高級ホテル・高級旅館に行こう!(ホテル・旅館宿泊感想記)

皆様ご無沙汰しています。元気にしてますか?私は変わらず元気にしています☆ 2018/12/26やすひろ

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翌朝、オフィスの窓から見渡す東京の街は、
何事も無かったように綺麗な朝焼けが広がっていて、
現実に今起きていることとのギャップが
不思議なくらいだった。



動き出した私鉄で一度自宅への帰路についた。
まだ動かない電鉄もあり、ダイヤも乱れてはいたが、
私の乗った路線は、昨夜の混乱が嘘のように、
乗客は既に少なくなっていて、
ゆったり座って帰れるほどだった。



私鉄の途中駅で迎えの車を待つ間、
昨夜どうしても電話が繋がらなかった、
伊豆の旅館へ残念ながらキャンセルの連絡を入れた。


海沿いの宿であったため、こちらも心配していたが、
直接の被害や混乱はなかったようで安心した。


もちろんこの後、地震や原発問題などの影響は、
多くの観光地に多大な打撃を残すことになるのだけれど。


自宅に戻り、コーヒーを入れながら、
再びテレビをつけた。
 

昨夜、闇に包まれていた被災地の実態が、
徐々に明らかになってきていた。
 

行方不明者の数も、時間を追うごとに増えていく。

というよりも。。。
多分誰も掴みようが無いくらいの被害なのだろう。
 

昨夜は身の回りの対応に追われていた中で、
入ってくる情報からイメージしていたものを
遥かに超えるものが東北の沿岸を襲っていた。

宮城県の気仙沼、陸前高田、
福島の相馬周辺の映像が繰り返される。
 

上空から映し出す光景は、まるで映画の世界。
陸地を滑るように全てをのみこみながら
進んで行く海水。

家も畑も、必死に逃げる車さえも。。。
 
ただ言葉を無くし、逃げろ、助かってくれと
心の中で祈りながら目の前の光景を
じっと見ていることしかできない。
 

最初の津波は20cmほどだったらしい。
 

ただ、その傍らで、
川の水は急速な引き波で水が無くなっていて。
その直後には海面が急速に盛り上がり、
気がつけば、港を街を次々にのみこんでいく。


避難した建物の屋上から見ていた街が、
一面同じ高さの海に変わる。


大きな被害があったエリアの一部では、
地震から一時間近く経ってから襲ってきた
ところもあったらしい。
もう大丈夫そうだねと思った直後に。


まさかここまで津波がくるとは想像すらできなかった。
被災地の方の声。本当にそうだろう。
誰が海岸から数百メートル離れたいつもの街並が、
目の前の風景が、一面の荒れ狂う海に
一瞬にして変わるなんて想像できるはずもない。


少し前にGoogleMapのストリートビューが、
被災地の一部データを更新したと話題になった。


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写真は陸前高田市。
マップ上では、ここにタイヤショップや奥には市役所があって。。。
整然とした更地が、そこに積まれた瓦礫の山が、
どれだけのものを奪っていったのかを物語っている。


後に様々なメディアで目にした
その瞬間、その場所で起きていたリアルは、
余りに過酷な光景でした。



明日から大きな決断をしなければならない局面が、
きっと想像を超えるレベルでやって来るんだろうと、
心の準備をしながらニュースを眺めていた。


日曜日、午後からグループ会社の本社役員が
全員集合することになった。
フロア移転の荷物搬出入は予定通り行われ、
我々はグループ本社で翌日月曜日からの
指示内容を協議した。


数時間おきに連絡をとっている東北支社のスタッフは、
一度自宅に戻ったものの、ライフラインが全て途絶えているため、
みな暗くなる前に避難所へ戻ったらしい。
早くも水や食料が手に入らなくなってきているそうだ。


翌朝からは対応と判断の連続だった。
こういう一大事には何が必要で、
どのような判断を取るべきか、
実際に考え、様々な実例も見ることができた。
これは本当に今後へ活かさなければならないこと。


そして、もうひとつ大きな傷を残す、
福島原発問題が追い打ちのように加わった。


確かに想定を超える規模の震災と津波だったのかもしれない。


ただ、震災直後の予備電源喪失や、その後の電力不足危機など、
流れる情報だけを聞いていると、
万が一の場合、人命や国土、経済活動が取り返しのつかないことになる
リスクを持つ設備の危機管理としては、
個人的にはあまりにお粗末ではないかと思う部分がある。


数日して、仙台の中心部にある支社は電気や水道が戻った。
しかし、物資状況は更に悪化していた。
もちろん支社員の自宅は依然ライフラインが戻る目処は無い。


本社では、市内中心部は一気に復旧するのでは無いかという意見もあったが、
当日から連絡をとりあっていた私は、
本人達は口に出せないが、既に疲労困憊し、
日を追うごとに悪化するニュースに、
一刻も早く他エリアへ避難したい気持ちと、
支社を守る使命感の間で揺れているだろうと感じ、
また彼らには発言や判断出来ないとも思った。


現在の東北支社メンバーが地元出身でないこと、
クライアント側も当面は復旧業務中心となることが見込まれ、
皆一人暮らしをしている中での安全性や、
原発状況の悪化、自宅が機能しない中での業務継続は、
精神的、体力的にも限界と判断し、
本社へ即座に避難させるべきと提言した。


原発も更に悪化傾向にある中、
既に関東へ戻る術も限定されはじめていた。
支社の一時休業を決定し、すぐに荷物をまとめてくるよう指示。


帰京ルートは、彼らが支社に再び戻るまでの数時間で模索することになった。
車のガソリンはもたない、空港も津波で閉鎖、
もちろん新幹線や東京方面に向かうバスは不通。

あらゆるルートを模索し、山形空港経由であれば、
まだフライトが可能であることがわかったが、
既に満席、ただ臨時便やキャンセル待ちは今なら出るらしい。


同時にグループ会社社員の関係者を聞き、
山形空港の近隣でお寺をしている方がみつかり、
便が取れるまで何泊でもすればいいと
受け入れて頂けることになった。


移動資金を支社の小口口座へ振り込み、
タクシーを分乗して本日中に山形へ移動し、一泊。
翌朝から空港でキャンセル待ちの指示を出した。


山形のお寺の方は本当に温かい対応だった。
支社員は、着いて直ぐにお風呂へ入れるように準備され、
夕飯も沢山出して頂き、温かい部屋で布団もすべてセットされていたそうだ。


幸いにも、翌日の午後早い時間には搭乗便が決まり、
夕方には全員本社へ到着した。


偶然にもその日のニュースから、山形へ向かうバスが混雑しはじめ、
空港から避難するルートの情報が流れた。
その後、数週間先まで予約が埋まり、キャンセル待ちになった。
あと半日判断が遅れていたらと考えると更に身が引き締まる思いだった。


東北支社のメンバーは翌日から3日間、
休暇扱いとして各自実家に戻した。
当然、社員のご両親も仙台で勤務する我が子を、
気が気で無い心配をされていただろう。
その後、ある支社員のお父様から代表宛にお礼の電話が直接あったらしい。
とにかく無事で本当に良かった。


その後も書けば切りがない位、色んなことがあった。
東北のクライアントや、協力会社の方からお聞きした現状、
特に沿岸部周辺の情報には心を打たれるものがあった。

支社の開設以来立ち上げ、
毎年夏に恒例となっていた仙台市営地下鉄と、
JR仙石線広告枠を貸し切って走らせていた企画。
 
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ニュースでは、あの情緒ある仙石線が、
一部が津波に流され、駅や線路も多大な被害を受けた映像が流れていた。
既に満枠のお申込みを頂いていたが、中止を決断した。

首都圏でも初となる主要駅のデジタル広告枠を
ある業界でジャックする企画も、
JR側と協議の末、夏場の電力見通しが不安定なため、
同様の判断をした。


首都圏の企画は今年改めて実施が決定したが、
東北の企画再開は、インフラだけでなく、
メンタル面を含めて考えるとまだ長い時間がかかるだろう。


大学時代、親友の実家へ泊まりに行き、
良く遊んでいた福島県いわきの海岸も、
北海道と毎週のように行き来していた仙台空港も、
支社の開設時からお世話になった仕事関係者の方々も、
大小様々な被害を受けていた。


震災とは関係ないけれど、7月初旬に母方のばあちゃんが亡くなった。
95歳なので大往生。ウタという名前の通り、
老人ホームでは最後まで愉快な歌を唄って、
お友達とも楽しそうだったそうだ。


初孫だった私は、本当に幼少の頃から可愛がってもらっていた。
最近は、たまに顔を出しに行くと、やすひろだって理解できたり、
そうでなかったりだったけれど、「来てくれてありがたいよ」と、
いつも必ず涙を流して手を握ってた。


そんなばあちゃんの葬儀に、福島に住む叔父さん一家もやって来て、
いとこの姉弟とも久しぶりにあった。
年は既に30歳近くになっているが、
二人とも高校生に間違われるくらい見た目が若く、
元気で明るい姉弟だった。


夜、皆で飲みながら、やはり震災当時の話になった。
福島駅近くの自宅は、家屋は無事ながら、
やはり部屋の中の家財は倒れたりで大変だったそうだ。


あの日、仕事の都合が変更になり、
福島に戻っていた従弟だったが、
予定では気仙沼の海近くの宿で滞在することになっていた。


予定通りだったら。。。
そんな「もしも」が数多くの生と死を分けたのだろう。


原発事故発生後は、福島県ナンバーの車で県外駐車していたら、
傷をつけられていたり、ガソリンスタンドでは給油拒否なんてこと
も身の回りであったそうだ。


明るく話しているが、他にも耳を疑うようなことが現実にあったらしい。


このブログを含め、
できる限り日常に戻して行くと自分なりに思っていましたが、
祖母が亡くなって以降、もともと予定されていた他の法事に加え、
法事で会った父方の伯父さんが急に亡くなったり、
社員のお母様、クライアント等、
夏以降は信じられないくらい毎週喪服を着ておりました。


こういう年もあるのかと、今年は喪に服して、
やはりしばらくお休みすることを決めました。


あの日から、あっという間に1年が過ぎようとしている。
何年もかかるかもしれないけれど、
必ずまた、東北の地でやっていたことを復活させたいと思う。


先週、非常時用に備蓄をしていた食料や水などを
全て買い替えた。
また使わずに済んで次の買い替えが迎えられますように。


福島のいとこ姉弟が、
宿泊でお世話になったお礼にと、
色んな福島名産品を送ってきてくれた中に、
会津の「赤べこ」がありました。

赤べこは、言い伝えでは大昔にお寺を建立した際に、
大木を運ぶ牛の中で、大変な重労働に最後までやり通したのが、
赤い牛だったということから作られたそう。
 
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福島が元に戻るには、本当に数十年という長い年月がかかるものになる。
でも一歩一歩確実に取り戻して欲しい。
東北沿岸部の本格復興はまだこれから。
自分もこの出来事を忘れぬよう、赤べこをリビングに置きました。


引き続き私も自分の分野を中心に、
東北を応援していきたいと思います。


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長いお休み期間の出来事。


やはり、あの日から遡ります。


書いては直し、また消してを繰り返し、
それでも長文になりました。
まだ思い出したくもないという方もいらっしゃるでしょう。
スルーしてください。


以前、震災前後の出来事は少し書いていましたが、
自分の周りで起きた出来事として備忘録も兼ねて、
残しておきたいと思います。


2011年3月11日。

この日は会社のフロア移転を週末に控え、
朝から荷物の梱包やら、機器搬出の準備を仕上げていました。

翌日からの週末は、
このブログを通じて知り合った
宿スタッフさんからのご案内で、
伊豆のとある新しいメンバーシップ制旅館への旅を計画。

もう生まれてから100回以上は出かけているであろう伊豆へ、
今回は初めて伊豆の踊り子号で行ってみようと、
指定席も早々に予約。
運転も無いし、景色を見ながらシャンパン祭りだ〜♪


なんてことをモチベーションにしながら、
絶対週末には仕事を持ち越さないぞと、
昼食もとらず一気に片付けを進めたおかげで、
机上の資料や荷物がほぼ全て引越し業者の
ダンボールに納まりました。


飲まず食わずで、喉もカラカラだった私は、
遅い昼食へとエレベーターに向かい席を立ったそのときでした。


あれ。。。地震?


会社は高層ビルの30階近いフロア。
免震構造ビル独特の立っていてもフラッとくる感覚の直後、
ビルが真横に数メートル動いたような揺れが始まりました。


このビルで地震は数度あれど、
今までに経験したことの無い感覚。


揺れは激しさを増し、荷造りが済み、
空になったフロア内ビジネスデスクの引き出しが
一斉に揺れに合わせてガシャンガシャンと
大きな音をたてながら
開いて閉じてを繰り返しはじめる。


更に大きくなった揺れはロッカーの荷物を投げ出し、
軽くなったデスクを足元から動かしていきました。


大きな窓際にいると、まるで外へ投げ出されるような
感覚になってくる。
窓の外では近くのガラス張りのビルが歪みながら揺れている。


長く大きな揺れがやっと収まりはじめたものの、
船に乗っているような浮遊感が続く中、
何がおきたのかを掴む動きが社内で始まりました。


ネット、ラジオ、テレビetc


震源地がすぐにわかった。
東北仙台沖らしい。


即座に仙台にある東北支社へ連絡するも、
専用回線の内線すら繋がらない。
もちろん支社スタッフの携帯電話も同じ。


どの程度の影響なのか探ろうとしている中、
デジタルメディア担当部署から声が上がった。


一番最初に見た画像は、
Twitterに投稿された仙台駅の新幹線ホームだった。
出張で見慣れたホームの駅看板が落ち、
コンクリートが崩れているようにも見える。


次々に入ってくる情報と画像。その間も余震が続く。
社内にいた社員全員の無事を確認し、
倒れるものが無いエリア周辺に集め、
まずは家族や連絡すべき相手に連絡をかけさせた。


当然都内も携帯が繋がらない。
メールも簡単に届かない。

私もとりあえず気になる相手にメールだけ送信し、
同時に外出している営業担当や、
支社の無事を確認すべく、
手分けして作業にかかった。


中部より西は揺れはあったが問題ない様子。
北海道も確認がとれて今のところ問題なし。
関西、中四国、九州と西日本エリアの支社にも協力を仰ぎ、
東京本社と東北支社の外出しているスタッフへ
連絡をとってもらった。


ふと眼下をみると、
人が歩道に溢れ、道路は早くも動かない。
遠くのビルでは明らかに火災と思われる煙や、
大きな炎も上がっていた。


外出社員の安否確認を継続しながら、
社内にいた役員で緊急ミーティング。
現状入っている情報とこの後の確認方法と
行動指示を即座に決定。


新たな期に入る10月から担当支社変更により、
引き継ぎを終えていた東北支社でしたが、
支社の立ち上げから管理していた私が、
この震災対応における東北支社を
改めて臨時担当することになった。


1時間ほど経ち、更に情報が増えてくる。
外出している本社社員からも少しずつ連絡が入り始めた。
大型のホワイトボード数台に社員の現在状況が書かれて行く。
自宅からも、会社からも遠く離れた場所で電車の足止めを
されている社員もいた。


出先から帰れる者は直帰させ、
会社に戻る方が早く安全なら戻るように指示。
遠方にいる社員は、ホテルでもどこでも滞在できるなら安全を優先させ、
今夜の対応だけ決まったら連絡を入れるようにさせた。
会社のビルも24時間空調を含めて滞在可能になることが決まった。


ビル内の貨物用エレベーターが再稼働し始めたため、
とりあえず飲み物と簡単な食料を買いにと地階へ降りた。


驚いた。
いつものビル内コンビニは早くもレジに長い列ができ始め、
軽食やインスタント食品、お菓子類、
そして飲料やビールなどまで無くなりかけていた。


取りあえずミネラルウォーター数本と、
チョコレートなどあるものを買って、またオフィスに戻った。


どうやらJRが早々に運行の取り止めを決定した様子で、
私鉄も再開の目処がたたず、社内に泊まりを覚悟した人たちが、
会社単位で越夜のための買い占めが始まったようだ。

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確かに、駅周辺は行き場の無い人達が殺到し、
見たことの無い数の人で溢れかえっていた。
夕刻に向かうに連れて寒さも増してくる。余震も続いている。
自分の連絡すべき人は幸いにも皆無事が確認できた。
この時、会社に留まることを覚悟した。


東北支社とは未だ連絡がつかない。
今日の予定では、営業の一人が福島へ遠方営業に行っていて、
他のスタッフは仙台市内周辺にいるはず。


この頃、既に東北の沿岸地区では、
今回一番の被害と影響をもたらした大津波が来ていたことを
ニュースで知った。
もちろんあんな規模の津波だとはこの時想像もしていない。


夜になり、本社全員の無事がようやく確認できた。
徒歩で帰宅する者、社内にとどまる者、次の行動に移った。
私鉄の一部が動きはじめたという情報が入り、
駅へ様子を見に行くと、そのホームから遠く離れた場所まで
続いた長い人の列。


地震発生から数時間、暖をとる場所すらないまま、
震えながら並ぶ人もいた。
あまりの人の多さと、
我慢の限界ギリギリで大混乱が治まっているような空気。
 
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人の波に呑まれて行くと、
身動きすら取れなくなりそうな状況に
危機感を覚える光景だった。


社内でひたすら社員の安否確認と、
テレビやインターネットから情報を聞いていく。


深夜になり、やっと東北支社リーダーの携帯電話から連絡が入った。
支社内は物が倒れ、混乱しているが全員無事だとのこと。
福島に行っていた営業担当は、車で8時間ほどかかり、
何とか仙台市内に戻ってきたらしい。


ラジオから得る情報だけで辿り着いた市内。
電気や信号も消えた闇のような街に、
何が起きているのかわからない恐怖を感じながら、
明かりのついているビルを見つけ、降りてみたら、
自家発電により電気がもどったそこには、
避難所のように人が集まり、
ロビーに設置されたテレビから状況がわかったとのこと。


支社メンバー同士も連絡がとれたので、
一人暮らしの社員大半は、今夜ここで過ごすという連絡だった。


支社との指示連絡は私に一本化することを確認し、
翌日からの週末も一日数度連絡をとることにした。
社用車や自分の車に、各自が車載携帯充電器を
積んでいたのが幸いだった。

ガソリンが入らなくても、各自の携帯電話は途切れなかった。


東北支社の無事が確認できて、
やっと少しホッとしたころ、ニュースではヘリコプターから、
津波による大規模火災の風景を繰り返し伝えていた。


赤く炎が広がる港街。
夜の闇に包まれたこの映像の下で、
どれだけの凄まじい出来事がおきているのか。
まだこの時ははっきりわかっていなかった。


ただ、これが現実に今起きていることとして
実感が沸いてきて、
尋常でない規模の震災になっている
予感のようなものだけが
徐々に伝わってきた夜でした。


一晩中、ニュースを耳にしながら気がつくと明け方に。
朝から私鉄の運行が始まり、
泊まり込んだ我々も一度帰宅することに。
やっと震災当日の長い一夜が終わった。

②へつづく。

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新年明けましておめでとうございます。
 
いつもご訪問頂いているブログ仲間の皆様、
新たにアクセスいただいた皆様、
長期間に渡りブログを離れ、
メッセージやご挨拶もせず、
大変失礼致しましたことを改めてお詫び申し上げます。


さて、何から書こうかというくらい、
長いお休みを頂いてしまいましたが、
本当に2011年はいろんな出来事がありました。

いや、特に私自身は変わらず
元気に過ごしておりました。

 じゃあ何しとったんじゃい! ということですが、、、


素直に言えば、
やはり余りに大きな震災が残したものを、
見て、聞いて、想う度に、
書こうと思う手がPCを前に止まりました。


「こんなに楽しく、素敵な時間!」


なんてことをこのタイミングで
どんな表現を使っても適切な言葉がみつからず、
また読んで頂く方にも心に入らない、むしろ。。。

私のブログ内容からして当然ではありますが、
楽しんでコミュニケーションするイメージが
全く持てませんでした。



「一隅を照らす」


どうすべきか考えながら、浮かんだこの言葉。
今は一人ひとりが自分にできることや専門分野で、
より一層努力することによって、
被災地に、日本に、活力を取り戻す貢献をする時期なんだろうと。


しばらくブログも離れ、今すべきことや仕事に集中しようと決めました。


さて、かなりマイペース化していたこのブログに、
更に今までに無い長期休みを頂いたわけで、
何から書こうかという話です。
 

新年早々から過去を振り返るようでどうかという思いもありますが、
やはり、2011年3月から年末までの出来事を残して、
前に進みたいと思います。
 
もちろんこのブログ自体は今までどおり、
私の気ままな日常と、
素敵な非日常を提供してくれるホテルや旅館の宿泊感想記です(笑
 

それでは皆様、改めて本年もよろしくお願い申し上げます。
 
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夏の写真ですみません(笑
 

やすひろ

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ただいま(笑



もうすぐ2011年が過ぎていきます。



新しい年に向かって、


私もまた、このブログで元気を頂きながら

私も元気を発信していけたらと思います。


今年もありがとうございました😄

新年より再開します!



やすひろ

開く コメント(4)


ブログ開設から、5周年となりました。


今年は更新もあまりせず、本当に申し訳ありませんが、

5年という月日を振り返ると、はじめた頃には考えられないくらいの

コミュニケーションの広がりと、毎日の刺激を頂きました。


改めて皆様に御礼申し上げます⭐


今年はもう少し、ブログはお休みを頂いて、

仕事や今すべきことに注力したいと思います。

今後ともよろしくお願いします。


やすひろ




   御礼記事、公開されてませんでした。(すみません)
   今更ながら、改めてありがとうございます!

   年末から、自粛を解いて元気に再開したいと思います。
   色んな出来事がありすぎて、何から書きますかね(笑
   
   まずは、お休み中のことから一気に書くとしますか〜

   12月15日   追記

  


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