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30年前のタイのある田舎町。町をつらぬく幹線道路はあか土だった。長い乾季のうちにアスファルトは土ぼこりに隠され、ひどい凹凸だけが目立ち、私の眼には舗装道路とは映らなかった。
高い建物などどこにもなく、ただその道路だけが乾いて白く、その町を無視するかのようにまっすぐに伸びている。ただ去るだけの道なのかとさえ思えた。地平を覆っている森の影は遠くて低くて薄く、前景の畑がいまどれほど乾いているかを物語るだけだった。
道に沿ってそのまま行けば川が流れているという。その流れに出逢うまで歩いてみた。くっきりとした緑を見たかったからだ。
小さな川は短い橋の下を流れていた。木陰から出てきた男がひとり、膝下までの川のなかに入り小さな網を投げていた。投げても探っても、確かな収穫は無さそうにみえたが、彼は飽くことなく網を投げ、引き寄せ、その網の目のあいだを探ることを繰り返した。
幹線道路をはずれてわき道へ入るともうそこは畑だった。
あぜ道をよろよろと辿れば、ひび割れた畑の向こうに屋根だけの掘っ立て小屋があり、そこに横たわっていたのはひとりの老父。ただその姿を遠く見つけただけで私は立ち止まってしまった。
足元の畑は見事といいたいくらいの深い亀裂に覆われつくしていたし、あの小屋にしか影はない。背中を陽にあぶられながら私は畑の土を手にとった。
石かと思えた。コンクリートのかけらかと感じた。
このひび割れた大地から本当に収穫があるのか。
土と人間が織りなす「農」という闘い。
いま、私は机上であのときを思い出している。
2016・04・02 |
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このバンコクという街はときにカメラのシャッターを押す人をがっかりさせる。
熱くて明るく、かしましい昼間光が氾濫する時間帯は、へたな人が使うカメラには露出オーバーかアンダーの写真しか残らない。
かといって建物の陰に陽が隠れ、そろそろ帰宅の人々の足が増え始めるというころになると屋台が灯をともす。色さまざまの蛍光灯であったり、裸電球の尖った光であったり、これまた自信をもってシャッターを押すまでには時間がかかる。
そしてはじめて気づくのは、その明るい場所へと続く細い道たちの暗さだ。
昼間の人の波は屋根の下の影に吸い込まれるが、夜の人の波は大通りの歩道を埋める。そこへ続く小さなソイにある店は昼間の疲れを癒すためにシャッターを下ろす。そのような裏道は帰宅が遅くなった人々には敬遠される。
私は暗ければ暗いほど、灯が遠ければ遠いほど惹かれるという妙な癖をもっているけれど、そんな裏道で実名で呼び止められたことがある。
振り向くと壊れたまま放置された電話ボックスの向こうに女性が立っていた。私の行きつけのバーにむかし働いていたと言う。と、いわれてもそのかけらさえ思い出せなかった。着古したTシャツとGパン、衰えた肩や二の腕、欠けた歯と焦点が定まらないまなざし、目の下の隅は、その後の彼女を蝕んだものを教えていた。
その場所の夜は今、明るい。
夜行性とそうでないものとの境がわからなくなってきたのだ。 昼と夜とのコントラストがあいまいになることを、人は「賑やか」とか「発展した」、と表現する。
得られるものも失われるものも多いのだった。
2016・05・19
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2016年4月20日。 花巻からJR釜石線に乗る。 「銀河鉄道の夜」のモデルとされた旧岩手軽便鉄道だ。 約90キロの路線で、花巻から太平洋岸の釜石を結んでいる。 愛称は「銀河ドリームライン釜石線」。宮沢賢治が作品中にエスペラント語の単語をよく登場させていたことから、各駅にエスペラント語による愛称が付けられている。 私が降りたのは花巻から2駅目の新花巻。新幹線の駅だ。 愛称はステラーロ、星座。 駅員さんのユニフォームがやはりなんとなくわざと童話風でかっこいい。 私がここで降りたのは、ここに賢治記念館やイーハトーヴ館、童話村などがあるからだ。駅前には「セロ引きのゴーシュ」を主題にした小さな広場があり、近づくと自動でセロのクラシック音楽が流れてきた。 昨日から私は駅とか観光案内所で手に入れた地図やパンフレットを頼りに花巻を歩いている。 しかし、少しずつ何かが遠ざかっている気がして仕方がない。 まるで目的地にたどり着けない彷徨のような。 何だろう、この違和感は? 歩いた。 道端に設置してあった子供たちの絵の一枚。 描いたのか、描かされたのか。 どちらかといえば後者だと思う。 賢治作品をモチーフにした絵を募集するというイベントが行われ、 町中の小中学校が協力させられた、ということではなかろうか。 ただ、この絵だけは素直に魅せられた。 漫画チックな絵だが、あの童話のあのシーンが本当によく描かれている。これから先あの童話を読み返すことがあれば、私はこの絵を思い出すことになるだろう。 文枝ちゃん、ありがとう。 私は賢治の手帳が見たかった。50年間、見たいと思い続けてきた。 11月3日付、「雨ニモマケズ」で始まるあの手帳のあのページだ。賢治記念館にあると聞いていた。 なかった。 磨かれたガラスのケースの向こうにあるその手帳をしばらく見ているうちに、 古いものとはいえ、インクの暖かさが無いことに気づいた。 メガネをはずし、もう一度しげしげと眺めてみた。 違う、と思った。レプリカなのだった。 本物は宮沢家が保管している。偶然だが今年は賢治生誕120年にあたるという。街なかのポスターで知った。 そうだったのか…。 そして今年8月に本物が展示されるという。 東北地方太平洋沖地震の後、「雨ニモマケズ」が注目されたことから日本各地で何度か展示されたそうだ。8月になれば多くの人々がこの記念館を訪れることになるだろう。 さて、この賢治記念館にしろ他の施設にしろ、本気で真剣に隅々まで見てまわろうと思えば1日ではできない。膨大な資料や展示物、賢治研究の成果の発表があり、つまりは、賢治についての解釈が展示してあるということだ。 花巻に着いてまだ24時間経ってはいない。 けれども、箱モノを訪ねるのはもうたくさんだと思えた。 この花巻という町は、宮沢賢治一色だと感じていた。工場の倉庫にさえ、大きく賢治の佇むシルエットが描かれていたりする。そのうち、横断歩道を示す道路標識さえ賢治のシルエットかと思えたりするようになる。たった24時間で、だ。 何だろう、この違和感は? よし、歩こう、と私は決めた。 |
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2016年4月19日。 東京を出て北へ。宮城県仙台まで新幹線。 それからあとは普通電車に乗り換えた。 岩手に入るときは各駅停車で、ゆっくりとクニザカイを越えたかった。 小学校5年のときに宮沢賢治の「風の又三郎」を読んで以来、50年近くも経ってやっと岩手を訪ねることができる。あのころに感じたショックを今また思い出すことなどできはしないとわかってはいるが、今を逃すともう旅はできないという気もしていた。 平泉を過ぎると車窓の向こうの山並みは急に様相を変えた。 あ、入った、と思った。 想像の世界だけだった思い出が、ほんの少し、よみがえる予感がした。 けれども、 熱くはなれなかった。 なぜだろう。 まあいい、そんなもんさ。 夕方5時前、花巻に着いた。 花巻は、背の低い街だった。 ほっとした。 高いビルなどない、地平を山に囲まれた街。 駅前にビルが立ち並んでいる、日本のどこにでもあるような味気ない風景を想像していたのだが、うん、来てよかった、と少しだけ思えた。 旅装を解いて、街を歩く。 もうすぐ日が暮れる。今日はとりあえず「ぎんどろ公園」とやらを訪ねることにした。 賢治作品ゆかりのモニュメントがあるという。初日はこのくらいでよかろう。まず歩いて、街の広さを体に感じさせることから始めようと思った。 ふうん、これがぎんどろ公園かぁ、と思いながら歩き回っていると、 この公園の由来を書いた碑に出会った。 「花巻農学校」跡地だという。 尻を後ろから蹴り上げられた気がした。 賢治が3年間教鞭をとったあの学校じゃないか。 そんなことも知らずに私は歩いていたのだった。 私が持っていた観光地図にはそんな由来の公園だとは一言も書いてなかった。 書いとけや!
少し青ざめて、もう一度公園の入り口まで戻った。 そして、目を見開いて、歩き直した。 夜になった。 |
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今回のイベントで日本から来ていただいた北京一(きた きょういち)さん、67歳。 この方のパントマイムのワークショップを受けた。 これからの何かがひらけた気がした。 よく考えてみたら、舞踏やダンスなどのワークショップはこれまでも受けたことがあったのだが、タイに住むようになってからパントマイムのワークショップは、見学したことはあっても受けたことはなかった。 今も思う。 なんて贅沢なワークショップだったのだろう、と。 北さんはまったく出し惜しみのない人だった。 頭の先から足のつま先まで、気持ちの持ち様から空の飛び方まで、 花の咲かせ方から人類の行く末まで。 とんでもないエネルギーで教え、言葉に詰まるとその場で常にやって見せてくれた。 参加した私たちは今、あまりに多くの贈り物をもらって、どうしたものか途方にくれている。 これまでの私個人の経験で、唯一最高のワークショップ。 このワークショップには 感謝しか ない。 |



