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バンコクの運河のそばにはよくモスクが建っている。確かにモスリム系のタイ人が多く、南タイ出身者も集まってくる。アユタヤ時代に捕虜や奴隷となって運河建設に従事させられたマレー半島からの人々。更にはトンブリ王朝時代にアユタヤから移り住んだモスリム系の人々など。これらの子孫が多くは運河沿いの居住区にいまも住んでいる。
こういう地域をぶらぶらしていると必ずといっていいが、どこからか鳥のさえずりが聞こえてくる。軒先にぶら下げられた鳥かごの中からだ。南タイには小鳥を愛でる習慣があって、美しいさえずりをするものは高値で取引される。 飼い主の鳥に対する気の遣いようは並大抵ではない。エサの子虫を一匹、また一匹と掌のうえで選別しながら、雨が降るといっては鳥かごに毛布をかぶせ、猫が来たといってはほうきを持って大騒ぎをする。鳥を愛でる目のなかにはこいつがいくらで売れるかという商人の目の狡猾さと、さえずりに引きずりこまれて振り返らないドラッグジャンキーの恍惚がある。 その鳥かごにも時に見事な意匠がほどこされていて、まるで竹ひごでできたパビリオンといいたくなる。 あるとき、その鳥かごを道端に座り込んで作っている人を見た。バイタクの兄ちゃんだった。彼もまたこの辺りに住み、バイタクを生業としているのだろうが、故郷から身に付けてきたクラフトマンシップがアルバイトになっているらしかった。 あのかごにまた一羽の鳥が入る。 そっと忍びよって逃がしてやったらどんなに気持ちがいいだろう。 バンコクの空で生きていけるかどうか知らないが。 2014・07・14 |
タイで生まれた
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いろんな写真とか、タイで活字として発表したエッセイなど短・長文の数々を、発表時期不同で。
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「凛とした」という美しいが怖い日本語がある。
リンという音の響きのまろやかさとは裏腹に、語源としては冷たい氷に触れた瞬間を表すという。心身が一瞬にして引き締まるようなきっぱりとしたさまを表すのだそうだ。抜かれた日本刀のすらりとしたたずまいを眼にした瞬間、といえばもっと当てはまる。
けれども、言の葉は言の葉であって、そんな言い方がそのまま当てはまるさまに出逢うようなことは極めて少ない。たとえば、「凛とした人」に出逢うことなど。
新年の初頭、私はまったく言葉を声にして発することのない日を一日、また一日と過ごしてしまった。日本人と会うことも話すこともない寝正月だったからだ。ひとり酒を飲み、読み終わっていなかった本に手を伸ばし、書き続けられなかった台本などを引っ張り出して時は過ぎた。ごそごそと起きあがった新年3日の夕暮れ、薄いが澄んだ空色をバックにむら雲の波は濃いピンクに染まってバンコクの上を覆い、その色は日本の春の宵の桜の色を想わせた。
そうして暮れたその日の夜の料亭の庭先で、わたしはまさしく凛とした日本の女性と二人だけの食事をした。彼女の言葉と笑みと立ち居振る舞い、そして眼差しの、温かいが切れ味鋭い一瞥などにすっかり酔わされながら。
わたしはただただ酒の杯を重ね、とりとめのない話を繰り返した。
目の前にある日本料理の小鉢や皿が「少し黙ってみたら」と囁くまで。 もし自分の手料理で想いを女性に伝えることができたなら。
もしそんな技量がわたしにあったなら。
きっと人生は変わっていた。
言葉が自信を失う、そんな年明けだった。
2015・01・12 |
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タイ語で雪という単語は「ヒマ」だ。ヒマラヤのヒマからきたのだそうだ。
ヒマラヤを見たいと思えば、タイからだったらやはりネパールが一番だろうか。
飛行機で約4時間。
首都カトマンズから西へ200キロにあるポカラの町のホテルの屋上から見上げたマチャプチャレやアンナプルナたちの息をのませる景観が懐かしい。
天気が悪く時おりみぞれまで降る日だったが、その雲の一ところが裂けて純白の何かが天空に見えたときはその場にいる誰もがやはり白い雲だろうと思った。それが峰々に積もった万年雪だと気づいたときの衝撃が忘れられない。首が痛くなるほど見上げるこの角度の遠くになおも山があるなんて。
思い出に浸りつつ地図を広げていると
私はこれまでヒマラヤ山脈の周りを右往左往してきたことに思い至った。
「机上の旅」という言い方がある。机の上に地図を広げる。俯瞰してみる。高みからの目を通して見てみるのだ。アンテナさえきちんと立てているならばその机上の地図から見えてくるものは驚くほど多い。
そこには天国のようなと形容されるブータンがあり、一昨年まで何度か行ったバングラデシュがあり、もっと西にはアフガン難民キャンプを初めて訪ねたパキスタンがある。ヒマラヤの向こうにはいまも中共から民族・文化的虐殺を受け続けるチベットがあり、彼らはヒマラヤを越えてネパールからインドへ逃れる。
ヒマラヤの周りには天国と地獄が点在するのだった。
あの時のポカラの細く長い畑のあぜ道を、遠くから歩いてくる籠を担いだ農婦の黒い影が脳裏に揺れる。
まなざしは見えない。
2014/09/10
写真はもちろん、イメージです。 |
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タイで田舎町を初めて経験したのは東北タイのブリラムだった。昔の話だ。
駅のそばにたつ時計塔、そこから歩いて15分ほどのところに部屋を借りて過ごした。安い装飾電球を精いっぱい飾りつけたダンスホールもどきが隣にあり、今にして思えばそれは明らかに男が買い女が売るという遊び場だった。
月の無い夜、暑くて寝苦しい部屋を出て町のはずれへと歩いてみると、街灯などどこにも無い路が畑のなかを伸びていた。足元さえよく見えない暗さだった。その暗さの向こうから気配と音が近づいてくる。電灯のない人力のサムローが前から来ると、お互いにぶつかりそうになるまで近づかないと避けられない。
来た道を振り返った。そこにも闇があった。が、その底は音もなく明滅していた。明滅する巨大なランタンが闇の地平に並んでいる。遠い地平線にはいくつもの積乱雲がたち上がっていたのだった。そのなかに稲妻が走ると雲は闇との間にくっきりとした境界を生み出してその大きさを現した。その一瞬だけ姿を現し、次の瞬間にはまた闇に消える。その雲たちが孕んでいる無言のエネルギーに愕然とした。
なにからなにまで初めての相貌をもつ夜だった。
次の日の早朝、「若いパパイヤを使った料理」というものにでくわした。美味いと思った。辛、甘、酸、苦がこのような混じり方をした料理は初めてだ。リヤカーを改造したような頼りない屋台だった。その屋台が置かれていたその先には、昨夜たどった路が朝の光のなかに伸びていた。
まっすぐだった。
2014・06・10 |
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ソンクラン(水掛祭り)の時季の猛暑を逃れてしばらく日本を旅した。 東京から春先の長野へ、日本アルプスの山々を臨む村から上州へ、そして福島から宮城、大きく跳ねて京都、海峡を越えて九州へという長旅だった。その先々で会いたい人々ややりたいことなど目的はあったが、どれも観光ではなかった。気の向くままに路地をさまよい、坂を登り、森に入り、畑のあぜ道に下りたりした。行ったり来たり迷ったりのまことにコストパフォーマンスの悪い旅で久しぶりに足にマメをこさえ、それがつぶれた。起床のときにうまく立ち上がれないほど足腰背中の筋肉は硬くこわばった。その痛みで前日歩いた距離がわかった。 旅は目的地に着くまでが楽しいのだと聞いたことがある。目的地に着けばそこからは旅の終わりが始まるのだと。高揚は下りに入っていくのだと。 けれども今回の旅には下りがなかった。 懐かしいはずの場所では懐かしさではなくあの頃の自分に襲われ、顔を忘れかけていた人々は昨日も会ったじゃんという顔で現れた。通過駅だったはずが忘れられない駅になり、夢で見たあの細道が現実にあったのだということを知り、あいた口がふさがらなかった。 人は新しい自分を求めて旅をするといわれる。が、その旅で出てくるのは自分のなかにもともとあったものだけだということを知った。 そのタネに合わせた旅の花しか咲いてはくれないのだ。 目的地に着くまでが幸せなのは旅に多くを期待するからだ。実際に自分の前に現れるのはこれまでの自分でしかない。 だから私は「自分探しの旅」という言葉に嘘を感じる。新しい自分などどこにもないのだ。 それに気づいて立ち止まる旅。 2014/05/09
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