新選組全般

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京都パレードまであと1週間となりました。
気合入りまくりです。ただ、4時間灼熱の道路を歩けるか?それが心配・・・
祇園祭真っ只中なので、凄い人込みでしょうね。鉾見る体力残ってるかな・・・
また、帰ってきたら報告しますね(^^)

さて、この前の続きの
      ◎山南さんは本当に『脱走』したのか?

1: 永倉さんが晩年に語った『新選組顛末記』
   一般的に有名なのは、山南さんは突然に隊から姿を消し、それに気づいた近藤さんが沖田さんを追ってに向かわせ、大津で捕捉。隊に連れ戻され、隊規違反により切腹。介錯は沖田さん。
 これはインタービューした人の創作が入っている可能性があるので、史実としては難しいかも。

2: 明治二十二年、西本願寺の寺侍、西村兼文が記した『新選組始末記』これによると
     慎激ノ余リ一書ヲ遺シ 丑三月下旬終ニ自刃ニ臥ス
    と書いてあり『脱走』と記していません。

3: 平成十年、幻とされていた永倉さん直筆の『浪士文久報国記事』
   これには一言も山南さんについて触れられていない。明里さんとの出窓越しの最後の別れをセッティングしたと言われているにしては、何も記述がないのは、別にその死にやましい事が無かったからではないでしょうか。

4: 肥後熊本藩士 上田久兵衛が郷里の父親に書いた手紙
   壬生屯所の近くに肥後熊本藩邸があり、二月二十二日の様子を書き記している。
   ―(中略)鎖帷子などにて抜き身の槍を掲げ、新選組四、五十人、息を切って駆けてゆき候。余程のことにござ候。
   この方は、後日新選組にこの時の出動理由を尋ねている。理由は、博打をした隊士が見廻組に捕らえられたので、との返事だったそうです。
   *本当はこの出動こそが、山南さんの捜索だったのでは・・・とも。

5: 伊東甲子太郎さんによる、山南さん追悼の詩
   伊東さんは、四首もの挽歌を残している。前書きには、『山南氏の割腹を弔ふて』とある。
   脱走し、死刑を執行された山南さんに送る歌にしては、繊細で友愛に満ちたもので、これもその死にやましいものが無かった事を証明してはいないでしょうか。
           春風に吹きさそはれて山桜
            ちりてそ人に おしまるゝかな   (四首の中の一首)

 まだ他にもあるかもしれませんが、ざっとこれ位ですか。
 日野時代からずっと居たにも関わらず、本当にこの方は史料がないです。手紙といえば、年賀状が2通残っているだけだし。壬生時代は、周辺民衆から好感を持たれる人物だったということだけ。謎が多いです。(だから、惹かれるのかも)

 私の中でのイメージでは、山南さんは『脱走』ではなく、苦悩の末の『自刃』。
 本当に隊を抜けたかったんなら、正当な理由を挙げあれば脱退出来たはずだと思いますしね。

 山南さんは、京都にある『光縁寺』に今も眠っています。このお寺の紋は「丸に立葵」。山南さんと同じですね。生存中はよく訪れていたそうです。
 私は京都に行くたびに、ここに訪れ山南さんや他の隊士の御墓参りをします。御参り、というより話に行ってる、というのが近いですね。

あ〜、また長くなってしまいました(*_*)
最後まで読んでくれた方、まとまり悪くてすいません。そして、ありがとうございます。感謝!!

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続・山南さんの事

此処何日か、九州地方は短時間で雨が集中的に降ったり止んだり・・・確か1週間前、水不足を心配してたのが嘘のように思える今日この頃。
 私のプログに訪れて頂きまして、有難うございます。繰り返しになりますが、本当に初めてで手探り状態なんですよね。が、なんとか頑張っていきます。
 
この前の続き、を記載させて戴きます。あくまでも私の推測を含みますので、真実かどうかは全く分かりません。この人は、こんな考えなんだ、程度に読んで貰えれば幸いです。

★新選組総長 山南敬助
 山南さんは『切腹死』するまでの1年5ヶ月もの間、まったく隊としての活動はしてなかったようです。病と称していたみたいだけど自主的な隊務拒否だったみたいです。
 彼にいったい何があったのか?

 当初、新選組が目指していたのは不逞浪士狩りや同志の処断・粛清ではなく『攘夷』という崇高な使命だったはず。しかし、池田屋事変によって結果的に不逞浪士狩りのプロ集団とみられ、最初の目的から大きく外れていく。学才に長け・生真面目な山南さんには、こうした日常に我慢できなくなっていたのかもしれません。理想と現実のギャップの狭間で、彼の精神は極限まで追い詰められていた事でしょう。
 元時元年五月三日、近藤さんが幕府に提出した、攘夷の決行の推進、そうでなければ新選組の解散を賭けた書状に山南さんも自分の進退を賭けていたのではないでしょうか。結果的にこの書状は握り潰されたのですが。
 そして、西本願寺への屯所移転問題で土方さんとの衝突。総長という肩書きのみの、自分の存在。
募る孤独感についに山南さんは隊を『脱走』するのです。あとは皆さんが知っている通り、沖田さんが大津の旅籠にいる山南さんを連れ帰り、そして・・・

あの有名な『明里』さんとのお別れのシーンは作家の創作によるものだと思います。そうは、思っていても去年の大河では大泣きしました。堺さん、最高〜!!

あ、話が逸れましたが、ここで問題にしたいのは果たして本当に山南さんは『脱走』したのか?
次回は、そちらについて書いてみたいと思います。(←しつこい?)

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山南敬助さんの事

カテゴリを変えました。まだ慣れてなくてすいません。
今日は私が好きな【新選組総長】山南敬介について、カキコしたいと思います。

山南敬助
★天保四年(1833)生まれ
★奥州仙台出身(山南性は奥州仙台には存在しないので、稀観性とされる)
★家紋は「丸に立葵」
 仙台藩士で同様の家紋を持つのは、本多弥門という1000石取りの上級藩士がいる。推察するに、山南さんは本多家由縁の用人だった可能性が高い。
★剣の腕前は、北辰一刀流・免許皆伝 小野派一刀流
★万延元年(1860)天然理心流剣術道場『試衛館』に入門
★文久元年(1861)府中六所宮で行われた、近藤勇の天然理心流四代目就任披露の野試合に参加
★文久二年(1862)正月、沖田総司と共に小野路へ剣術教授に行く
★文久三年(1864)二月二十三日 『浪士組』として近藤さん達と共に京都へ。
★同年三月二十六日 壬生浪士隊の1人、殿内義雄を四条大橋の上で近藤・芹沢等と共に暗殺
★同年七月頃 岩木升屋という料亭に押し入った、不逞浪士を山南さんが叩き斬り、京都守護職・松平容保より八両の恩賞を受ける。
★同年八月十八日 八・十八の政変
   八月二十日 三条祭木町に長州浪士が多数潜伏しているとの方に報に近藤さん・土方さんと出動。浪士を斬殺する。
   九月十八日 芹沢鴨暗殺に参加。
★慶応元年(1865)二月二十三日 前川邸にて切腹死 享年三十三歳

 分かる範囲で山南さんの履歴を書き留めてみました。
次回は、山南さんの苦悩と死の真相など書いてみようと思います。

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