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2008-6-30
最近、オリンピック水泳競技で着用する水着に関する議論が喧しかった。結局、日本水泳連盟は契約している国内3社以外の水着着用も認めるという結論を出したが、この英スピード社製の高速水着「レーザー・レーサー(LR)をめぐる問題を二つの観点で見ながら「身体化された知識」について考えてみた。
まず第一は「道具の使用」という観点である。すなわち、水着が、陸上競技におけるレースシューズや野球におけるバットのような道具として捉えられているということである。水着を道具として捉えることに対する違和感は、LR水着を着たスイマー達が日本新を連発した時の古橋広之進水連名誉会長の「昔はふんどしをして泳いでいたんだよ」という発言に代表されよう。これは、NC工作機械やロボットが工場に登場した時に当時の熟練工が抱いた思いと似ているように思う。
これに対して、競泳ジャパンオープンにスピード社製の水着を着て決勝に臨んだ北島は「泳ぐのは僕だ」と書かれたTシャツで登場した。彼の含意は「僕が着て泳ぐから日本新・世界新が出るのだ、弱い人間が着てもチャンピオンになれるわけではない」ということだったのかもしれない。これは、随想録(74)「北区未来を拓くものづくり表彰(2006年度版)」で書いた、日本に数台しかないという同時5軸制御のマシニングセンタ(MC)を駆使してF1やレーシングバイク用のパーツといった加工難度の高い複雑な形状の試作部品を作り出している根本さんの「五感を駆使して汎用機をしっかり使いこなしていないとこのMCは使えない」という言葉と共通するものがあろう。LR水着という新しい道具を短期間で使いこなすことが出来たのはそれまでに身体化された知識の蓄積が十分にあったからこそ、ということである。
LR水着とよく似たケースとして、パワーリフティング競技におけるパワースーツ(肩から吊るタイプの水着と似た形をしている)というものがある。着用に相当の苦労をするこのスーツを着込んでスクワット(バーベルを担いでしゃがんで立つという競技種目)を行うと、何もつけない時よりも数10キロ重い重量が挙がる。小生もこれを使ってみたことがあるが、スクワットで自己ベストの20kg上の重量が挙がったことがある。ただ、これを使ってこの種目の記録が伸びたとしても自分がやっているウェイトリフティング競技の記録が向上するわけではないのでその後は使っていない。しかし、スクワットという種目を競技として行っている選手にとってみればこのスーツを使いこなすことが競技成績の向上につながるから、自分の身体に合うように縫い直したり様々な工夫を加えたりする選手も多いと聞く。一流選手ほどこの道具を使いこなす工夫を凝らしているようだ。
人間が道具を持って(身体そのものが道具となる場合もあるが)作業をする時、これを身体と一体化させようとする作用が働くようである。だからこそ、われわれは「作業に集中する」のである。これが「身体化された知識」形成の出発点である。LR水着もパワースーツも、素人が着用してもその競技のチャンピオンになれるわけではない。これらは長年の猛練習を積み重ねた上で使用した場合に、身体と一体化して大きな効果を持つものであろう。
しかし、この水着が道具であるとしても、着用してすぐに自己記録を更新して日本記録や世界記録が出るということは、それまでに積み重ねた基本的な競技力は別にして、この道具自体を使いこなすことにはそれほどの努力は必要でなかった、とみることも出来る。苦労して身につけたもの以外のところで勝負が決まってしまうことに対しては、古橋さんならずとも、疑問を持つ人も少なからず存在するようだ。
その意味では、この水着について「これはドーピングと同じではないか」というもう一つの観点で考えることも出来ると思う。使いこなすのに技能を要するとはいえ、それまでとは違った道具を使って、大幅に記録を伸ばすことは、薬物に頼るドーピングとあまり変わりがないのではないか、という見方である。これまでに決められたルールの下で苦労して身体化させた知識そのもので勝負してはいないのではないか、ということである。
(財)アンチ・ドーピング機構によれば、ドーピングを禁止する理由は、大きく分けて以下の4つである。まず第一に、選手自身の健康を害する。第二に、スポーツ界の参加資格として皆が守っている禁止規程を自分だけ守らないで有利になろうとすることは不誠実である。第三に、社会悪である。選手が薬まみれにならなければ勝てないようでは、スポーツ文化は世間から葬り去られる。第四に、スポーツ固有の価値を損ねる。スポーツ固有の価値には「倫理観、フェアプレー、誠意、健康、優れた競技能力、人格と教育、喜びと楽しみ、チームワーク、献身と真摯な取組み、規則・法規への敬意、自他への敬意、勇敢さ、共同体・連帯意識」があり、こらの価値を損ねる。
このようにドーピングは、健康への害、不誠実、社会悪といった「悪」につながるだけでなく、スポーツの価値や意味そのものを「否定」してしまう、という理由により禁止されている。とりわけ、健康への害というのが最大の根拠になっている。すなわち、アナボリックステロイドのようなドーピング禁止薬物を使い続けると深刻な副作用が懸念される、というわけである。いずれにせよ、これらの全ての根拠を突き詰めていくと「価値観」の問題に行き着く。
強くなりたいという「夢」が一瞬にして「現実化」してしまう。夢と現実の間をつなぐ身体化プロセスがスポッと抜けてしまっている。これを是とするか非とするかは、結局は価値観の問題であろう。むろん、スポーツとは異なり、労働の分野においては、例えば、随想録(60)で紹介した「割り屋」という仕事を行う人や介護の重労働を行う人が、ロボットスーツ(もしくはパワードスーツ)のようなものを着て作業することには、機能とコストの問題さえ解決すれば、異を唱える人はいないだろう。このあたりにスポーツと労働における「身体化された知識」の本質的な相違がある。
ではこのような労働において同じパフォーマンスをアナボリックステロイドを使って短期間で筋肉を飛躍的に増強させることで実現させたらどうだろうか。副作用の問題が全くなければ、これを使用する人も出てくるかもしれないが、「何もそこまでしなくても」という、スポーツと同様の価値観の問題が起きてくるだろう。ものづくりの現場においては、道具を使いこなして知識を身体化させていくことは常に評価されるべきことである。しかし、薬を使って生身の身体を別人の様に変えることで、本人の努力とは無関係に、何かを身体化させることに対しては、少なくともものづくりに関わる労働の意義を正当に評価する現場においては、かなりの抵抗があろう。
終戦直後の混乱期に人々の精神を昂揚させる手軽な薬品として強壮剤のように利用されていたヒロポンという薬があった。語源がギリシア語の「労働を愛する(philoponus)」にあるとする説もあるこの塩酸メタンフェタミンを服用して辛い日々の労働に耐えていた人も多かったようだ。しかし、ヒロポンは、多数の中毒患者が出て社会問題となったことから、1951年に覚せい剤取締法により取り締まりの対象となった(現在でも、覚醒剤取締法に規定された特定の医療機関には販売されている。中枢神経を刺激して覚醒させる作用があるので、うつ病、精神病などの虚脱状態に用いられているようだ)。もしこの時に多数の中毒患者が出ずに、その副作用も明らかでなかったならば、いまだにこれが一部の労働現場では使われていたかもしれない。
ヒロポンを使うことが出来なくなった今日においても辛い労働はなくならない。それどころか、非人間的な過酷な労働が話題となる職場も少なくない。派遣労働者を多用した、量産組立ラインにおける単調で辛い長時間労働や劣悪な環境における重労働。365日続く「名ばかり管理職」のサービス残業。今後、医薬品産業の発達と共に、これらを会社の組織として乗り切らせるためにドーピングのようなものが行われないとも限らないだろう。アマチュアスポーツにおいて、罰則以外でドーピングにブレーキをかけるものは、「そんなことをして何になる」という、本人の価値観による自問自答である。小生は、多品種少量の、本来のものづくりを中心におく、自律性ある町工場においては、このようなブレーキとなる労働の価値観が堅持されていると確信しており、ここに日本のものづくりの精神的な基盤があると考えている。
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水着については道具の発展ですから、私は問題がないように思っています。あまりにも劇的に変化したのにショックを受けるのは分かりますが、道具の善し悪しで記録が決まるというのも問題はないと思います。人の力を最大限引き出したのか、人の力ではでない分を道具が補ったかが基準ではないでしょうか。
2010/2/24(水) 午前 8:18 [ 籠橋隆明 ]