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故郷にいると心は熱さやせわしなさを失う。何もかもが触れてはならないもののように壊れやすく感じられるからだ。
6月は空梅雨の故郷にいた。駅のプラットホームへ行こうとしていたとき、向こうの下り階段をよちよち降りようとしているおばあさんを見た。リュックを背負い、両手に荷物を提げている。追いついたとき、案の定、彼女は階段の中ほどで手すりにつかまって立ち往生していた。荷物を持ってあげてベンチについた彼女と言葉を交わした。親戚の庭仕事を手伝ってこれから実家へ帰るところだそうだ。手土産をむりやり持たされて実は迷惑しているのだと笑った。
田舎が寂れていくにつれ、年寄りにはなかなか行き場所がないと言う。昔はたくさんあった店もシャッターを下ろし、ショッピングセンターとやらまで歩こうにも休み場所がない。車が必要だが膝を悪くしてからは運転も出来なくなったとぼやいた。
どこまでお帰りかと訊くと、本線の駅でまた乗り換えて県境を二つ越えるという。長旅だ。
故郷の町はどこもちり一つ落ちておらず、車は静かに流れて歩く人はいない。
ゴミのひとつにも気を遣って隣近所が暮らしている。分別や収集日を間違うとどこからか文句が来ると固く信じている。
空気はきれいでさわやかに流れ、煙草も吸えない。
丘の上からそんな故郷を眺めたとき、私は痛烈なイメージを得た。
ある国の終焉とはこの形ではないのかと観じたのだ。
十日後には東南アジアへ戻る。
そこに身を置いたとき、人のことなど考えていられないような辛辣なエネルギーに囲まれることになる。
このギャップに疲れる。
2017/07/07
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