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「ミャンマー/ビルマご遺骨帰国運動」がもちあがっている。
今年末まで1年間限定の民間運動だ。
先の大戦中、本土以外で亡くなった方は約240万人。そのうち半数はいまだ帰国を果たしていない。とりわけミャンマー/ビルマの少数民族支配地域には、従来の内戦が大きな障害となって調査さえも叶わなかった。厚生労働省の推測によると4万5千有余の遺骨が残ったままという。
が、近年急速に民主化と和平が進展し、この地域においても民間レベルでの調査が可能な状況になった。ご遺骨帰国の機縁を迎えつつあるのだ。
(運動趣意書より)
私はこの運動のバンコクでのスポークスマン(幹事)をやることにした。舞台や映像で観客と接するのが常の私だが、生でつながり何かを訴えることは自分の「薬」だと気づいたからだ。ええい、やってしまえという気分で立候補した。
ある落語のまくら噺にこういうのがある。
医学の進歩はすごいもので、血液を検査するだけで600種以上の病気が分かるそうな。そんな多くの病気があるということも驚きだが、しかし人間、体はひとつ。大昔は病気もひとつだった。
「先生、わたし具合が悪いんです」
「あなた、病気です」。
文字では通じない。生の声や調子、表情や仕草がこの噺の面白さを伝える。
これから色々な人々と実際に会い、話し、試されたり教えられたりすることだろう。それも薬だ。流されて時間を使い果たすよりも、ここらで信じられる薬を一服、といきたいのだ。
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ビルマ(ミャンマー)
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ボジョーマーケットの路地にて。 宝石のブローカーたち。 一杯のコーヒーを頼めばあとは時間無制限お茶つき。 座り込み、話し込み、人を待ち、相談し、交渉し、時間は流れる。 「ただ同然で道に座り込み、お茶が出る。こんな国がほかにありますか」 と、通訳さんが胸を張った。 原石の鑑定中。 路地の屋台たち。 路上のマーケット。 ばったもんから盗品まで、何でもありなのだろう。 裁縫屋の女性たち。 道のこちら側から、写真とっていいかとジェスチャーを送ったら、近くに来て撮れとジェスチャーで返してくれた。 道を渡るときに車に轢かれそうになった。 尼僧が営む孤児院の子供たち。顔に塗っているのはタナカ。 ここで半時間ほど、パフォーマンスをやらせてもらった。 都会の裏道で見かけた猫とじっつぁん。 こちらが猫好きだとわかると奥からどんどん猫を呼び出してくれた。 同じ裏道にいた女の子(だと思う)。 抱えているおもちゃが自動小銃、ですかい? やっぱ、男の子、かな??? NGOの女性スタッフ。 |
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いわくありげな古い建物が好きだ。それが廃墟ならなお好きだ。 勝手な想像を膨らませることができるからだし、人の視線を気にせずに撮れるからでもある。 ヤンゴンはいたる所に古い建物があった。 住む者のいない建物は土地と共に放ってあった。 これらをメインテナンスするだけでも歴史感のあるいいものができるにちがいない。 宝の山だと感じる者は多いだろうなあ。 ところで、 3泊4日という短い訪問だったけれど、 公安にはずっと付きまとわれていた。 喫茶店ではビデオ、コンビニとレストランでは写真を撮られ、 さすがに3日目には「冒険はやめよう」という言葉が一行から出た。 こちらのビデオが押収されでもしたら元も子もない。 訪問したところはNGOの事務所と孤児院、 そうした場所での私のパフォーマンスを撮るというミッションだったから、まあ、公安としては怪しいとみたのだろう。 しかし、海外からの訪問者の数が2桁違いで増えてきたこの時期、公安のこの見事な、そしてあからさまな監視は驚きというよりは不気味だ。 いまはまだ、そういう国なのだ、ビルマは。 ついこの間の選挙でアウンサンスーチーの党は圧勝し、さらなる民主化が進むというが、これはスーチー側も与した壮大なアピールだ。海外からの投資を呼び込み、経済的にも圧倒して少数民族がビルマ族の前に跪くのを待つ。 海外の机上の人権派が主張するようには進ませるか、という気概さえ感じる。 ビルマの中に新たなチベットが出現することを誰もが予感しているだろう。 選挙日は4月1日、嘘をついてもいい日だった。 |
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タイの東はカンボジア、西にビルマ(ミャンマー)がある。
東、カンボジアとの国境沿いには昔いくつもの難民キャンプがあった。
西、ビルマとの国境沿いには今もいくつもの難民キャンプがある。
1992年に、カンボジアの政治決着と共に閉じた「カオイダン」キャンプ。中にいた約1万5千のカンボジア人たちはなんの保障も無いといっていい祖国へと送還された。
あれから20年。難民キャンプの跡は森林公園となり写真のような光景に変わった。
後ろにある山の名が「カオイダン」。大きな山とか大きな象の山とかいう意味だったと思う。
このキャンプ跡を時おり外国人たちが訪ねてくるという。ここで働いていたボランティアの人々だ。わたしも1986年から1年間をここで働いた。昔の痕跡がまったくといっていいほどなくなり、すっかり深い森になってしまったこの光景を見て、彼らは肩を落として帰っていくのだという。あの頃の想い出の喪失感に打たれるのだ。今回のわたしのように。
そしてこちらは西の難民キャンプ。
ビルマ国内の少数民族カレン族を主に収容する。
今回始めて目の当たりにしたのだが、往時のカオイダンと全くちがうと感じたのはその「恒久」感だ。
ここはもう難民キャンプではなく、ひとつの町である。家屋数5万戸、人口10万人の町である。堂々と商業が営まれ、子供たちはネットと携帯ではしゃいでいる。だからそれでいいというのではない。人間にとって決定的な基本は失われたままだ。
これらの難民キャンプはタイ政府によればあと5年で閉鎖される予定だ。そのあとどうなるのか。彼らが祖国ビルマに還るとは思えない。いまのビルマの国内状況では生きることさえ難しいと彼らは思っている。タイの中に忍び、なんの保障もない人口としてサバイバルしていくのだろう。キャンプの閉鎖は単にタイとビルマ現政権との面子のなす業である。
そうした流れをひっくり返そうという事態が準備されつつあるが、
それはまたいつかこのブログでも紹介できると思う。
下の文章は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のHPから。
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ミャンマーの人口は約5200万人で、ビルマ族が約70%、残りの30%は100以上の少数民族から成る多民族国家です。1886年にイギリスはビルマを植民地とし分割統治を行い、トップを英国人、行政をインド人、そしてカレン族を警察および軍人としてビルマを統治しました。このことが今日のビルマ族とカレン族の紛争の要因といわれています。
第2次世界大戦で日本はビルマ族と組んで、イギリスとカレン族を追い出し1942年ビルマを占領しましたが、日本の戦況が悪化すると、ビルマ軍はイギリス軍と組み、1945年日本軍を撃退しました。1948年にビルマはイギリスから独立しましたが、ビルマ政権は少数民族の権利を認めなかったため、1948年カレン族のKNU(カレン民族同盟)は武装蜂起しました。それ以来紛争が続いています。ビルマは1962年より社会主義体制となり、1988年国軍のクーデターにより軍事政権が樹立され、民主化が進まないまま今日に至っています。
1948年以来続いているミャンマー政府軍とカレン族など少数民族の間の紛争と、ミャンマー国内で起きている人権侵害により、1984年よりミャンマー難民がタイに流入し始めました。タイ国内にはミャンマーとの国境近くに9つの難民キャンプがあります。タイのミャンマー難民キャンプは、世界で最も長く存在するキャンプの1つで、キャンプ内で生まれた世代もすでに自分たちの子育てに入っているほどですが、タイの法律では、難民はキャンプ外へ出ることは許可されていないため、限定された敷地内での生活はストレスに満ちており、家庭内暴力、レイプ、薬物依存が慢性的に発生するなど、社会面、心理面、安全面での懸念を生んでいます。
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