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Billy Joel

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ビリー・ジョエル(Billy Joel, 1949年5月9日 - )はアメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のロック歌手、ピアニスト、作曲家。本名ウイリアム・マーティン・ジョエル(William Martin Joel)。

「ストレンジャー」は日本の70年代のディスコブームで統一振り付けでそろって踊られた。曲冒頭の口笛が特徴的である。
『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の成功のあと、1980年には『グラス・ハウス』が発表された。これまでのジャズを基調とした洒脱な作風から路線変更し、よりソリッドなサウンドに徹したこのアルバムでジョエルは最優秀ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞する。3年連続で同賞を受賞した彼は常連の候補者となり、以後1983年の『イノセント・マン』まで連続してノミネートされている。また、『グラス・ハウス』からは5曲がシングルカットされたが、そのうち「ロックンロールが最高さ」は彼にとって初の全米シングルチャート1位記録曲となった。

『ストレンジャー』のヒット以降順調に活躍していたジョエルにとって、1982年は数多くのトラブルに見舞われた年となった。『ナイロン・カーテン』の制作を開始した4月にはオートバイ事故を起こし、左手首に重症を負う。一ヶ月の入院を要した彼はアルバムのレコーディングを一時休止せざるを得なくなった。また、マネージャーとしてもジョエルを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーとの夫婦仲も拗れていた。結局ジョエルの財産の半分を慰謝料として受け取ることを条件に、彼とウェーバーは1983年7月に離婚に至っている。これらの私生活での様々なトラブルが影響してか、1982年の9月にリリースされた『ナイロン・カーテン』は、アメリカが当時抱えていた社会問題をテーマにした極めてシリアスな作品となっている。

数々の災難が続いた彼だが、1982年に行われたツアー後のオフで滞在したサン・バルテルミ島で出会ったスーパーモデル、クリスティ・ブリンクリーと交際を始める。彼女がプロモーション・ビデオにも出演して話題となった1983年のシングル「アップタウン・ガール」は、これまで彼にとって主要なマーケットではなかったイギリスで大ヒットし、初の全英チャート首位に輝いた。この曲は2001年にはウエストライフによってカヴァーされ、再びイギリスのヒットチャートの1位を記録している。

「アップタウン・ガール」が収められた1983年の『イノセント・マン』は、彼が10代の頃に慣れ親しんだ1950年代から60年代にかけてのオールディーズを基盤とした楽曲を中心に構成された極めてポップな作品である。このアルバムからは収録曲の半分以上の6曲がシングルカットされ、すべて全米トップ40ヒットになっている。『イノセント・マン』は本国アメリカや「アップタウン・ガール」で人気に火がついたイギリス、日本などを中心にセールスを伸ばし、最終的に全世界で800万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。

1985年には初めてのベスト盤となる『ビリー・ザ・ベスト』をリリース。彼の12年のソロ・アーティストとしての軌跡を総括するこの2枚組アルバムはアメリカ国内で2100万枚を売り上げたとされ、AC/DCの『バック・イン・ブラック』と並ぶ米国内におけるアルバムの歴代5位のベストセラーである。

ジョエルとブリンクリーは1985年3月23日に結婚し、同年12月には娘のアレクサ・レイ・ジョエルが誕生した。アレクサのミドルネーム"レイ"は、彼自身の憧れの存在だったレイ・チャールズにあやかってつけたものだった。1986年発表の「ベイビー・グランド」では、そのチャールズとのデュエットで大きな話題を呼んだ。この曲が収録されたアルバム『ザ・ブリッジ』では、ジョエルはほかにもシンディ・ローパーやスティーヴ・ウィンウッドらと共演している。

『ザ・ブリッジ』を最後に、ジョエルは『ストレンジャー』以来ずっとプロデューサーを務めてきたフィル・ラモーンとのタッグを解消する。また、バックバンドのメンバー編成にも新しい顔ぶれを起用し、1987年には新たにコンサート・ツアーを行った。このツアーのハイライトとなったのが6回行われたソ連での公演で、のべ15万人もの観客を動員した。これらの公演を記録したビデオとライヴアルバムも発表された。

1988年にはディズニー映画『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に声優として出演。チャールズ・ディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』が原作のこの映画で、彼はサントラ盤にも楽曲を提供している。

長年にわたってジョエルの作品を手がけたラモーンに代わり、ミック・ジョーンズをプロデューサーに起用した彼は1989年にアルバム『ストーム・フロント』を発表する。このアルバムからシングルカットされた「ハートにファイア」は同年の年間チャートで10位以内に入る大きなヒットを記録し、ジョエルにとっては3曲目となるビルボードのシングルチャート1位獲得作品となった。また、『ストーム・フロント』も彼にとって『グラス・ハウス』以来となる首位を獲得している。

それから4年後の1993年にはダニー・コーチマーがプロデュースを務めた『リヴァー・オヴ・ドリームズ』を発表し、前作に続く全米1位を記録。シングル・カットされたタイトル・ソングも英米ともにトップ3ヒットとなった。このアルバムでアートワークを手がけたのは妻のクリスティ・ブリンクリーだった。しかし彼女が他の男性と不倫関係に陥っていたことが発覚し、最終的に二人の結婚生活は1994年8月に約9年で終焉を迎えている。

『リヴァー・オヴ・ドリームズ』発表後、ジョエルは現役ミュージシャンとしての活動からの引退を示唆する。以後、彼の活動はライヴを主体とするものとなった。1997年発表のベスト盤『ビリー・ザ・ベスト3』や1999年の映画『プリティ・ブライド』などに新曲として提供されたカヴァー曲以降、彼自身によるスタジオ録音作品は一切発表されていない。その一方で彼はライヴ盤を2作リリースしている。いずれもニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたライヴを記録した2枚組のアルバムで、2000年の『ビリー・ザ・ライヴ』には前年末に行われたカウントダウンライヴの模様が、2006年の『12ガーデンズ・ライヴ』には同年1月から12回に渡って同会場で行われたライヴの抜粋が収録されている。

半引退状態になってからのビリー・ジョエルの代表的な仕事が、1994年に初めて行われたエルトン・ジョンとのジョイント・ツアー「フェイス・トゥ・フェイス」である。長年ジョエルがエルトン・ジョンにオファーし続けていたというこの企画はその後10年近くに渡って幾度も行われた。なお2000年以降二人が新曲を録音したという噂もあるが、今のところ発表には至っていない。

ポピュラー音楽からの引退を宣言した一方で彼はクラシック音楽への路線変更を試み、2001年に初のクラシック作品『ファンタジーズ・アンド・デリューションズ』をリリースした。朝鮮系イギリス人のピアニスト、リチャード・ジューによる演奏をフィーチャーしたこのピアノ曲集は、ビルボードのクラシック専門チャートで18週に渡って首位を記録した。

2004年の10月にはテレビなどで活動する23歳のタレント、ケイティ・リーと再婚、話題を呼んだ。2005年に未発表曲やレア曲を中心としたコンピレーションBOX『マイ・ライヴ』をリリースし、それに合わせ本格的なライヴ活動を再開、マディソン・スクエア・ガーデンでは12公演連続ソールドアウトの新記録を打ち立てた。以降、欧州、南アフリカ、オーストラリアツアーを経て2006年11月より8年振り10度目の日本公演に臨み、全盛期と変わらぬパフォーマンスを繰り広げてファンを熱狂させた。 2007年2月27日、クラシック作品を除けば14年ぶりとなるオリジナル曲「All My Life」をリリース、3月17日付のビルボード・シングルセールスチャートで初登場1位を記録した。

Wikipedia


The Stranger




My Life




Pressure




We Didnt Start The Fire




Youre Only Human



去年来日したことで御存じの方もおられるかと思いますが、やっぱいいですね。

今では趣味が高じてバイク屋のおじさんですが、音楽もまだ健在でしたね♪

やっぱBilly Joelは最高です☆彡

Kate Bush

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ケイト・ブッシュ(Kate Bush, 1958年7月30日 - )はイギリスの歌手、作詞・作曲家。

ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアに見出されレコードデビューに至った。それ以前、自分で売り込んだ際はレコード会社からは見向きもされなかった。

デビュー当時はアイドル的な見方もされたが、高い歌唱力をベースに高音から低音まで様々な声質を使い分け、トータルで独自の世界を展開するアーティストとして評価を得た。ステージで歌唱する際はダンスやパントマイムなどの体技を交え、一種のパフォーマンスを展開することが多い(シャイな性格のため、と言われる)。早い時期から凝った内容のプロモーション・ビデオも制作しており、音楽とビジュアルの融合にも意欲を見せていた。

完成度の高い作品を志向しているためか、割合に寡作なミュージシャンである。

1977年11月、エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』のTVドラマを見て作ったシングル『嵐が丘』 (Wuthering Heights)”でデビュー。全英4週連続一位を記録、同曲を収録したデビュー・アルバム『天使と小悪魔』 (The Kick Inside)も40万枚というセールスとなり、一躍大きな注目を集めた。

その後1978年に2ndアルバム『ライオンハート』 (Lionheart)を発表するも仕上がりが1枚目と同じく気にいらず、自分も裏方の仕事であるプロデュースをしなければと決心する。この後、西ヨーロッパでツアーを行い(映像ソフトがその後1981年に発売)、1980年の3rdアルバム『魔物語』 (Never For Ever)では共同プロデュース、1982年に『ドリーミング』では録り直しをして膨大なレコーディング費用がかかりレコード会社から嫌がられた事もあったが単独プロデュース、1985年『愛のかたち』 (Hounds Of Love)も自分でプロデュースをこなした。

1986年には初のベスト・アルバム『ケイト・ブッシュ・ストーリー』 (The Whole Story)を発表。またこの間にはピーター・ガブリエルやロイ・ハーパーなど英国の奇才ミュージシャン達との交流もあった。ベスト盤という区切りの後に彼女の新章を告げた作品が1989年発表の『センシュアル・ワールド』。これで初めてUSAでメジャーになった。ここでケイトはブルガリアン・ヴォイスの一員だった女性アンカ・ラプキーナ率いるトリオ・ブルガルカと共演。ボックス・セットの発売やエルトン・ジョンのトリビュート盤『トゥー・ルームス〜エルトン・ソングス』への参加を経て、次の彼女自身のオリジナル・アルバム『レッド・シューズ』が発表されたのが1993年のこと。ジェフ・ベックやエリック・クラプトン、プリンス(同い年のミュージシャン)などが参加した話題作だったが、母の死によってリリースが1年延びたものでもあった。 アルバムは全英2位と好セールスを記録し、シングル・カットされた曲もそれぞれヒットした。しかし、このアルバム以降のケイトはトリビュート作やチャリティ・アルバムへの参加、他アーティストの作品へのゲスト参加などはあるが、自身の作品をリリースすることなく90年代を終えた。

『レッド・シューズ』以降、オリジナルの新作が発表されないまま長い時間が経過し、ファンが待ち望む中で幾度か新作発表の情報が流れては消えた。ようやく新作の2枚組アルバム『Aerial』(エアリアル)が店頭に並んだのは、前作から12年ぶりとなる2005年11月7日(日本発売は2日)のことだった。第一弾シングル『King of the Mountain』も英チャート4位にランクインし、ファンはまだ彼女を忘れていなかったようだ。新作では休止期間中の1998年に生まれた息子アルバート(ケイト達はバーティーと呼んでいる)のアートワークをフィーチャーする一方で、これまでになくやわらかい空気にあふれた世界を作り上げている。

1.THE KICK INSIDE(天使と小悪魔)(1978年)
2.LIONHEART(ライオンハート)(1978年)
3.NEVER FOR EVER(魔物語)(1980年)
4.THE DREAMING(ドリーミング)(1982年)
5.HOUNDS OF LOVE(愛のかたち)(1985年)
6.THE WHOLE STORY(ケイト・ブッシュ・ストーリー) - ベストアルバム
7.THE SENSUAL WORLD(センシュアル・ワールド)(1989年)
8.THIS WOMAN'S WORKS(ディス・ウーマンズ・ワークス) - ベストアルバム(1990年)(8枚組)
9.THE RED SHOES(レッド・シューズ)(1993年)
10.AERIAL(エアリアル)(2005年)(2枚組)

Wikipedia


Wuthering Heights



Hammer Horror



The Sensual World


Kate Bushを知ったのは中学生の頃でしょうか・・・
天使の歌声と呼ばれた彼女の曲にすぐに魅了されました。
3〜40代以上の洋曲ファンでないと、ご存知の方は少ないと思いますが、今聞いてもその歌声はまさに天使です。
彼女を御存じ無い方でも「Wuthering Heights」は聴いた事あるのでは?☆彡

All You Need Is Love

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「We are the world」って曲をご存知でしょう、それを彷彿とさせる曲を見つけました。
アフリカでエイズのことをもっと知ってもらおうというチャリティで、12月7日に156カ国の人が参加して一斉に歌われました。
世界中のみんなで歌う、格別なビートルズの「All You Need Is Love」をお聴きください。


こうやって見ると個々の国々の人々の素晴らしさが判ります。
個々の人々は皆さん素晴らしいですね、人種を超えて人々は仲良く幸せに暮らす事が出来る証拠でもあります。
変な宗教感や人種差別、自国の利益の追従や地位や名誉、権力に凝り固まった概念さえなければ・・・




こちらは先月リリースされた「All You Need is love from BANDAGED TOGETHER」です☆彡


ビル・ワイマン、ブライアン・メイ、ブライアン・フェリー、ピーター・ガブリエル、ニック・メイスンといった、偉大なアーティストたちが勢揃!

あの「We are the world」を思い出します♪

あなたは何人のアーティストが判りましたか?

小生は特にブライアンのあのベースに感激しました。

All You Need Is Love!まさにその通りだと思います☆彡

The Gipsy Kings

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ジプシー・キングス (The Gipsy Kings) は、フランスの音楽バンド。 ワールドミュージックという音楽ジャンルを確立したグループのひとつ。

メンバー
・ニコラス・レイエス (Nicolas Reyes)/リードボーカル、ギター
・トニーノ・バリアルド (Tonino Baliardo)/リードギター
・カヌート・レイエス (Canut Reyes)/ギター、ボーカル
・ポール・レイエス (Paul Reyes)/ギター、ボーカル
・パチャイ・レイエス (Patchai Reyes)/ギター、ボーカル
・アンドレ・レイエス (Andre Reyes)/ギター、ボーカル
・ディエゴ・バリアルド (Diego Baliardo)/ギター
・パコ・バリアルド (Paco Baliardo)/ギター
・チコ・ブーチキー (Chico Bouchikhi)/ギター、ボーカル。アルバム「Este Mundo」発売前に脱退

フラメンコ界の巨匠で、かつメンバーのレイエス兄弟の父であるホセ・レイエス(Jose Reyes)が、息子達と『ホセ・レイエス & ロス・レイエス(Jose Reyes y Los Reyes)』というグループを組み、地元フランス南部のプロヴァンス地方で活動していたのがはじまり。 以後、レイエス家と親戚関係にあるチコとバリアルド兄弟が参加し、現在のグループ名となる。

各地で巡業しているうち、ブリジット・バルドーやチャーリー・チャップリンが、まだデビュー前の無名だった彼らのファンになったという話は有名。特にスイスのあるレストランで、ある老人が彼らの演奏を聞いて感極まって涙したが、彼らにはその老人が誰かわからず後になってチャップリンだったことがわかった、という話は有名なエピソードである。

世界的に有名になったのは、クロード・マルチネス(Claude Martinez)をプロデューサーに迎えてからである。彼はジプシー・キングスは素晴らしいが何かが足りないと思い、フラメンコを基調とした音楽に、現代的な音楽の要素(ポップス、ロック)を加えた。1987年に発表した『ジョビ・ジョバ(Djobi Djoba)』、『バンボレオ(Bamboleo)』がフランス国内で大ヒットした。彼らの知名度が上がったのは、クリスチャン・ラクロアのショーで使われたのがきっかけ。またフランソワ・ミッテランは大統領選挙で『バンボレオ』を使って若者の支持を得ようとしたことでも知られる。

なお、よく誤解されるが彼らの音楽はフラメンコそのものというより、南仏のラテンの要素が入ったルンバ・フラメンカというスタイルがベースとなっているのが特徴である。

Wikipedia



Tampa



Bamboleo



Faena



Inspiration



彼らを知らない方でも、ビールのCMやドラマ「鬼平犯科帳」のエンディング等、聴いた事ある曲が多いと思います。

ギターデュオだと日本ではゴンチチなんか好きですが、Gipsy Kingsもいいですね♪

Madonna

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マドンナ(Madonna 本名:Madonna Louise Ciccone)1958年8月16日)は、アメリカ合衆国ミシガン州出身のシンガーソングライター、女優、映画監督、文筆家、実業家。愛称は代表曲から来た「マテリアル・ガール(Material Girl)」、近年では「ポップスの女王(Queen of Pop)」とも言われる。2008年には、ロックの殿堂入りを果たしている。

イメージ 280年代初頭のニューヨークのダンスクラブ・シーンに登場し、1984年の大ヒット曲「ライク・ア・ヴァージン」を機にポピュラー音楽のチャートで成功を収め、その大胆で挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターになる。アルバムの代表作に『トゥルー・ブルー』、『ライク・ア・プレイヤー』、『レイ・オブ・ライト』などがあり、シングルの代表作に「ホリディ」、「クレージー・フォー・ユー」、「ヴォーグ」、「ミュージック」、「ハング・アップ」など多数がある。

MTVの登場により人気を得たミュージック・ビデオを巧みに活用しながらポップアートと音楽を融合し、日本では「マドンナ旋風」[1] とも呼ばれた現象的な成功を収める。セックス・シンボルとして不動の位置を固めるが、その後多様なイメージの変遷を繰り返し現在に至る。彼女の活動は音楽にだけに止まらず、レコード会社の設立、映画や舞台への出演、そして近年では児童書の執筆や映画監督なども行っている。2000年の『ギネスブック』では「史上最も成功した女性アーテイスト」とも記録された。

1958年8月16日、母の実家のあるアメリカ合衆国ミシガン州ベイシティ(Bay City)マーシー病院で、8人兄妹の3番目に出生。1987年ごろまで1961年生まれということにしていたが、1989年発売のCD『ライク・ア・プレイヤー』のライナーには1958年生まれとはっきり記載があるため、この頃までに元に戻したと思われる。

父はイタリア系シルビオ・チッコーネ、母はフランス系マドンナ・ルイーズ・チッコーネ(母と同名)。幼少期を、同州ポンティアック市(Pontiac)で過ごし、後に家族が増えたため、同州ローチェスターヒル市(Rochester Hills)へ転居した。

父は、GMのデザインエンジニア。実母はマドンナが6歳の時乳癌で逝去し、父はほどなく再婚した。母の死や後の父・継母との確執は彼女の精神性に大きな影響を及ぼし、「Promise To Try」「Oh Father オー・ファーザー」などの楽曲で歌われている。弟や妹の面倒もよく見ていた。そんな中でも、多くの習い事を幼い頃からしており、最初はピアノを習っていたが、父親に「バレエを習いたい」と懇願し、変えてもらう。その後、モダンダンス、ジャズダンスなど、ダンスを多く習い始める。

1977年、35ドルを手にグレイハウンドの長距離バスで郷里を後にニューヨークへ出発した。ニューヨーク到着後、タクシーの運転手に「この街で一番大きな場所へ行って!」と言い、タイムズスクウェアで降りたのは有名な話。なおベジタリアンとなったのもNY移住後である。

1978年 ニューヨークで、『パトリック・エルナンデス・レビュー』にダンサーとして出演。他にも数々の職に就く。この頃出演していた成人映画が有名になってからビデオで発売された。

2000年12月22日にスコットランドのドーノック大聖堂にて映画監督のガイ・リッチーと結婚したが、2008年10月15日にマドンナの広報リズ・ローゼンバーグが夫婦の離婚を正式に発表した。

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Lucky Star




Like a virgin




Material Girl




Papa Dont Preach



初期のPVを張り付けましたが、彼女は今年で50歳です、今とあまり姿が変わらないのに驚きです♪

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