|
2009-3-31
100年に一度の経済不況だと言われる。確かにどこの中小企業も軒並み大変な状況にあることは間違いない。先を読もうにも「未曾有」となるとなかなか難しい。しかし経済事象を考察する場合にはもう少し冷静になる必要があろう。非常に不確実の時代が来たとか、きわめて不安定な状況にあるとか言うが、ある一つの経済事象は多数の要因によって引き起こされるものなのだから、まずはその要因を数え上げて考えてみる必要がある。そして、例えば為替レートを動かす要因が今仮に10あったとする。しかし、10の要因を単純に並べたてただけでは何の意味もない。重要なことはある一つの経済的な事態を引き起こす要因がこれだけありますという羅列ではなく、今現在のわが国、あるいはわが社においてはどの要因が一番効いているのかということなのである。10の要因の間に順位をつけることである。今一番効くのはこれであるということを見抜く能力が必要なのだ。これは経済統計の理論が教えてくれるものではない。だから混乱期には理論家の言うことが少なくとも短期的にはあまり当てにならないのである。
次に、これが一番効く要因だということがわかったとしても、政策担当者あるいは自分自身がこれをコントロール出来るのかどうか、あるいはそれを読むことが出来るのかどうかということが問題となる。猫に鈴を付ければよいということがネズミの会議で決まったとしてもだれが鈴を付けるのかという段になって皆黙ってしまうようでは意味がない。そこで、順位的に第一位の要因であったとしても自分でコントロール出来ない変数であれば、順位は二位以下でも自ら制御出来るものを遅滞なく選んで実行に移すことが、問題解決に立ち向かわなければならない人間にとっては肝心である。 通常、経済予測をする時、われわれは出来るだけ多くの説明変数を考えて、そのデータを包括的に集めて、これを詰めるだけ詰めていく。しかし、上述のとおり、物事にはコントロール出来ない変数というものがある。これがどう動くかということに関しては理論的根拠が全くないというものがある。しかし、経営者や一国の政策担当者であれば、たとえ根拠がわからなくても、やるのかやらないのか、右か左かを決定しなければならない。これがデシジョンメイキングを行わなければならない人間の辛いところでもある。 この点をもう少し深く考えてみよう。結局、社会事象や経済事象においては、自然科学の世界と異なり、人間が介在するために、数量化できるものの他に数量化できないものが数多く存在するのである。従って、ホワイトヘッド(哲学者)の「数学的計算が長くかつ正確だからその結果の現実への適用は絶対的に確かである、と想定することほどよくある誤りはない」という言葉が正鵠を射たものとなる。ケインズは『一般理論』において投資の説明変数として期待(expectation、日常用語の意味とは異なる「投機」に近い意味を持つ)という量化できないものの役割を強調したが、それもこのような考えに基づくものであった。そこでは経済人がどのようにして期待を形 成するか、そしてこの期待がいかにくずれやすいものであるかを示し、これに依存する投資の変動しやすさを論じている。彼は量化可能なリスクと、信頼しうる情報の欠如から生じる量化不可能な不確実性とを明確に区別している。将来は基本的に不確実であるから厳密に合理的な行動は不可能である。にもかかわらず、われわれは意思決定を行い行動しなければならないから、一般的には、現在の状況を不比例的に高く評価して期待を形成する。このことが悲観が一層の悲観論を呼び、楽観が一層に楽観論を呼ぶ、という不況期やバブル期特有の自己増殖的な現象の基盤にあるのだと思う。 したがって、経済の勉強をする場合、現実の経済事象には理論で説明出来るものと出来ないものとがあり、それを見分けるために理論の勉強をしているのだという認識をしっかり持つことが大事であろう。理論を勉強して、ただ単にデータをたくさん集めてコンピュータにぶち込んで計算するだけでは学者の論文にしかならない。政界においては「一寸先(約3センチ)は闇」とよく言われる。しかし、政治の理論に通暁している人には10センチくらい先を見通すことが出来る人は結構いるようだ。経済の見通しでも数年先を理路整然と読む人はいる。しかし、不況がいつ来ていつ回復するかを当てる人は少ない。多くの場合、正しい理論であったとしても、それは時間をか けて貫徹するものである。嵐の最中に「未だかつて止まなかった雨はない」と言っても操舵する人にとっては当面何の意味もない。しかし、少なくとも希望にはなるかもしれない。理論を勉強する意味は、急激な変化の中で、いたずらに刹那的に右往左往する心にブレーキをかけることにあるのではないだろうか。 もう一つ、経済の混乱期において先を読む際に留意しなければならないことは、自分の思考における固定観念的な前提条件を取り払うことである。昔、バナナがまだ貴重品だった頃、これが自由化されるということになった。その時、日本のリンゴ農家など業界の人たちは、バナナが自由化されるとリンゴは全く売れなくなるとしてこの自由化に反対した時期があった。この考え方の基盤には、暗黙のうちにリンゴをバナナよりも劣った果物だとする固定観念があったようだ。しかし、現実には、バナナが自由化されて大量に入ってきたらどうなったか。時の経過とともにリンゴの品質も改良され、高級ブランドものも登場してきた。バナナの皮で滑って転ぶというギャグが なくなるととともに、優等財と劣等財のレッテルは入れ替わった。この場合、バナナが外国から大量に入ってくることでリンゴの良さが再認識されたとも言えよう。 グレープフルーツの自由化の際にも同じようなことがおきた。当時の日本では柑橘類の主役は蜜柑であった。蜜柑農家が大変なことになるということで、業界をあげて大きな反対運動が起きた。しかし自由化後どうなったか。グレープフルーツが柑橘類の王様になることは一度もなかったように思う。むしろ、いろいろな新しい種類の国産柑橘類が登場してわれわれを楽しませてくれるようになったのではないだろうか。 国内においてはものづくりを主体として輸出立国を図ってきたわが国の場合、経済的混乱のきっかけは今回の金融危機のように、心理的には、黒船的な「青天の霹靂」で海外から来ることが多い。その場合、これを「ショック」と捉えて、自分の思考の範囲内で拘縮してしまう傾向が企業にも家計にも強い。消費者はそれでもよいかもしれないが、経営を行う企業家がこれではだめだろう。混乱期においては、限られた地域や思考の範囲内の論理で考えていても妙案はなかなか生まれない。自分の発想の拘束条件となっている地域や業界の枠を取り払った上で、この世界、この国、この地域、この産業の中で自社が生きていく方策を考えることが重要だろう。「経済は時間の中におかれており、時間は取り消すことのできない過去から未知の将来へと一方通行で流れて行く」というロビンソン(経済学者)の言葉に「企業は空間の中で活動しており、時間の流れの中で、その思考空間のフロンティアを未知の領域へと拡大して行かなければならない」という言葉を付け加えたい。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年02月22日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




