雑記(長州とか薩摩とか土佐・・・

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谷干城 土佐藩士

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谷 干城

天保8年2月12日(1837年3月18日)、土佐藩士・谷万七(まんしち)の第4子として生まれた。

名は申太郎、守部。号は隈山。

安政3年(1856) 江戸に出て安井息軒の弟子となり【三計塾】で学ぶ。

万延元年(1860) 桜田門外の変で藩論が攘夷と開国に二分するや、谷は【攘夷】を主張。

翌年の文久元年(1861)、江戸から土佐へ帰る途中、薩長と連携して【攘夷】を画策する同郷の武市瑞山と出会い、深い感銘を受け、【尊王攘夷運動】に傾倒。

藩の参政・吉田東洋に藩主の上京と攘夷の実行を進言するほどであった。

しかし、【8月18日の政変】で京都から長州藩を筆頭に攘夷派が一掃され、これにともなって土佐藩内でも攘夷派の弾圧が激しくなる。

幕府や朝廷へ長州の赦免を求めた谷は、一時、職を免じられ、まもなく復職したが、元治元年(1864)には左遷される。1年後に高知へ召還され、慶応元年(1865)藩校・致道館の助教となる。

慶応2年(1866)藩命で長崎へ視察。
ここで後藤象二郎や坂本龍馬と交り、外国の軍事力を知り得るとともに攘夷の不可なのを悟り、次第に倒幕へ傾いていった。

慶応3年(1867)、板垣退助とともに京都で西郷隆盛、小松帯刀と会談し、武力倒幕の密約を交わす。

この直後、11月に坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件が発生。この時、まだ息のある中岡慎太郎のもとに真っ先に駆けつけた谷は、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、更に薩摩藩邸に匿われていた御陵衛士 伊東甲子太郎らに裏付けを取ることにより、谷は原田左之助はじめ、新選組による犯行の疑いを深めた。

流山で新選組局長であった近藤勇が捕らえられると、斬首を強く求めた。彼にとっては尊敬していた龍馬の敵討ちであったのだろう。

後年、見廻組の一人であった今井信郎が、龍馬暗殺を自白するも、谷は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に非難したという。

慶応4年(明治元年/1868)の戊辰戦争では、31歳で新政府軍の大軍監として参戦。北関東・会津戦線で功績をあげる。

明治3年(1870)、藩少参事として藩政改革に尽力。翌年の廃藩後、兵部権大丞として新政府に出仕。

明治5年(1872)陸軍少将になり、翌年から暫くの間熊本鎮台司令官となる。

明治7年(1874)士族反乱・佐賀の乱鎮定後、再び明治10年(1877)熊本鎮台司令官に就任。

西南戦争の時は籠城策を取り52日間にわたる西郷隆盛率いる薩軍の猛攻に堪え勇名を馳せます。政府軍の勝利に貢献した谷は、その功績により陸軍中将に昇進。

陸軍士官学校長・学習院院長を歴任。

その後、伊藤博文内閣時代に政治家に転身。

初代農商務相(土佐藩唯一の大臣)に就任するも、欧州視察後、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策を批判し、大隈重信提案の条約改正問題で辞任。

後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開していく。
薩長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として知られる。

明治44年(1911)5月13日に死去。享年75歳
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赤根武人は、天保9年1月13日(1838年2月7日)に周防国玖珂郡柱島(山口県岩国市柱島)の医師・松崎三宅の次男に生まれた。

別名、文平・幹之丞・貞一・柴屋和平

15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に文を学び、後に長州藩重臣浦家の家老・赤根忠右衛門の養子となる。在郷時は、半年ほどであったが吉田松陰にも師事。

安政4年(1857年)には梅田雲浜の望南塾に入塾。任蔵、羽倉外記にも学んだ。

剣は神道無念流の斎藤弥九郎。文武の秀才であったとされる。

安政の大獄に伴い師・梅田雲浜が逮捕されるに伴い帰郷する。

文久2年(1862年)12月には 高杉晋作・伊藤俊輔(博文)・久坂玄瑞・井上聞多(馨)らと共に品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちに参加。

高杉晋作とは、文久2年御楯組(おたてぐみ・金沢で時折遊びに来る外国公使を殺害しようと企むが、藩主毛利定広に漏れ、櫻田邸に謹慎。謹慎中に同志らと結んだ盟約)結成以来の血盟の同志で、彼の創設した奇兵隊にあっていち早く頭角を現し、翌年10月には奇兵隊の第三代総管に就任。

元治元年(1864年)に禁門の変で敗れ、京都を追われた長州藩に、第一次長州征伐が迫ります。この事を切っ掛けに藩政を主導していた俗論派(幕府恭順派)と正義派諸隊(奇兵隊を含む武力討幕派)の調停を図り高杉と対立。

それが同志に疑われる事になり、翌慶応元年(1865年)1月に脱藩して大坂へ赴いた。
その後、捕縛され京都の獄舎にて繋がれる事に。

獄中の中で再び、長州征伐(第二次)が行われる事を知った赤根は幕府に上書して、【寛大の処置を以て放免されるならば、幕長関係の調整に尽力するであろう】と申立てている。
しかし、暫く経ってもこの上書に対する反応がないので、赤根は獄中で、

桜山昔日鐵花地慨慨何人祭我魂

と辞世の句を作り、死ぬ覚悟をしていた。

ところが、11月2日になって放免。

これは、新選組参謀であった伊東甲子太郎の周旋により幕府大目付永井玄蕃頭が決定したといわれる。
獄中の赤根の上書の意を受けた結果といえよう。

新選組局長近藤勇と共に、長州尋問のために下向した永井の随員となった。
11月16日に広島についた赤根は、五日後の21日に故郷の柱島に潜伏し、形勢を探索。

しかし、強固な抵抗に合い長州入りを断念した永井達は一路京都へ。

赤根は周旋を理由に更にそのまま長州に居残り、故郷付近の阿月、岩国あたりに潜伏していたが、12月末、柱島で長州藩士槇村半九郎に捕えられる。

正月3日、山口に送られ、一回の取調べもないまま18日には、

「奇兵隊総監所勤申脱走せしめ、上国において相捕えられ、獄中より存外の書面を差出し、帰国の上も数十日の間所々に忍隠れ、多年の御厚恩を忘却し、不忠不義の罪遁れ難い」

という反逆の徒として、慶応2年1月25日(1866年3月11日)、鰐石で斬首された。

享年二十八歳

― 真は誠に偽りに似 偽りは以って真に似たり(辞世の句)


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裏切り者と謗られたその霊は、贈位による復権は認められることもなく、死後130年程経ってやっと名誉回復され、東行庵内の奇兵隊や諸隊士顕彰墓地に建てられたのである。

岡田 以蔵 人斬り以蔵

 天保九年(1838年)生まれ。
 土佐郡江ノ口村の郷士 岡田義平の長男として生まれる。
 当時の土佐では身分による差別が激しく、多くの志士は郷士を目指したといいます。以蔵の父も『郷士』という身分をお金で買いました。郷士の身分をお金で買うことはこの時代それほど珍しいことではなかったようです。
 しかしながら以蔵の身分は郷士ではなく『足軽』でした。どういうわけか以蔵の父の思惑で、以蔵は足軽の身分を、以蔵の弟が郷士の身分を継いだのです。(足軽として、藩との繋がりを保ちたい為ともいわれています)

 剣術は独学で習得。身分の低さや道場に通うお金が無かった等、いわれています。
 しかし、1854年 武市半平太(瑞山)の道場の門を叩き、本格的に剣術を学びます。

 安政一年(1854)年 武市が叔父と槍剣道場を開き、藩内東部に剣道出張指南として、武市に従い江戸に出る。

 安政三年(1856) 武市と共に鏡心明智流の名門 桃井春蔵の道場に入塾(2年間で中伝の免許を取得)

 万延元年(1860) 武市に従って中国、九州を武術修行する。
 その後、武市の結成した『土佐勤王党』に加盟。
 しかし、なぜか後に名簿から削られています。武市の意向なのか分かりませんが、暗殺の現場には、武市の指示に従って進んで出ていたようです。
 武市が、学の無い以蔵を、ただ単に暗殺の道具として使ったともいわれています。

 土佐藩下目付けの井上佐一郎をはじめ、同志の本間精一郎や池内大学。森孫六、大川原重蔵、渡辺金三、上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人 村山加寿江の子多田帯刀などを天誅と称して暗殺(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)
 
 一時は坂本龍馬の斡旋で、幕末の英雄 勝海舟の護衛も務めました。
 文久(1863)三年三月
  徳川家茂上洛の際、一緒に上洛していた勝は、以蔵と京の夜道を歩いていると三人の刺客が現れて、斬りつけてきた。以蔵は前に進み出て早打ちに一人斬り倒すと、後の二人は逃げていった。勝は以蔵の早業に感心したといいます。
 しかし、後に勝が以蔵に対して「人殺しをたしなんではいけない」と忠告すると、以蔵は「それでもあの時、私がいなかったら先生の首はないでしょう」と言った。勝は返す言葉がなかったという。
 また勝は、武市の以蔵に対する扱いや、勤王党のテロ路線の行く末を予見・看破し、龍馬のように武市と袂を分かつように諭したが頑迷な以蔵の態度に、呆れてあきらめてしまったともいえる。(氷川清話)

 八月十八日の政変後
 土佐では、藩主の山内容堂を中心とする土佐勤王党弾圧が一気に高まります。武市が土佐に戻ると以蔵は一人京都に留まりました。
 しかし、幕吏に強盗として捕えられ土佐に搬送(土佐山田町)されます。 

 元治元年(1864) 以蔵はもちろん土佐勤王党の志士たちは拷問を受けます。
 しかしながら、郷士である武市は拷問を受けてはいません。ここでも身分による扱いの差が見られました。過酷な拷問の中、死んでいく仲間も多かったそうです。

 武市はこのままでは以蔵が全てを自白してしまうのでは、と疑念を抱きます。
 そして武市は以蔵の毒殺を図るのです。送った毒を以蔵が飲まなかったとも、毒殺する事を家族が反対して、断念したとも言われています。どちらにしても未遂に終わります。
 その武市の裏切りを知った以蔵はこれまで拷問に耐えてきましたが、ついに全てを自白してしまうのです。おの証言をもとに武市の罪状が決定されました。

 慶応元年(1865)五月十日
 武市は切腹。以蔵は、打ち首のうえ晒し首の刑に処せられました。
 享年 28歳

 辞世の句は 
     君が為 尽くす心は 水の泡
         消えにし後は 澄み渡る空

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 【坂本龍馬】
 天保6年(1836)年11月15日生まれ。
 父は土佐藩郷士・坂本八平、母は幸の次男として生まれる。 
 兄は権平、姉は千鶴、栄、乙女(おとめ)。妻はおりょう(本名は龍子)
 龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。
 慶応3年(1867)11月15日没 
 諱は直陰のち直柔。 没後、贈正四位を贈られる。

  その功績に『薩長同盟』や『大政奉還』などが挙げられる。

 慶応3年の11月、京都は『近江屋』で中岡慎太郎と共に暗殺され(実際には、中岡慎太郎は何日間か生きていた)表舞台から消えてしまった龍馬さんは、それからの時代、全く忘れられた存在だったようです。その龍馬さんがどのように名誉を回復していったのでしょうか。
 順を追って、追いかけたいと思います。まず、

◎1883年(明治16)坂崎紫瀾(高知出身)が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が、高知の『土陽新聞』に掲載されました。これは、自由民権運動に参加していた坂崎が、薩長に牛耳られていた明治政府に、忘れられた土佐藩の立場を再認識させる意味もあったようです。

◎明治37年、日露開戦が目前に迫った頃、昭憲皇太后の夢の中に武士が現れ「微臣はこの魂魄を皇国海軍の上に宿し必ず勝利へと導き奉る。」と奏上したという報道が全国新聞に掲載される。皇太后陛下はこの人物を知らなかったが、当時の宮内大臣の田中光顕(高知出身)が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになり、龍馬は一躍、海軍の神様となって脚光を浴びました。
 これも最初の坂崎と同じく、海軍は薩摩、陸軍は長州に牛耳られ、入る余地のない土佐が龍馬を利用したものと思われます。

◎大正デモクラシー。
大政奉還の基となった『船中八策』の第二条目に、「万機宜しく公議に決すべき事」とありますが、これがデモクラシーの先駆と考えらています。更に、大政奉還により平和的に倒幕を成し遂げた『平和革命論者』のイメージを定着させる。

◎昭和3年に桂浜に銅像が建立された時には、除幕式に海軍・陸軍両方の兵士が参列し、駆逐艦まで碇泊しました。さらに、第二次世界大戦中は県下の銅像はほとんど提供されたにも関わらず、坂本龍馬と中岡慎太郎は天皇の為に働いた人物ということで、二人の銅像は残されました。(西郷さんの銅像は壊されたのに)

 こうして龍馬さんは政治的に4度も利用され、された事によって人物の研究・功績が評価、一躍時の人となったのです。

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  あるTV番組を見ていたら、東京の世田谷で『松蔭神社』の紹介をしていた。
  私は、山口の萩にあることしか知らなかったので、ちょっと調べてみました。

 長門国萩松本村(山口県萩市椿東椎原)に生まれ。
 長州藩で禄高26石の下級藩士の杉百合之助の次男。幼くして叔父である吉田大助の養子となる。
 思想家・教育者・兵学者

 吉田松陰は、幕府の開国政策を非難し、朝廷の権威や攘夷の断行を唱え、老中の暗殺(間部詮勝)を企てたとして、安政6年(1859)『安政の大獄』により江戸に送られました。
 そして、同年10月27日。江戸伝馬町牢で国賊として処刑されたのです。(享年30歳)

 斬首という極刑に処された松蔭は、この時点では『国賊』扱いでした。処刑された松蔭の遺体は、その二日後に桂小五郎(木戸孝允)・伊藤利輔(博文)等の門下生と長州藩の周旋方によって貰い受けられ、小塚原(荒川区南千住)の回向院墓地に埋葬されたのです。
 この小塚原という場所は、盗賊や人殺しといった犯罪者達の遺骸も埋められていました。松蔭は罪人として、斬られた首を縫い合わすことも許される事なかったといいます。

 この処置を最も憂慮したのが、松蔭の門下生であり、妹婿でもあった久坂玄瑞でした。彼はどうにかして、松蔭の亡骸を移そうと考えていたのです。

 松蔭亡き後、1年半が経った文久元年(1861)5月。
 久坂が江戸で知り合ったとされる、松山藩の儒学者 山田方谷に手紙を書きます。内容は、松蔭の改葬が幕府より、早く許可が下りる事を頼むものでした。
 何故、儒学者の山田方谷に頼んだのかというと、彼の主君である板倉勝静は、大老井伊直弼の政策であった『安政の大獄』を批判した為、寺社奉行を罷免されたいう経緯があり、桜田門で井伊直弼が暗殺された後、幕府の重役として復帰していたからでした。同じく『安政の大獄』を批判していた、松蔭の事を理解してくれるだろうと期待したのではないでしょうか。結局は、どうにも出来なかったようですが。

 松蔭の改葬までの道程は、長州藩の藩意の道程であったともいえます。
 文久元年3月 長州藩では藩士の長井雅楽が、《幕府が行った開国を事実と認めた上で、公武一体となって国難に立ち向おう》という、(公武合体と開国)の【航海遠略策】を打出します。藩主の毛利慶親はこの策を藩論とし、中央進出を狙っていたのです。

 これに、久坂玄瑞や松蔭の門下生は大反対しました。理由は、松蔭が唱えていた、尊王攘夷の実現に反するということでした。
 久坂は脱藩し、京都で朝廷を動かし、藩主に上書して藩論を尊皇攘夷に変えさせたのです。
 1度は朝廷側からも好意的に迎えられたこの策も、久坂等と結びついた朝廷の関係者によって非難され、長井雅楽は失脚・責任を取っての自害に追い込まれます。
 長州藩は、久坂の思惑通りに【攘夷】に方針をかえ、幕府に攘夷断行を迫ります。

 同年8月 久坂は【廻瀾条議】を藩主に提出。
 これには今後、長州藩がどのように進むべきかが記されており、また吉田松陰の≪忠義の魂≫を弔い、その善行や功績などを広く知らせる事が盛り込まれていました。
 『尊王攘夷』を推進めていく中で、精神的な象徴が必要だった長州藩は、松蔭に目をつけました。最も久坂玄瑞の提案だったのは言うまでもありませんが。
 しかし、その象徴が罪人のまま刑場に埋められているのは都合が悪く、急いで藩主から朝廷に働きかけ、松蔭の罪を拭い去り、改葬・復権をするようにと幕府に命じたのです。
 
 こうして文久3年1月5日
 松蔭の遺骸は、荏原郡若林(東京都世田谷区)に改葬。
 この件に尽力した、久坂玄瑞は信州方面に出張中で参加出来ず、高杉晋作と桂小五郎に事細かに指示を書き付けた手紙を出しています。
 面白いのは、改葬は僧侶に任せるのではなく、神式でするようにと言っている事です。理由としては、仏教は外来宗教であり幕府が庇護しているから、尊王攘夷を掲げる我々としては、日本古来の神道でなければならないというものでした。

 世田谷区の墓所には、1882年(明治15年)に松陰神社が創建されたのです。

       上記の理由で、松蔭神社が東京にもあった訳です。

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