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水平線の向こうになにがあるのか知りたい。あるいは何も無いのか。これが人類の歴史を動かし始めた疑問、情念のひとつだった。起伏が見える地平線の向こうに、起伏の無いただ一直線の水平線があったからだ。
文字通り取り付く島もないその一本の線。それが無限を現していると感じたとき、畏怖と欲と冒険心が船出を促した。歴史的な肝試しが始まったのだ。
海の向こうを初めて目指した者たちのなかに「もし本当に何も無かったら・・・」という悪夢のような疑念は必ず湧いたにちがいなかろう。それでも人は海に出た。死ぬのが怖くて生きているだけの私には理解できない情念だ。
いま、ひとりの日本人がこのバンコクを離れ、日本へ活躍の場を移そうとしている。幾多の苦労と裏切りを味わいながら、一軒のオーガニックレストランで在タイ日本人の胃袋と食感を切り拓いた男だ。
「食から世界を変える」という道をさらに一歩進めることが日本行きの目的だという。
「食は政治に直結する」とはよく言われる言葉だが、それを真正面から証してみると彼は言う。
日本という島からタイという大陸の国へ、
そして今またあの島を実験してみる気なのだ。
ひょうたん島は自ら動いて海を行く島だった。 だからこそあれだけの色んな登場人物を取り込むことができたのだし、 ドラマを作ることができたのだ。 自ら動くことでしか人は人に出逢えない。 彼は動く島になる。 2015 06 24 |
タイで生まれた
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「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録。申請対象には私の故郷、熊本にある三池炭鉱跡も含まれている。
私が幼稚園から小学校に上るまでが「3丁目の夕日」の時代だった。
当時の故郷、今にして思えば炭鉱でもっとも栄え、そして荒くれていた時代だ。
ある夜、幌付きのトラックが商店街のど真ん中に突進して停まった。中からわらわらと飛びでたのは手に手に警棒を握った警官隊。しばらくすると地下足袋、腹巻姿の男たちが何人も手を縛られ、トラックに載せられていった。路地の奥のビリヤード屋への、賭博容疑での一斉検挙だった。幼稚園児のわたしは呆然とそれを見ていた。
そんな街なかの、赤土の路を屋台がやってくる。
いちばんの思い出は「きび団子」。
シャカリ、シャンシャンというリズムで鳴子を鳴らしながらオートバイに引かれた、屋根をもつリヤカーだ。竹串に5、6個の平べったく丸い、暗灰色をした団子が刺さっている。それは熱い湯に通された後、砂糖入りのきな粉をまぶされて手渡された。おいしかった。
しかしその屋台も、私が小学校にあがる頃にはいつしか消えた。
屋台文化の本物を私は始めてタイで知ったのだと思っている。タイの屋台は深く深く人々の個々の生活に根ざして、いまもこれからも消えはしないと思えるのだ。その逞しさと優しさに触れて愕然とするときがある。わたしはいったいどんな屋台をひいて生きているのかという想いが湧くようになったからだ。歳のせいかもしれない。
親からもらった身体と名前だけで、わたしは裸足のまま空の屋台をひいて生きていはしまいか。
2015/06/10 |
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去年の4月、わたしは30年ぶりに京都を訪ねた。大学時代を含め6年を過ごした街だ。
河原町今出川(かわらまちいまでがわ)の交差点から東を望むと賀茂大橋の向こうに大文字山(だいもんじやま)が見える。夏の五山送り火で「大」の字が燃えるその山の稜線は変わっていなかった。 山を右に見ながら、ある喫茶店の扉に手をかけた。眼がくらんだ。山と同じく30年前と少しも変わらない扉だったからだ。この扉にはあの頃の私の手垢もついているのだった。 京都の伝説の喫茶店「ほんやら洞」。 中に足を踏み入れると、そこには客もいなければ従業員もいなかった。トイレのドアのちょうつがいは全部はずれ、壁に斜めに立てかけられたまま。この30年で何が起こったのか、あの頃の賑わいをなくした京都の縮図がここにもあった。ただ、客を迎え入れること、あの当時と手触りも匂いも変わらぬ空間だけは奇跡といっていいほどそのままだった。 懐かしい木造のテーブルの向こうからむくりと起き上がったのは著名な写真家でありほんやら洞のすべてを知るただひとりの経営者甲斐扶佐義氏だった。 30年前のほんやら洞によく通っていたこと、あの頃のあの人やこの人のことを話すと、氏は私の写真を撮らせてくれと言った。京都の春はまだ浅く冷たかったけれど、真昼間からバーボンのロックを呑んでわたしは暖まった。 30年前、九州の片田舎から出てきたばかりの小便臭い私はこの店で、想像さえできない変わった人生を歩いている人たちに出会った。この店こそ、今日のブックカフェ、ギャラリーカフェなどに代表されるカフェ文化の先駆けだったのだ。 しかし・・・。 わたしは京都の街にあまりいい思い出をもっていない。
それは京都が悪いのではなく、わたしの学生時代が冴えなかったせいなのだが。
30年ぶりに訪れた京都で私はいつまでも街に出る気が湧かずに駅のベンチに座った。あの頃の喪失感や嫌な想い出がそのままの生々しさで私を襲ったからだ。懐かしさなどひとかけらも無かった。夏の暑さに打ちひしがれ、雪の冷たさに凍え、春の桜吹雪の下で俯いていたわたしが30年経ってもそのままここにいるとしか思えなかった。
賀茂川の土手を登ってそこに昔と変わらぬほんやら洞を見つけたときだけ、私は少し温まった。休める、と思ったのだ。
バーボンを飲みながら甲斐氏に撮ってもらった写真は、私がほんやら洞で撮られた最初で最後の写真になった。
今年1月ある日の未明、ほんやら洞は原因不明の出火で全焼した。
そのニュースを私はこのバンコクで知ったのだった。
ほんやら洞をつぶしてビルを建てようという地権者側の計画に反対し、交渉しようとしていた矢先だったという。
京都からまたひとつへそが消えた。
43年間のほんやら洞の歴史とこの喫茶店が担ってきた栄光の日々の記録もまた、雑然としたライブラリーだった2階で燃え尽きたという。
あの時撮ってもらった写真のなかで私はいったいどういう眼をしていただろうか。
それを知るすべはもう無い。賀茂の流れを眺めながら歩き疲れても、もう休むところなどあの京都には無いのだ。
たった一軒のカフェ、いや喫茶店がなくなることで私はあの頃にさようならを言い、
京都はまたわたしに背を向ける。
2015・05・19
去年の春のほんやら洞、私のなかの最後の姿 数枚をここにとどめておく。
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花は、なにを、とどけるのだろう。 わたしの部屋の小さなベランダに蘭の花がひと鉢、ある。 最後の花が散ってから3年が経つ。その間、葉は茂っても花が出る気配はなかった。放っておいた。 けれども今年、水掛祭りがもうすぐ始まろうというころ、鉢のなかで何かが変わったらしい。突然のように花茎が出てきたのだ。名は知らず、この種の蘭は葉と葉のあいだから一本の細く硬い茎がまっすぐに伸び、その先に必ず五つの蕾をつける。 そう、そうだった。もう咲かないのだと諦めていた花の記憶が私のなかに蘇った。もう一度咲くのか。本当に咲くのか。
小さな汚れたベランダがいまの私にとっては大きな華麗な舞台に思われる。観客である私と役者のあいだに距離はない。その舞台はまだ序章が始まったばかりで蕾は硬い緑色、ようやっと少しのピンクが染みはじめた。わたしは五つの蕾をひとつずつ唇に挟んだ。煙草とアルコールにすえた様なキスなど誰も望むはずがない。これで咲かなくなれば植物には感情があるという説をわたしは支持しよう。ベランダで死んでいたカブトムシとか、チンチョとか、この鉢の土のなかに葬ったことを思い出した。
花はなにをとどけるのだろう。唇を離したわたしの口から洩れた言葉は「お帰りなさい」という稚拙なひとことだけだった。気づくと暑熱のあいだから風が湧き、西の空は不穏な暗い色で時おり稲妻に内側から射されている。雨季が始まったらしい。すべてが新しく動き出した。けれどわたしだけがまじまじと蕾を見つめながら座り込んで動けない。 とどけられたものがわからずに。 2015・05・05 |
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この国で経験した真夏の怪談をふたつ、小さい声であなただけに。
ひとぉつ。 それは突然あらわれた。わたしはコンピューターのキーボードを一心に叩いていた。視界の片隅で何かが動いた。顔を挙げてそのまま凍りついた。 歳のころなら小学校3、4年くらいの男の子が肩を落としてわたしのすぐ横に立っていたのだ。距離にして50センチ。 その子は弱い声で呟いた。 「お母さんが、・・・いない」。 自分が死んだことにまだ気づいていない幼子の霊が、引っ越していった母を捜してまださまよっている、
とでもいうのだろうか。
ふたぁつ。 部屋の入り口にはすだれがかけてある。その向こうから「ごめんください・・・」と か細い女性の声が日本語で聞こえた。 目をやるとすだれの向こうには誰もいない。ただ声と二人の女の気配だけがその横の壁の向こうから部屋のなかへ入ってくる。 例えていえば、若い姫とその従者であろう中年の女性だと感じた。 姿を見るのは危ない。 私は、部屋の中を覗かないでくれ、そのまま姿を見せずに去ってくれと懇願した。 やがて足音だけがアパートの廊下を遠ざかっていった。 このバンコクにも、日本の「牡丹灯篭」がある、
とでもいうのだろうか。
どちらもドアを開け放して暮らしているわたしの部屋で起こったことだ。 ひとつめは、他人の家もどこもみんな一緒だという田舎暮らしの感覚を持ち込んだ家族の男の子が挨拶もなしに私の部屋に入ってきたのだったし、ふたつめはどこかの宗教団体の勧誘だった。この部屋に私がいることを知ったのはバイクタクシーの兄ちゃんたちの情報とか、セキュリティのないアパートの経営からだろう。 プライバシーに重きを置かないこの国だが、もうすぐ、ソンクラーン(水掛祭り)という無礼講もやってくる。 「なんと親密な人間関係だろう」と優しく思える人は この国で幸せになれる。 かもね。
2015・04・07 |



