|
2011年12月13日。 上の写真はバングラデシュでは数百年の歴史がある仏教寺院の柱。 斬られている。 ある民族がある地域から追われ、存在を消されるということがあるらしい。 聞き飽きたことだ。そんなことは古人類の時代から繰り返されてきた茶飯事。 歴史の教科書はそれだけで出来ているといっていいくらい。 しかし、見たことはなく、ましてや「感じた」ことなどいちどもなかった。 壁は無くなり、荒れ放題だ。 伐られた柱はどこへ行くかというと、 良質の建築資材として売られる。 有名だったこの古寺の周りの土地は、移住してきたベンガル系イスラム教徒たちによって買い占められ、ゴム園と成り果てた。 ビルマ系仏教徒たちは生活できなくなり、ひとり、またひとりと土地を離れて、河の向こうのビルマへ移っていった。昔からこの土地で豊かに暮らしてきたのであろう共同体は、バングラデシュという国の成立と同時に国境線が引かれて、崩壊を始めたのだった。彼らにとっては青天の霹靂というものだったろう。 寺がある丘のふもとはすべてイスラム教徒たちの村落に変わった。 寺だけが無残に柱を切り売りされつつ、仏教徒たちの生活の名残をとどめる。 そして、 本堂のすぐそば、トタンの壁に囲まれた小屋。 扉には錠がかけられ、中に入ることは出来なかった。 カメラのレンズをその穴に差し込んでみた。 数秒後、露出機能が反応した。 小屋の中に安置されていたのは、 黄金色の仏像だった。 なぜこの小屋の中にこれだけのものが残されているのか。 イスラム教徒にとってのタブーとして閉じ込められているのか、 仏教徒の矜持としてのこれだけには手を付けさせないぞという悲しい抗いなのか。 「わからない」という答えが返ってきた。 |
バングラデシュ
[ リスト | 詳細 ]
|
いくつもの市場を見た。 それはどこにでもあった。 無数の顔つき、衣装、言葉・・・。 |
|
2011年12月13日。
モン・スィン・ゼン氏。 ビルマ、アラカン族独立軍の創始者の一人。 ビルマ国内で政府軍との戦いを指揮し続けた将校だ。 バングラデシュのこの地、チョードリバラで癌と最後の戦を戦っていた。 昔、彼の指揮下で戦ったことのある若者が私にささやいた。 氏は時おり起き上がり、痛みに耐えかねるとまた横になりを繰り返しながら、精いっぱいの歓待を示してくれた。果物の実を私に渡しながらこう言った。 「わたしはもう逝く。心残りなのは子供だ。 彼らに日本で教育を受けさせたいのだ。 祖国の言葉を忘れてもいい。日本人として生きさせたい」 わたしは返事をしなかった。するべきではなかったからだ。 こういうとき、力のない者はイエスともノーとも言ってはいけない。 氏の容態を心配する某日本人から頼まれてこの地を訪れただけなのに 突然の展開だった。 息子のオン・チョー(通称バボ)10歳。 娘のモー・ムラ・ワン12歳。 このときから二日後の早朝、氏は亡くなった。 その報せがチッタゴンにいた私に届いた。 あれは確かに日本人への「遺言」だったのだ。 しかし…。 |
|
2011年12月13日。南へ走った。コクスバザール州へ。 州都コクスバザールといえば、イナニビーチという世界で一番長い砂浜(120km)をもつリゾート地。 そのビーチには見向きもせず、もっと南へ。 州の南端、大河の向こう岸はビルマだ。海も近い。 「チョードリバラ」というところまで南下した。ビルマ系アラカン族の村がある。 上の写真は河の向こうにビルマを臨む峠道。 足元は絶壁で、はるか下はマングローブの林。 ここまで書けばピンと来るだろうが、水産物が豊かだ。 海水性のもの、淡水性のもの。 チョードリバラの川岸で働く少年。砂か泥のように見えるが、小エビだ。 砂に見えるだろうが小エビだ。 その小エビを女たちが天日に干している。 そして、向こうから運ばれてきたのは 蟹。 陽に透かして、卵をもっているかどうかを調べる。 卵をもっている蟹は売値が高い。 輸出先の大手は日本と韓国だという。 美しく整備された村だった しかし、ここもまた移民の村だ。 バングラデシュ国民でないがゆえに普通の住民ならもてるライフラインを持たない。 例えば、銀行口座を開くこともできないのだ。 ビルマがああいう国だから、そこから逃れてバングラデシュへ来た人々は多い。 この村にはまだ共同体があり、生活の糧がある。それが救いだ。 峠道の藪のなかから顔を出したヤギ。 瞳がすぼまるとこういう眼になるのだというのを、初めて知った。 |
|
村の近くを流れる川。澄んだ水だ。 村人との協議が行われた寺。 アジア地域一般の仏教国では、田舎の公共場は寺がその役を担う。 昼食会。 水、汲んできたよぉ。 じゃ、湯でも沸かしてお茶のみましょか。 |



