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Fleetwood Mac

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フリートウッド・マック(Fleetwood Mac)はイギリス、アメリカのバンド。2008年で結成40周年を迎える。ブルースロックのバンドだった1960年代から1970年代初頭までと、ポップバンドとして大成功を収めた1970年代半ば以降で音楽性が大きく異なる。

初期、ブルース、そしてピーター・グリーン時代
1967年、ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズのメンバーだったピーター・グリーン(ギター)とミック・フリートウッド(ドラム)を中心にボブ・ブランニング(ベース)、ジェレミー・スペンサー(ギター)の4人でバンドを結成活動を開始する。数回のギグの後ブランニングに変わってジョン・マクヴィー(ベース)が加わりライヴ、レコーデイングをおこなう。初期のバンド名はピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック(Peter Green's Fleetwood Mac)。グリーンのギブソン・ギターのレス・ポールをフィーチャーし、当時イギリスで勃興していたブルースロックのブームに乗って活動を開始した。グループ最初のLPアルバム『ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック』は1968年の2月にリリースして注目を浴びることとなる。さらに同1968年にシングル曲として録音した「ブラック・マジック・ウーマン」(後にサンタナにカバーされて大ヒットしている)を世に送り出し、8月にはLPアルバムとして2作目(USではファーストアルバム)の『ミスター・ワンダフル』をリリースしている。更にグループは変貌を続けて、初期のメンバーとしてはベストな状態となる18歳のギタリスト・ダニー・カーワン(ギター)を加入させる。トリプル・ギターによるバンドの編成は当時としては奇抜なアイデアで、グリーンとグループが思い描く常にサウンドの変化に対応するベストなポジションに有った。カーワン加入後はUS用に編集したセカンド・アルバム『英吉利の薔薇』をリリース。ヨーロッパではシングル「Albatros」がヒット・チャートに昇るなど欧州でもセールス面でも好調の兆しを見せ始めていた。 1969年1月には遂にブルースの故郷とも言えるシカゴのチェス・スタジオに渡米してウイリー.ディクソンやバディ・ガイ、オーティス・スパンと共演して記念版的作品として残している。同年にはこの面子での最後のブルース・アルバムとも言える3作目の「ゼン・プレイ・オン」をリリースしている。

ジューダス・プリースト、ゲイリー・ムーア、ジョー・ジャクソン、エアロスミス[1]が、この時期のフリートウッド・マックの曲をカバーしている。

英国活動期、ボブ・ウェルチ時代
ピーター・グリーンは、ミュンヘンのとあるギグで体調不全の状態でLSDをとって統合失調症をきたし、1970年に突如バンドを離れてしまった。グリーン離脱後、バンドは、主にジェレミー・スペンサーが音楽面をリードして活動を続け、1970年に「キルン・ハウス」を発表した。しかしスペンサーもドラッグで徐々に精神面に異常をきたし、新興宗教にはまって脱退してしまう。

スペンサーの後任には、ジョン・マクヴィーの妻で元チキン・シャックのクリスティン・マクヴィーと、オーディションによりアメリカ人ギタリストのボブ・ウェルチが加入し、1971年に「フューチャー・ゲーム」を、翌1972年には「枯れ木」を発表した。従来のブルース色を弱めロック色/フォーク色を強めたこれらの作品は、主にダニー・カーワンが音楽面を主導して制作された。しかしそのダニー・カーワンも、酒癖が祟ってメンバーの信頼を失い、脱退を余儀なくされた[2]。

カーワンの脱退を経てバンドの音楽的主導権をウェルチが握ると、マックは、クリスティンのよりポップ/ロック色の濃い楽曲や、ウェルチの強い影響下でジャズロック的アプローチをとった楽曲等をフィーチャーした3枚の優れたアルバムを発表し、60年代とは別のバンドへと変化していった。この時期を代表する曲としては、ウェルチ脱退後もライブで演奏されていた「Hypnotized」、1977年にウェルチのソロ作としてヒットした「Sentimental Lady」などがある。後のウェルチの回想によれば、「(『神秘の扉』当時の)ウェルチ、クリスティン、ジョン、ミック、ボブ・ウェストンのラインアップが団結していた時は、後の『噂』時代のラインアップに勝るとも劣らなかった」とのこと[3]。

この時期、バンドとしての活動はコンスタントに続けていたが、メンバーの度重なる入れ替わりや、アメリカにおける「偽フリートウッド・マック全米ツアー騒動」[4]等、困難の多い時代でもあった。

1974年、USツアーを終えたマックは、彼らのこれからの活動をアメリカ中心にするべく、活動拠点をカリフォルニアに移した。しかし、その直後、フロントマンのウェルチが脱退。バンドは存続の危機を迎える。

全盛期
ウェルチに代わるフロントマンを探していたミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーは、バンドの新作のレコーディングエンジニアのオーディションを通じて「バッキンガム・ニックス」というアメリカ人の男女デュオの作品を耳にした[5]。リンジー・バッキンガムのギターとヴォーカルに強い関心を持ったミックは、1974年12月、リンジーと電話で連絡を取りバンドに誘った。リンジーは、バンドに合流するにあたりガールフレンドを同行することを提案し、マックは、結局この二人(リンジー・バッキンガム、スティーヴィー・ニックス)を新しいメンバーとして迎え入れることになった。

再び生まれ変わったマックは、1975年にアルバム「ファンタスティック・マック」を発表、「セイ・ユー・ラブ・ミー」、「リアノン」といったヒット曲が生まれ、アルバムは全米1位を獲得、それまでにない成功を収める。安定したピアノプレイと穏やかで安心感を醸し出す暖かい歌声のクリスティン、絵になる二枚目ギタリストでありポップで張りのある声を持つシンガーでもあるリンジー、可憐な容姿と野性的なダミ声かつ哀愁味を帯びた個性派シンガーのスティーヴィーという三者三様のボーカルが醸し出すバラエティとハーモニーは、レコードでもライブでもバンドの大きな魅力となった。

1977年には、最大のヒット作となるアルバム「噂」を発表。シングルカットされた「ドント・ストップ」「ドリームス」「オウン・ウェイ」などの大ヒットとともに、アルバムは31週間に渡って全米1位(ビルボード)に輝き、1700万枚といわれる史上空前のセールスを記録する。マックは一躍スーパースターの座に上り詰めた。

この後、「牙 (タスク)」「ライヴ」「ミラージュ」の3枚のアルバムを発表、ワールドツアーも盛況を重ね、スーパースターとして順調にヒットメーカーのポジションを維持し続けた。

1980年代に入るとメンバー各自のソロ活動が活発化し、全米アルバムチャートでNO.1を記録したスティーヴィー[6]を筆頭に、リンジー、クリスティンも、それぞれソロでTOP10ヒットをものにする[7]。ミックも、アフリカのミュージシャンを起用した意欲的なソロアルバム「The Visitor」[8]を発表した。

しかし、バンドとしてもソロとしても順調に活躍していたこの時期のマックには、メンバー同士の関係の悪化[9]、スティーヴィーの薬物中毒克服のためのリハビリ施設入り、バンドのゴタゴタや妻との離婚、父の死など公私にわたるトラブルに疲れ切ってコカインとブランデーに溺れたミックの破産など、バンド周辺でトラブルが絶えない、暗い側面が同時に存在していた。

停滞期
久々に全員が揃った1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」では、音楽面におけるリンジーの献身的な貢献もあり、いつも通りのヒットを記録したが、アルバム発表直後にそのリンジーが脱退。ライブツアーは、新メンバーとしてギター2名[10]を加えた新編成で行われた。この時のライブでは、バックボーカルやキーボードにサポートメンバーを使い、クリスティンのボーカル曲では彼女をステージの前面に出したり、スティーヴィーのソロ・ヒット曲「Stand Back」を取り上げるなど、リンジーの不在をクリスティンと、特にスティーヴィーを大きくフィーチャーすることで補う演出がされていた。

1990年には、スティーヴィーとクリスティンが今後バンドのライブツアーに参加しないことを表明。1990年発表の「ビハインド・ザ・マスク」は、1975年の「ファンタスティック・マック」以来初めてゴールドディスクを逃した。

1992年、ビル・クリントン[11]の大統領選挙のキャンペーンソングに「ドント・ストップ」が使用されたことから、1993年初頭、クリントンを支援するために「噂」発表当時の黄金期メンバー5人が一時的に集まり再結成ライブを行なった。ただし、この再結成は一時的なもので、ライブ終了後バッキンガムが再離脱。1993年年末にはスティーヴィーが今後の活動に参加しないことを表明し、正式に脱退。ほぼ同時期に、リック・ビトーも脱退した。

1994年、ミックとジョンは、新メンバー二名の加入[12]とライブ・ツアーの開始を発表する。しかし、直後にクリスティンが脱退を表明。ツアーは、クリスティンを除くメンバーで行われた。

活動再開へ
1997年、リンジーのソロアルバムのレコーディングセッションにミックが参加したことを契機に、黄金期のメンバーが再集結。再結成ライブを行ない、ライブアルバム「ザ・ダンス」を発表。1981年発表の「ミラージュ」以来となる全米NO.1を獲得(Billboard Top 200)した。しかし翌1998年、クリスティンが引退を理由に再離脱した(その後、2004年、ソロとして復帰)。

2003年にクリスティンを除く黄金期メンバー4人による本格的な復活作「セイ・ユー・ウィル」を発表、ライブツアーも大きな話題となり、全米3位(Billboard Top 200)の大ヒットを記録した。

Wikipedia

Hold Me



Gypsy



Little Lies


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Yes

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イエス (Yes) は、イギリス出身のプログレッシヴ・ロックバンド。
1969年にデビュー作「イエス・ファースト・アルバム - Yes」を発表、その年のブライテストホープとなり注目された。代表作は「こわれもの - Fragile (1971年)」「危機 - Close to the Edge (1972年)」、ポップ作品として成功した「ロンリー・ハート - 90125(1983年)」などが挙げられる。

リード・ヴォーカルで創作面のリーダーでもあるジョン・アンダーソンの哲学・世界観がその音楽に大きく影響し、このアンダーソンのヴィジョンに同調できるか出来ないか、という選択がバンド在籍の可否に大きく影響を及ぼしていると言われている。その為、優れた技術・センスを持ちながらもイエスにはフィットしないという理由でミュージシャンが加入/脱退/再加入する事が多く、不安定な活動が長年続いた。

その一方で、組織面でのリーダーであるクリス・スクワイアは結成当初よりグループを仕切り、アンダーソンが不在の時期もイエスを守ってきた。ギターのスティーヴ・ハウは途中数年のブランクはあるものの、代表曲の殆どをアンダーソンと共作しており、イエスを語る上で欠かせない人物といわれている。

また、アルバム「ドラマ - Drama (1980年)」でヴォーカリストとして参加し、1983年にロンリー・ハートで再結成した時にはプロデューサーとして商業上の成功に大きく貢献したトレヴァー・ホーンと、そのロンリー・ハートの作曲者で1980年代に音楽的イニシアティヴを握ったトレヴァー・ラビンの存在も、大きいとされている。

1980年代末期から1990年代にかけて旧メンバーをも巻き込んでの分裂、融合、再編成など迷走が続いたが、現在は1970年代中〜後期のメンバーで落ち着き、穏やかに活動を続けている。

また、視覚面での貢献としてイラストレーターのロジャー・ディーンも、幻想的な作風のアルバム・ジャケットやバンド・ロゴ、ステージ・デザインなど多くを手がけ、それらの作品とイエスの音楽は切り離せない、と言われるほど密接な関係にあるとされている。

現在
「トーク」のメンバー構成(アンダーソン、スクワイア、ケイ、ホワイト、ラビン)を提案したのは新たに所属したヴィクトリー・レーベルのフィル・カーソン(彼は以前アトランティック・レコードに所属し、イエスを初期からサポートしていた)であったが、バンドはその後ヴィクトリーを離れ、スティーヴ・ハウとリック・ウェイクマンが復帰する。

そのようにして発表されたアルバム「キーズ・トゥ・アセンション(1996年)」、「キーズ・トゥ・アセンション2(1997年)」は、ライヴとスタジオ作品を混在させたプロジェクトであった。アルバム発表の後にはツアーが予定されていたが、マネージメントの変更を検討していたためスケジュールがなかなか決まらず、当時マン島に在住していたウェイクマンがスケジュールを知ったのは、既にソロ活動のスケジュールがブッキングされた後であった。こうしたトラブルからウェイクマンは何度目かのバンド脱退へと向かう。1997年5月にはウェイクマン脱退が正式に発表され、ツアーはキャンセルとなった。

後釜のキーボード・プレイヤーを探していたイエスは、ジョン・アンダーソンが連れてきたロシア出身のイゴール・コロシェフを加入させる。また、1997年10月から組まれていたツアーに合わせ、クリス・スクワイアのソロ・プロジェクトが急遽イエスとしての作品に昇格して制作される事となり、正式メンバーとなったビリー・シャーウッドが最終ミックスダウンを行った「オープン・ユア・アイズ(1997年)」を完成させた。

1999年、バンドは名プロデューサーとして知られたブルース・フェアバーンを迎えてアルバム「ラダー(1999年)」を発表する。その後ビリー・シャーウッドが自分の活動に専念するため脱退。イゴール・コロシェフの脱退については、ツアー中に二名の女性警備員へ暴行事件(実際にはキスを迫ったり、首筋を噛んだりといったセクハラ的行為)を起こしたことによる解雇であると噂されているが、真相は不明である。(ジョン・アンダーソンによると、解雇ではなく、契約満期終了で契約更改なしというのが実状だったようである)

キーボード不在を逆に好機と捉えたイエスは、以前から暖めていた企画であるオーケストラとの競演を柱とした作品「マグニフィケイション(2001年)」を発表する。

マグニフィケイション・ツアーを終えたイエスは、ウェイクマンの復帰(4回目)を発表した(真偽は不明だが一説によると、曲作りには参加しないツアーのみの契約であるといわれている)。その後イエスは、2002年のクラシック・ツアー、2003年のフルサークル・ツアー、2004年の35周年記念ツアーと大規模なツアーを行ったものの、スタジオ・レコーディングの新作を出していない。

2005年「今年はツアーをやりたくない」というアンダーソンの意向を受けて、イエスはグループとしての活動を停止し、メンバーはソロ活動に入った。また、リック・ウェイクマンが、公式に次のイエスの活動には参加しないことを表明した。

2008年、ジョン・アンダーソン、スティーヴ・ハウ、クリス・スクワイア、アラン・ホワイト、オリヴァー・ウェイクマン(リック・ウェイクマンの長男。心臓病を抱えたリック・ウェイクマンは医師の助言により参加せず、代わりに息子を推薦したとのことである)というラインナップでバンド結成40周年をふまえた世界ツアーを行うことが公式サイトにて発表された。だが、ジョン・アンダーソンの病気によりキャンセルとなった。 同年9月、カナダ人シンガーのベノワ・ディヴィッド をアンダーソンの代理として起用、11月から12月にかけて、北米中心のイン・ザ・プレゼント・ツアーを敢行した。

Wikipedia

Owner Of A Lonely Heart




Owner Of A Lonely Heart 2004


同じ曲でもアレンジでこうも変わるのに驚くのと、当時、突然発表されたリミック版にも驚いたものです。

オリジナルの渋さとは対照的なのが面白いです♪

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Freddie Mercury

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誰が何と言いっても最高のミュージシャン、Freddie Mercury☆彡
彼のボーカル、あの歌声を超えるボーカリストは今後とも登場しないと思います。

フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury, 1946年9月5日 - 1991年11月24日)は、イギリスのシンガーソングライターで、ロックバンドクイーンのリードヴォーカル・ピアニスト・キーボーディスト。本名は、Farrokh Bulsara(ファルーク・バルサラまたはフレデリック・バルサラ)。
1973年、アルバム『戦慄の王女』でデビュー。その後、ソロ歌手としても活動していた。
1991年11月24日、HIV感染合併症によるニューモシスチス肺炎(旧名・カリニ肺炎)のため死去。45歳。

当時イギリス領だった、タンザニアのザンジバル島のストーン・タウンに、パールシー(10世紀頃、ゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒否しインドに移ったペルシア系民族の末裔)の両親の間に生まれた。5歳の頃からピアノを習っていた。イギリス政府のために働く父の仕事上の理由でインドに移り住み、ボンベイ郊外の全寮制の高等学校に通い育った。いわゆる日本で言うところの帰国子女である。その頃から数々のロックバンドを経験し、ピアノとヴォーカルを担当。一旦ザンジバルに戻った後、1964年に起きた内乱が元で家族揃って渡英。イーリング・アートカレッジに進学し、グラフィック・デザインを学ぶ。 クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営。 クイーンのデビュー直前、ラリー・ルレックスという名義でソロシングルを発売している。

クイーンの日本での人気を決定付けることになった雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはヴォーカリストとして再び1位に返り咲いている。

また、1979年から、しばしばバスハウス(ゲイ男性のための発展場・バー・サウナ・ディスコを兼ねた複合施設)に足を運ぶようになる。

親日バンドとされるクイーンのメンバー中でも最も親日家で、来日公演時以外にも1986年秋にお忍びで来日して骨董品などを買い求めて行った。伊万里焼コレクターでもあった。新宿二丁目には生前行き着けのバーがあったという(出没!アド街ック天国2007年12月8日放送分より)。来日公演時のMCの半分は日本語だった。ロンドンの自宅には、日本庭園がある。アルバム『バルセロナ』の「La Japonaise」では歌詞の殆どは日本語だった。

80年代半ば、この頃からメディアにはHIVに感染しているのではないか、という憶測が頻繁に飛び交うようになったが、後述の永眠直前まで公式には否定し続けていた。頬にも髭を伸ばすようになったが、これは合併症のひとつであるカポジ肉腫を隠すためともいわれている(ただし、イニュエンドウを発表する頃には口髭まですべて剃っていた)。1990年から1991年には交流のあった人物がエイズにより他界。1991年11月23日、かねてより噂になっていたHIV感染を公表。翌24日、HIV感染合併症のひとつであるニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)により死去。45歳という若さだった。 このため、1987年4月にかれが敬愛していたオペラ歌手、モンセラート・カバリェと録音し、1992年にバルセロナオリンピックの開会式にて2人で歌うことになっていたバルセロナは、ホセ・カレーラスが代役を務めた。

死後、遺言によりクイーンでもっとも売れた曲「ボヘミアン・ラプソディ」の印税をエイズ基金「テレンス・ヒギンズ・トラスト」に寄付。それを受けて再発されたシングルCDはイギリス史上初の同一曲2度の1位を獲得した。

フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬され散骨された。その場所は明らかにされていないが、一説によれば、彼の自宅の庭に埋められているともされている。

残されたクイーンのメンバーが中心となり1992年4月20日、イギリス、ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートがおこなわれた。

2006年10月21日には、ドキュメンタリー映画「フレディ・マーキュリー〜人生と歌を愛した男」が公開された。この映画はDVDとして発売されている。

FMA(Freddie Mercury Association)フレディ・マーキュリー基金というHIV感染症に関する治療費の寄付を募る団体が存在したが、2008年12月末日にて活動を休止した。

Wikipedia

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Barcelona


覚えている方もおられるでしょう、バルセロナ・オリンピックでの開会式です。
今見ても素晴らしく、まるでオペラのようです。
Queen万歳!フレディーよ永遠に・・・

Duran Duran

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Duran Duran(デュラン・デュラン)は、イギリスのロックバンド。1978年、イングランド中部・バーミンガムにて結成。 1980年代前半のニューロマンティックといわれるムーブメントやMTVブームの火付け役。 バンド名はジェーン・フォンダが主演したSF映画『バーバレラ』(1968年)で登場する悪役「デュラン・デュラン(Durand-Durand)博士」より。

1978年、ニック・ローズ(キーボード)、ジョン・テイラー(ギター)、サイモン・コリー(ベース)、スティーヴン・ダフィ(ヴォーカル)の4人によって結成される。ところが半年後にコリーとダフィが脱退。すぐに代わりのヴォーカルとしてアンディ・ヴィケットが加入する。そして、その年の暮れにロジャー・テイラー(ドラム)が加入。しばらくは、この4人で活動する。なお、ニック・ローズは、デュラン・デュラン結成時まで、キーボードの演奏歴がほとんどなく、取材に対して「自分はタイプライターを叩くのが上手だったので、キーボードもすぐに上達すると思った」と答えている。

1979年、ヴォーカルのアンディが脱退。

1980年、後任のベーシスト探しが難航し、ジョン・テイラーがベーシストへ転向する。そしてジェフ・トーマス(ヴォーカル)、アラン・カーティス(ギター)が加入しバンドは5人編成となる。ところが数か月後にジェフとアランは脱退。そして後任のギタリストとしてアンディ・テイラーが加入。しかしヴォーカル探しは難航しバンドはオーディションに踏み切る。そんな中、サイモン・ル・ボンがヴォーカルとして採用される。採用された理由は「ルックスの良さ」「魅力的な声」「歌が上手い」そしてオーディションを受けた人たちの中でル・ボンだけが「詩や曲を書き溜めたノート」を持参していたからである。曲も書けて歌の上手いヴォーカルとしてル・ボンはバンドに迎え入れられ、ようやくメンバーが固定される。

1981年2月、シングル『プラネット・アース』(英12位)でデビュー。
4月、シングル『ケアレス・メモリーズ』(英37位)リリース。
6月、1stアルバム『デュラン・デュラン』リリース。全英チャートで3位を記録。2度目の全英ツアーを行う。
7月、シングル『グラビアの美少女』(英5位)リリース。
9月、パリ、ブリュッセルなどでライヴ。その後、全米ツアーを行う。
11月、シングル『マイ・オウン・ウェイ』(英14位)リリース。
12月、3度目の全英ツアーを行う。

1982年4月、PV撮影のため、スリランカへ。
4月25日〜5月1日、初来日公演。東京、大阪、名古屋で5公演を行う。
5月、シングル『ハングリー・ライク・ザ・ウルフ』(英5位)リリース。2ndアルバム『リオ』(英2位)リリース。
6月から8月にかけて、北米ツアーを行う。8月からはブロンディーのオープニング・アクトだった。
8月、シングル『セイヴ・ア・プレイヤー』(英2位)リリース。
9月から10月に、ヨーロッパ・ツアーを行う。
10月30日から、全英ツアーを行う。
11月、シングル『リオ』(英9位/アメリカでは1983年4月、最高位14位)リリース。
12月、ビルボード・チャートに『ハングリー・ライク・ザ・ウルフ』が77位に初登場。1983年3月、最高位3位を記録。

1983年3月、シングル『プリーズ・テル・ミー・ナウ』(英1位/米4位)リリース。
4月、映像クリップ集『デュラン・デュラン』リリース。
6月、1stアルバム『デュラン・デュラン』に『プリーズ・テル・ミー・ナウ』を追加収録して、アメリカと日本で再リリース(米10位)。
アルバム『リオ』が、アメリカで最高位6位を記録。
7月、イギリス王室主催のチャリティ・コンサートに出演。
9月、ジョンとロジャーが、プロモーションのため来日。
10月、シングル『ユニオン・オブ・ザ・スネイク』(英3位/米3位)リリース。
11月、3rdアルバム『セヴン&ザ・ラクド・タイガー』(英1位/米8位)リリース。
12月、全英ツアー開始。

1984年、シングル『ニュー・ムーン・オン・マンデイ』リリース。そして『ザ・リフレックス』が全米(6月23日付〜6月30日付の2週連続)、全英で初のシングルチャートNo.1を獲得。続く『ワイルド・ボーイズ』は全米(12月15日付〜1985年1月5日付の4週連続)、全英共に第2位だった。
1985年、シングル『セイヴ・ア・プレイヤー』(米16位)がアメリカで発売。サイドプロジェクトも始動。ジョン・テイラーとアンディ・テイラーがドラマーに元シックのトニー・トンプソン、ボーカルにロバート・パーマーを従えパワー・ステーションを結成。アメリカでヒットする。サイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラーはアーケイディアを結成し、アルバムにスティングやデヴィッド・ギルモア、土屋昌巳などの参加で話題を呼ぶ。同年7月13日に行われたライヴエイドに参加(参加会場は母国のイギリスではなくアメリカ・フィラデルフィアのJFKスタジアム)。『007/美しき獲物たち』『ユニオン・オブ・ザ・スネイク』『セイヴ・ア・プレイヤー』『ザ・リフレックス』を披露。なおパワー・ステーションも参加している。そしてシングル『007/美しき獲物たち』が2週連続第1位(7月13日付〜7月20日付)を獲得(なお全英では第2位)。ロジャー・テイラー(実家の農家に専念するために脱退。後にアルバム『サンキュー』に2曲参加)とアンディー・テイラー(アルバム『ノトーリアス』に数曲参加)が脱退する。

1986年、ニック・ローズ、ジョン・テイラー、サイモン・ル・ボンの3人で活動は続行。アルバムのセッションには後にメンバーとなるフランク・ザッパ〜ミッシング・パーソンズのウォーレン・ククルロ(ギター)、及び元アヴェレージ・ホワイト・バンドのスティーヴ・フェローン(ドラム)が参加。

1987年、シングル『ノトーリアス』が全米2位(1月10日付)を記録(全英7位)。

1988年、シングル『アイ・ドント・ウォント・ユア・ラヴ』が12月3日付のチャートで全米4位(全英14位)を記録。この曲を最後にしばらくバンドはトップ10ヒットから遠ざかる。

1989年、アルバム『リバティ』の発表時よりバンドはツアーを行わず、「すぐにレコーディングに取り掛かる」と宣言。ウォーレン・ククルロとスターリン・キャンベル(ドラムス)が正式メンバーとして迎え入れられる。

1990年、クリスマス前、スターリンがニューヨークへ帰り、それっきり戻って来なかった。

1991年、4人での活動を始める。

1993年に発表のアルバム『デュラン・デュラン(ザ・ウェディング・アルバム)』からのシングル『オーディナリー・ワールド』と『カム・アンダーン』の大ヒットでシーンに復活。新しい世代のファンの獲得に成功する。

1997年、バンド結成時からのメンバーであったジョン・テイラーが脱退。再びバンドは停滞期に突入する。

2001年、オリジナルメンバー5人が再会し、再び5人揃って活動を開始。それを受けてウォーレン・ククルロがバンドを脱退。

2003年、日本を皮切りに米国、豪州などでツアーを展開、成功を収める。

2004年、復活第一弾アルバム『アストロノート』を発表。

2005年、ロジャー・テイラーが足の小指を「骨折」した為、予定されていた日本ツアーをすべてキャンセル。しかし、日本ツアー予定日当日にロジャー・テイラーが元気にドラムを叩く姿が海外で放送された為、各方面で物議を醸す。代わって8月、summer sonic 2005 の東京・大阪両会場で公演。併せて東京で1日だけの単独ライヴも行った。

2006年、アンディー・テイラー再度脱退。

2007年7月1日、コンサート・フォー・ダイアナに参加。
7月7日、Live Earth コンサートに参加。
11月、アルバム『レッド・カーペット・マサカー〜美しき深紅〜』発表。

Wikipedia

Planet Earth



Hungry Like The Wolf



The Reflex



Wild boys



A View To A Kill


今見てもかっこいいですね〜
当時、彼らをパクッたバンドが日本にうじゃうじゃいましたね♪
やっぱ今でもDuran Duranは最高です☆彡

可愛いにもほどがある

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ベッキー・クルーエル(Beckii Cruel、1995年6月5日 - )はマン島出身のネットアイドルである。

自身がYouTubeに投稿した動画がインターネット上で話題を呼んで人気となった。動画サイトにおいてのハンドルネームは「Beckii」、「xBextahx」 。なお「クルーエル」(英語で「残酷な」「悲惨な」などの意味)とは所属事務所の名称であり、本名ではない。

2009年3月ごろより自身のダンスをYouTubeに投稿し「可愛いにもほどがある」と称されるほどその可愛らしい顔と抜群のプロポーションから、「ネットアイドル」としてネット上で話題になり、大の親日家であり日本のアニメやその音楽、モーニング娘。などのハロー!プロジェクトを愛する一面もある。

2009年10月25日、秋葉原にて行われた「秋葉原エンタまつり2009」に出演、念願の日本でのステージデビューを飾った。

Wikipedia


コメント&ダンスです☆彡


ご存知でしたかベッキー・クルーエル♪
オーディション等や、ましてやスカウトされた訳でもなく、好きでやっていた事をネットに動画配信したところ爆発的な人気となった実力ある子です♪
アイドルにしたいが為に自分の子に必死になって金をつぎ込み、オーディションを受けまくる親の子とは根本的に違うし、また、そうやってオーディションにチャレンジしたり、プロダクションによって作られたアイドルとも違う存在です。
決してオタクって訳ではありませんが(ほんとかよ?(笑))やっぱ可愛い子は普通に可愛いと思うし、綺麗な人は素直に綺麗だと思います、こういう子が娘なら親父としても鼻が高いと単純に思います☆彡

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本家ベッキー、負けてるよ(笑)

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