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2016年4月29日 撮。
ぼろぼろになった熊本城天守閣。瓦は落ち、しゃちほこもいくつか無い。
下の写真は震災6日前の城内入り口付近。
きれいなお堀で、誰もがここでカメラを構える。
下は震災後の同じ地点。
立ち入り禁止となっていたので定点撮影できなかった。
城のすぐそばにある熊本大神宮。
城の石垣に押しつぶされた。
城内の名物にいくつもの櫓がある。
武器や食料の倉庫であり、兵士の集合場所であり、戦の際の最前線の防衛拠点。
ある櫓は近代になって復元され、またあるものは当時のままで残されていた。
しかし土台の石垣が崩れたのではどうしようもない。
西南戦争で西郷隆盛軍の猛攻撃にも落ちなかった名城は崩れた。
下の写真は5月1日の益城町での一枚。
周りは崩れかけた住宅や農家が広がっていたのだが撮る気にならなかった。
ただ、春のこの地域の自然は相も変わらず美しかった。
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私のカメラのメモリーには多くの戸惑いと焦りと迷いが詰め込まれることになった。
2016年春の日本。九州から東京、そして一度は行ってみたいと思っていた岩手県花巻、盛岡へ。桜前線を少し遅れて追いかける楽しいはずの旅だった。
その途上で、ふるさと熊本が揺れた。
何の技術も知識ももたない私だが、役に立たないならそれも良しという気で被災地のボランティアに参加した。
被災現場への道に迷った私を拾い、車で送ってくれたご夫妻は、夫婦ともに実家が全壊し幼子を連れて車中泊を続ける人たちだった。何の役にも立たないでしょうがと言う私に、いいえ、絶対に役に立ちます、と言ってくれた。
畑で採れたばかりのキャベツをどうしても土産に持って帰れと言ってきかなかった親父さんは「出荷どころの騒ぎじゃないんで」とつぶやいた。
爪が割れ、腰は痛み、帰りの電車の中で汗のすえた臭いを遠慮しながらも、がれきの片付けを手伝うくらいならまだできるという自分の体に気づいて嬉しかった。
泥に汚れた作業靴のまま、疲れ果ててぐったりとした若い女性のボランティアは、バスの中でうつむいたままだった。
チームを組んだボランティアたちは互いの身の内を紹介しあうことなく「ありがとう」と言い合ったまま毎夕を別れて散っていった。
どれもこれもがいとおしい。
東南アジアにまた、さらにまた飛ぶということを繰り返してきた私だったが、他の地へ体を移すということにいったい何の意味があるのかわからなくなった自分がいる。
うしろ髪をひかれる、という感覚を、私はこの春、知ってしまった。
記 2016/05/02
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2016年4月29日。朝8時半。
熊本市の繁華街のど真ん中、辛島(からしま)公園。
ここが一般ボランティアたちの集合場所だった。
全国組織である社会福祉協議会の災害ボランティアセンターが一手に仕切り、被災者の日常生活に密着した案件、つまり、がれきの片付けや救援物資の仕分けなど、あまりプロの技術が必要とされない作業にボランティアたちを采配する。
私はコンビニから買ってきたにぎりめしを食いながらこの写真を撮った。
周りの雰囲気はお祭り騒ぎに近い。 良いことだ。
写メを撮りまくり、明るい声が飛び交う。
一般人がボランティアをやるときにはこうでなくてはならない。
もしこれらの人々が皆、悲壮感にあふれた静かな群衆だとしたら、逆に救いようがない事態に見舞われたということだ。そんなときには一般人がボランティアなど出来はしない。プロのみにしか出来ない、という事態だ。
私が振り分けられた仕事はここから歩いて20分ほどのAさん宅。落ちた屋根瓦の片付けと屋内の掃除だった。年寄りしかいない家庭なので手伝いがいないとどうにもならないというお宅だった。公園で作られたグループは全員男性の5名。正式に派遣されたボランティアである身分証明書代わりのステッカーを腕に貼り付けられて出動した。
澄んだ水が流れていたはずの市街の水路。水が涸れて、濃緑の藻たちもすっかり枯れている。一見すると水底の石たちのように見えるが、ついこの間までは涼しく揺れる長い藻だったはずだ。
白川。
水の色が変わっていた。上流の土砂の色だろう。
春の釣り人もいなかった。
いったいどういう揺れだったのだろう。
ちょうどそのとき私はふるさとを離れて東京にいた。
東京と横浜を結ぶ電車の中で友からの電話を受けた。
「矢野、おまえ熊本だよね。今テレビでニュースが流れてる。震度7って言ってるぞ」
彼は私の気持ちを察してすぐに電話を切ってくれた。
満員電車の中で周りの非難のまなざしをちらちら浴びながら実家に電話をかけた。
通じなかった。
あのときの気持ちは二度と味わいたくない。
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「お客さん、どちらまで?」
そう尋ねられて、私への問いかけだと気づくまでに数瞬があった。
今年の春、岩手の遠野を訪ねた時のことだ。JR釜石線遠野駅前からそのバスに乗った私はまるで異邦人だった。周りで明るくはじけたり、独り言のようにくすんだ東北弁でおしゃべりをしていた老人たちが病院の前で降りた。
バスはいま市街を離れて田畑と、そして遠く望める山並みの道路を走っていた。山々が近くなり、また遠くに離れて景色が開けた。私は車窓に顔をくっつけてぼんやりとそれを眺めていた。
「お客さん、どちらまで?」
「え、・・・あ、○○まで」
「ああ、あそこね」
車内を眺めると乗客は私ひとり。最初に乗った客はあの老人たちと私だけだったのだ。私は少し緊張した。
「このあたりが一番景色がいいと聞いたもんで、バスに乗ったんです」
運転手さんの背筋が伸びた。
「そうそう、ほら、左手に、向こうの方に見えるのが早池峰山。いちばん高いんだ、岩手で」
「登るの大変でしょうね」
「いや、そんなこたねぇ。ふもとから車で行きゃいいとこまで登れるな」
遠くの方にまだ雪をかぶったその山があった。山頂の雪の淡い白さが春のかすんだ空に突き立っている。
悠々と。
運転手さんの言葉でその景色が私の中にかっきりと印刷された。
のぼせた私は行き先を変えた。
「河童がいるっていうのはどこでしたっけ?」
「河童? ああ、あそこね。もう停留所は過ぎたよ。ここからならちょっと歩くね」
ますます嬉しくなった。
大丈夫です、歩きますよと私は答えた。
「じゃ、次で停まります」
運転手さんが応じた。 2016/07/30
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今回の日本の旅、私は4月19日に始まる東北、岩手への旅から語りはじめたが
実際には4月3日にタイから九州熊本の実家に着いていた。
4月8日、熊本市内で高校の同窓生たちと会うことになった。
もちろん夜の飲み会だ。
そこで
昼間のうちに熊本市に入り、熊本城に登ってみようという気になった。
熊本県人でありながら、この歳になるまで登ったことがなかったのだ。
なぜ急にそんな気になったのか、今もってわからない。
虫の知らせ と言いたい。
私の実家から熊本市までは普通電車で約40分。
午後早くに着いてゆっくりと城内を歩きまわり、そして天守閣へ。
天守閣から眺めた熊本市内の写真。
この位置と高さから撮る、震災直前の熊本。
私にとって最初で最後の景色となった。
震災6日前の熊本城。
カウントダウンは始まっていたのだろう。
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日本人会青少年部演劇サークル。
日本人学校に通う生徒たちのためのサークルのひとつだ。
さして大きなサークルではないものの、ひとつの劇場を借り上げていちどに250人ほどの観客を集める舞台を作り上げるには地味だが大きな労力がこれでもかというほど必要とされる。
それは最初、母親たちによる台本の選定とキャスティングから始まる。建築でいえば地固め、鳥の子育てでいえば巣作りだろうか。私は「指導員」とやらを承っているのだけれど、稽古が始まり、最初にお呼びがかかったときには絶対といっていいほど台本に目を通していない。
どんな台本にせよ、子供たちがどう読んでどう解釈し、どう動こうとしているかを知ることが面白い。舞台に立つ俳優は私ではなく子供たちだ。
彼らにまず叩き台を提示してもらう。でなければ私は出動したくない。
最近の台本に朗読劇のシーンが入っていた。稽古が始まった。ひとりの子が朗読し、それに合わせて他の子が演技をする。私は思わず息を静めて目をそらし、耳に神経を集中した。朗読の声が生きていたからだ。言葉が素直に届いてくる。情景が目に浮かぶ。終わりと始めのあいだの沈黙にそれでもまだ胸を叩く余韻がある。
思い切って目を上げると、そこには朗読の子と演技をする子らとの見事なコラボレーションがあった。
産み出したのだ。
卵だとばかり思っていたのに、子供たちはいつの間にか舞台の上で大人の掌を離れ「産み出す者」に変わっていくのだった。彼らのこの魔法が発現する瞬間を誰よりも早く目撃できることを、私は「幸せ」と呼んでいる。
2016 07 21
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