タイ連続テレビドラマ「ブンポーン」、終盤シーンロケに行ってきた。
日本軍基地、捕虜収容所の爆撃シーン。
さて全14話、ほとんど撮り終えたが、どのような出来になるのか。
どうも不安が募ってきた。
日本人の役者さん同士で、この間からよく話題に上がるのが、来年早々からここタイで、第二次世界大戦当時を扱ったテレビドラマや映画が妙に立て続けに制作、放映されること。
「クーカム(邦題 メナムの残照)」に至ってはテレビと映画の2本立て。
これは日本兵コボリとタイの女性アンスマリンとの悲恋物語で、小説、テレビ、映画と、タイではこれまでに何度もつくられてきた伝説のヒット作。
私たち日本人がいま、アレッ? と思っているのは
大戦当時の日本軍を扱ったものが立て続けに制作されることのほかにもうひとつある。
「日本軍の悪辣非道ぶり」が表現の前面に出てきたことだ。
うわさに聞くところでは、上記の「クーカム」の映画撮影現場では、日本人のエキストラが「こんなシーンは納得いかない」と仕事を降りたとか。
理由もないのにタイの子供を蹴り倒しながら歩くなどというシーンがあったとか。
真偽のほどは定かではないが、火のないところに煙はたたない。
エキストラの日本人が嫌になるほどの表現を要求されたということだろう。
タイ大手の映像制作会社はほとんどが華僑系。シナ・コネクションからの資金も当然のごとく流れてくる。
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私の愛妻を紹介します。
名前はチャウィー。 歳は…教えてもらってないw。
演じてくれたのは人気タレントのアリサラー・ウォンチャリー、通称Flashさん。
シャキシャキ、ハキハキ、強気だがいつも周りを気遣ってくれる人。楽屋でも周りの日本人役者さんたちから絶賛。
矢野さん、いい人と共演できていいなあ、と羨望の的。 役得、役得。
私が死ぬシーンのリハ。監督からの指示を聞く二人。
夫が実は日本軍のスパイだったと知ってから、妻と夫の間は険悪に。
内心では惹かれ合っているくせに、お互いのプライドや立場がぶつかり合い、何かとうまくいかない。
うん、…よくあることさね。
お互いの関係は遠くなるばかりだった。
けれど、敗戦間際、爆弾による負傷をおして妻のもとへたどり着いた、わたし演じるサイトウ。
ここも危険だ、すぐに逃げろ、と言い残して死ぬ。
嫌です、ここはあなたと暮らした家、ずっと一緒に暮らすの! と耳元で叫ぶ彼女の声はたぶん聞こえなかったろう。
こんな女性の胸に抱かれて死ぬこと、正直言って あこがれます。
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タイのテレビドラマ「ブンポーン」の撮影が続いている。
今回のロケ地はカンチャナブリ。このドラマの実際のモデルとなった地だ。
ビルマとの国境近く、自然が豊かな土地なので雨季の雨も気まぐれ。
友人の佐野ヒロさんは準主役、撮影の途中で土砂降り。
監督が一言、「ここだ!」
スタッフが大慌てで川の中に入り、カメラと音響を設置。撮影続行。
この雨が止んだらもうこの光の効果は期待できない。
光線、露出、役者とスタッフの緊張。
バックにあったのはタイでは有名なサイヨーク滝。
川の流れを利用して撮影は続いた。
撮影の途中、セットのなかで撮られた私の写真を見つけた。
日本軍駐留の数年前からタイに入ってタイ人と結婚し、スパイ活動を続けていた軍人という設定。なかなかさまになっていると思うのだがw。
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今月末からタイテレビの連続ドラマの撮影が始まる
日本で言えばNHKにあたるThai PBSの制作「ブンポーン」。
制作発表会に行ってきた。
1年以上前に話はあったのだが、その後、シナリオを書き直すとかで今日まで待たされた。
上のポスター中央の人がブンポーン氏。
この人が残した日記をもとにした実話だという。
第二次世界大戦当時、ビルマ戦線を睨んでタイに駐留していた日本軍の中に「ミヨシ」という兵士がいた。
当時日本軍に捕らえられていた欧米人捕虜の収容所で、このブンポーン氏の娘が捕虜にそっと差し入れをしたりしていた。
日本軍に見つかれば大変なことになる。
その娘をミヨシはかばった。日本に残してきた自分の娘を彷彿とさせたからだ。
どうやらこのドラマはそこらから話が始まるらしい。
ミヨシというのは本姓で、名前はわかっていない。後にビルマ戦線に赴き、その後の消息はわからなくなったという。当時の彼の写真も残っている。
ミヨシに助けられたというその娘さんはいまも存命なさっている。
下の写真のおばあさんがその人。
この絵柄は番組製作スタッフたちのTシャツなどに使われた番組イメージ画。
泰麺(タイ・ビルマ)鉄道の線路上を歩いていくミヨシと少女の姿だ。その向こうにあるのは落ちた橋。現場であるカンチャナブリ市にいまも架かる。
このミヨシ役をやるのは私も何度か舞台でご一緒した佐野ヒロさん。
私の役は彼の上官でシナリオ上は「サイトウ」という兵士。
この人物にも実在のモデルがあるという。
日本軍進駐前にタイへ来て地形などを調べていたいわゆるスパイ。便宜上の必要でタイ人女性と結婚して活動していた。終戦後も日本に帰らず、タイに残ったいわゆる元日本兵。日本軍が進駐してきたときに本当の身分を妻に明かしたが、そのために妻との仲が険悪化。しかしいつしか妻を本当に愛するようになりタイ永住を決意。晩年はボランティアとして孤児院などをめぐったりしながらカンチャナブリ市で一生を終えた人だという。
さて、この発表会のときに集まった日本人の役者さんたち、私自身も含め、これまで「日本兵」という役に与えられていたのはいつも極悪非道の悪鬼としてばかりだった。飽き飽きだったのだ。
やっとこういうドラマも来たか、と襟を正していささか緊張。
全14話、4ヶ月の予定。
放送局前で、仏像と供物に関係者一同がお参りをし、撮影の成功を祈った。
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2012年3月4日、
タイ国日本人会主催「ふれあいトークコンサート」に出演させてもらった。
子供たちとファミリーにクラシック音楽に触れてもらおうと、クラシックの名だたる演奏家たちがやり始めた毎年恒例のコンサートだ。
今年からパフォーマンスをいれてやろうということになった。
声を掛けられたのはわたしとバンコクシティバレエ。
クラシック音楽の演奏だけでは観客、特に子供たちの気持ちをつかむことは出来ない、との経験から出たアイデアだった。
しかし、材料だけがアイデアとして出され、舞台でどのような料理に仕上げるかは誰も考えていなかった。
パフォーマンスの部分を担当した私たちは考えた。このままではだめだ、と。
それはできません、あれもできません、と、まず自分たちに出来ないことを演奏家たちにぶつけた。
「この場面で舞踏会のダンスをやってもらいたいのです」
「出来ません。それは社交ダンスであって、私たちのはバレエです」
「この場面のナレーションに合わせてパントマイムを」
「出来ません。ナレーションの時間は10秒もない。その時間で内容をマイムに変えることは私の力では無理です」
そして動いた。演奏家たちがパフォーマーに合わせるという戦いを始めた。
パフォーマーたちが「ひとつの舞台」を構築しようと演出に動き始めた。
ナレーターもそれに合わせて「演技」をナレーションに入れ始めた。
出し物は「美女と野獣」。
みんなで稽古ができたのはたったの3回。そして本番。
開場ぎりぎりまで、舞台設営とリハが続く。
いよいよ開場というころ、演奏家たちはまだ楽器の微調整を続けていた。
わかってもらえなくてもいい、少しでもいい音を、いい舞台を。
祈りのような時間が刻々と流れた。
そして開場。
イベントの名の通りの、「ふれあい」が始まる。
チェロ、ピアノ、バイオリン、ハープ、そしてバレエ。
みんなプロ。
私の役はお城のキャンドルとしての狂言回し。
有名な歌「Be Our Guest」の日本語バージョンを振り付けつきで歌わなくてはならなかった。本番中にふと手を見ると震えていた。
日本人相手のイベントがみんな敬遠するこの時季に、観客数およそ200名。
大好評で終了。
よくやれたもんだ、と、自分のこともほめてやりたくなった。
写真 あいはら
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