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タイ語があまり堪能ではない私にとっていつも気になるのは乗ったタクシーの運転手との相性だ。 ある日の早朝、私が乗ったタクシーは赤信号で停まった。運転手は私よりかなり年上とみえる老人だった。大きな交差点で、車の列が動き出すまでには少々時間がかかると思えた。老人はサイドブレーキを引き上げると、傍らに置いていたペットボトルを手にした。そういえばタクシーに乗る前に缶コーヒーでも買っておけばよかったなあと私はぼんやり後部座席で考えた。 その時だ。ひそやかな音が聞こえてきた。 しばらくしてほんのりと漂ってきた親密で有機的なあのにおい。 まさか、と思った。しかしまちがいはなかった。
老人はペットボトルの中に小用をたしていた。その一連の仕草には客の目を気にするこれっぽっちの気配もなかった。 そして私は見たのだ。ふたをされたペットボトルが老人の股間からまたもとの場所に戻されるとき、その向こう、老人の足元の床に無造作に寝かせられていた義足を。すべてがわかった気がした。老人は義足を外した足で運転席に座っているのだ。老人には無理に小便を我慢することもできないのかもしれない。こんな人が、こうやって働いている。それができるのがこの国なのだ。 怒りも驚きも理不尽だと思う気も一瞬で消えた。私は笑いをこらえた。 こんなとき下手なタイ語で話しかけてもクレームをつけたと勘違いされるのが落ちだ。もっとタイ語に堪能だったならば、タクシーのなかだけでも、これまでにいくつの大切なドラマを知ることができただろうかと、そう反省させられた朝だった。 2014.03.28 |
タイで生まれた
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タイ料理「ゲーン」のなかでどれがいちばん好きかと訊かれてキアオワーンと答える私は明らかに普通だ。グリーン・カレーと訳してあるメニューがあるが、色や味の特徴を並べたタイ語のキアオワーンの方がかわいい。日本へのみやげ物としてもペーストだけならあまりかさばらないので重宝だ。
このペーストだが、料理の本を見ると、グリーンペッパー、にんにく、赤わけぎ、こぶみかんの皮、ガピなどなど10種類以上の香味がすり合わされ煮詰められて出来あがるという。
アパートのどこかの部屋からときどき時刻を問わず思い出したように響いてくるあのポクポク・・・という音は、自身を絶対に変えようとしない個性派たちをすり鉢のなかでなんとかして寝かしつけようというどこかのだれかの努力の音だ。最初は強引に、そして最後はなだめすかすように。
料理に何の興味もない私がわざわざ本まで引っ張り出してこのペーストの作り方を知ろうとしたのにはわけがある。
人も少しは料理の極意を見習ったらどうだ、という思いが湧いたからだ。
例の佐村河内守氏と新垣隆氏の一件である。耳が聴こえていたからといっていまさらどうだというのだろう。これまであの二人の手で生み出され、高い評価を受けてきた楽曲は多いという。ならばそれだけをこれからも楽しめばいい。
つくる人と作品はまったくの別物だというのが当たり前なのだ。
つくる人の人格で作品の評価が左右されるのならばこの世に存在できるアートや味や醍醐味は少ないにちがいない。
いっそのこと佐村河内守新隆(さむらかわちのかみあらたか)とかいう名の新ユニットにして。ポクポクポク・・・と。
2014.03.12 |
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ひとりでこうして文章や芝居の台本を書いているときは心身ともに非常に不健康な状態にある。書きたいひとことや登場人物に言わせたい一言を思いつくまでペン先、いやキーボードの上の指は動かず何も産み出せない。流れていくのはただ時間だけだ。ベランダから吹き込む風がドアを押して閉めようが、横の壁で愛嬌のあるチンチョが誘おうが、すぐそこまで来ているはずのひとことを書きとめるために脳みそは緊張をほぐそうとしない。世間様が皆なにかを生みだしながら切々と働いておられるときに、焦りに鞭をいれるために昼間から酒に手を伸ばし、あきらめを慰めるために煙草に火をつける。 けれども、なにかが生まれたと思う瞬間を迎えると、体も頭も一瞬で弛緩する。 そのとき真っ先にしたくなるのはアプナーム(水浴び)だ。 シャワーの栓をひねる。水に濡れた体を掌でまさぐると汗にぬめっていた自分が分かる。これはやっと暑熱をとり戻し始めたタイの空気がもたらしたものではない。自分の我欲が勝手に汚したわたしの肌だ。 タマリンドを使って作ったという石鹸に手を伸ばす。泡立ちがわざとらしくないのが気にいっている。濡れたままの体でベランダに出て体を冷やす。 我にかえったと思えたとき、さて、さっきまで書いていた文章をもういちど読む。ただのなぐり書きとしか思えない。 あの石鹸ではだめなのだ。求めていたものより先に本当のものはあって、それにはやはり手が届いていなかった。この感じを洗い流してくれるセッケンは人に逢うことだろう。そんなセッケンに出逢えたならば、私はその人に惚れる。 2014.01.10 |
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「本帰国」と「駐妻」というふたつの単語がバンコクの日本人社会でのみ通じる言葉だと聞いたのはもう10年以上前のことだ。 試しに「ほんきこく」と打ち込んで変換したら「本気国」と出た。 そうか、コンピューターは「本気の国」と判断したか。思わず笑ってしまった。いまになってもまだ「本帰国」という言葉はひとつの単語としてはどこの辞書にも採用されていないらしい。この「本」という接頭語が日本の「本」ではないかと思っている人もいるそうだ。そういえばいまはよく「本採用」というけれど、ひと昔前は「正式採用」と言ってなかっただろうか。 言葉が生きて育つものなら、当然のようにぐれたりお天道様の下を歩けないように育つこともありますのさ。
私はこの春、日本に「一時帰国」する予定をたてている。このままだらだらとバンコクにいたら、自分の祖国で本当に行きたかった場所を訪ねることのないまま終わるのではないかという不安に駆られ始めたからだ。ある日の夕刻、祖国をもっと見てから死にたいという熱が何の前触れもなく私を包んだ。
今回は九州から東京、そして長野へ足を延ばして昔の劇団仲間に会う。来年は岩手で宮沢賢治の事跡を訪ねる。その次は沖縄か。とまあ、このくらい出来ればもういいだろう。これらの旅が私にとっての「本気の帰国」となる。
足場を作ることもせず、いや出来ず、酒とオンナと舞台だけに揺れて過ごすことをこのタイは私に許してくれた。 さあ、これから数年は本気の一時帰国を繰り返してみよう。 2014.02.08 |
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食べる必要がなかったとしたら人はどんなに幸せな人生を送れることだろう、と考えたことはないだろうか。 食わなければならないという感覚がなくなったら、人はたぶんもっと自分を大切にできるかも知れない。言わなければならないことを言うようになるかも知れないし、しなければならないことをもっと真剣に想うかも知れない。食うことだけでどれだけ自分を殺しているかと考えることがよくある。 それはただの空疎な想像に過ぎないのだが、食がなければ人は生きられない事実は厳粛なものだ。だからこそ食は人生の最終目的といってもいいほどの深さを強いられるだろうし、味を最初にとりこむ舌は体の最先端といえる。 最先端が最深奥と出逢うのだから、食べるということはセックスに似ている。 つい先週のこと、パタヤ沖のラン島から日帰りで帰ってきた友人たちがいて、もちろん彼らは午前中にバンコクを発ったのだけれど、昼食をとったあと島へ渡ったのだという。
なんというもったいないことをしたのだと思った。町で食事をするよりは島へ渡って潮風ランチの方がよかっただろうに。ところが島はちょうどハイシーズンで、ロシアからの観光客であふれかえっていたという。そう聞いてしまうと、浜風のなかの昼食というイメージもちょっとしぼんでしまうのだった。
しぼんでしまったそのイメージのなかで、では味はどうだったかというと、けっして強い味のものではない。というより風と光を楽しむことが大きいだろうから、ビールだけでもいいくらいである。潮風の方が私のなかでは食事より強い。
2013.07.07
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