋狼藉事件』
新選組の宿が手狭ということで、嶋原は角屋で一統の集会を開き、その後で宴会となったわけですが主人の角屋徳右衛門は新選組を毛嫌いしており、特に芹沢さんとは犬猿の中といってもいい位だったようです。なので、自分のところの仲居を1人も入れず、他の店に任せてしまうのです。で、この仕打ちに対して芹沢さんは怒り、お酒の力も手伝ってか大暴れし、7日間の営業停止を命じるに至ったのです。
◎『大和屋焼討ち事件』
これは、永倉さんと嶋田さんの日記に記述はみえませんが、文久3年8月12日に葭屋町一条下ル生糸商、大和屋庄兵衛宅に芹沢さんが乗り込んで発砲し焼打ちにした、と本に書かれてあります。
で、調べてみました。当時のこの事件を書いた記事を読んでみたのですが、はっきりと芹沢さんの名前を出しているのは、『新選組始末記』のみでした。
あとは、壬生浪士、浪士、誠忠浪士、浮浪の徒という書き方だけ。芹沢さんの行為としているのはありません。確か当時、新選組の名を騙るものがおり、隊としても取締りを強化していた時期と重なるので、もしかしたらこれが、芹沢さんにスライドしたのかもしれませんね。(だからといって、犯人じゃないとは言い切れませんが)
私が、芹沢さんについて疑問に思ったのはこの位です。世間一般的に、乱暴者だと定着していますが、反面、教養深く、心優しい一面もあったようです。
病気により、情緒不安定なところがあったみたいですが。
去年の大河の影響で、芹沢さんが見直されています。今までの悪いイメージが少しでも払拭出来れば、と思っています。
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