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すぐわかる!世界の宗教

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世界の宗教をさまざまな文献を参考に要約してまとめてみた。(John Dickson;'a spectator's guide to World religions';Lois Rock、'Tell me about the world's religions'など)イエスキリストを信じたい、信仰を持ちたいという人が必ず、ほかの宗教について聞いてくるので、あえて、ここに載せることにしました。
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人間が造った神

「神はどんな存在なのか。」

「人間は何のために生まれてきたのか。」

「人間は死んだらどこに行くのか。」

そんなことを思い巡らして、本を読んだり、人の話を聞いたり、霊媒師や霊能者、哲学者、宗教家の言うことを鵜呑みにしているうちに自分の中で「神様像」が作り上げられ、「この世のしくみ」がわかってきた気がしていた。

でも、それは、人間の頭で考えられる範囲の小さな「神様像」「世界像」に過ぎない。



果たして、造られた者が、造った者のことをどうやって知ることができるだろう。

それは、造った者自らが、「私はあなたの神である。私があなたを造った。」と言い表して、はじめて知ることなのではないか。

神が、私たちに語られること以外に、私たちは、神の何を知り得よう。


「私が造った神」ではなく、「私を造った神」のことをもっともっと知りたくて、私は、聖書を読んでいる。




ドナルド・ウォルシュの「神様との対話」をだいぶ前に読んだことがありますが、そのときは、とても、興奮したのを覚えています。

しかし、聖書を通読しているうちに、彼が対話している「神」と、私が信仰している神は、全くの別物だということがはっきりわかりました。

この本には、聖書のことばやニューエイジ系の思想、ヒンズー教を土台とする輪廻転生思想、仏教など、多くの宗教や思想、哲学がいたるところに使われています。

ただ、残念なことに、ウォルシュさんの「神」は、聖書を最初から最後まで、読んだことがないようなのです。

ウォルシュさんの「神」は、聖書の誰でも知っているような有名な箇所をまるで、自分がそれを言ったかのように語っています。

聖書のどこの部分に書いてあるという引用箇所が載っていないので、聖書を通読したことがない人が読むと、まるで、新鮮な教えであるように思えるのも無理はありません。

ときどき、聖書の本来の意味と全く勘違いした意味として解釈して、聖書の言葉を引用するので、神様との交わりがあるクリスチャンなら、ウォルシュさんの「神」は、聖書を読んだことがないというのが、一目瞭然でわかるのです。


また、彼の「神」は、ことばを重要視しない、聖書の言葉を人間が信じていることを批判しています。

ところが、この「神」は、ことばを重要視しないと言いながら、ことばを使って、ウォルシュさんと話しています。

そして、そのことばをウォルシュさんが書き記し、それを本にして売るようにウォルシュさんを促します。

今から3500年前から、1600年という月日をかけて、40人以上の全く違う職業の、全く違う時代の人たちが神から霊的に預けられた言葉を書いた聖書の言葉は、重要ではないと言い、どこのだれだかわからないウォルシュさんが書いた言葉を出版しなさいと語ったわけです。


自分は、ついていない、家族を養うお金も、仕事もない、、、人生の大ピンチにいたウォルシュさんが、神様に話しかけることで始まったこのお話。

ウォルシュさんは、この本のなかで、何度も、「これは、自分の想像の産物ではないのか」と自問自答しています。ウォルシュさんはこの相手が、本当に神であったのかに確信をもてないまま、筆を書き進めているのです。

以前アメリカのテレビ番組に出演したとき、オペラ・ウィンフリーに「この本は、フィクションですか、ノンフィクションですか」と聞かれたときの彼の顔が忘れられません。

にんまり笑って、それは、読者の判断にお任せしますと答えました。お金がたくさん入って、笑いが止まらないというような表情でした。


「愛するものたち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神から出ているものかどうかを試しなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出てきたからです。人となって来たイエスキリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれひとつとして神から出たものではありません。」(ヨハネの手紙4章)



ウォルシュさんの「神」と私の信仰する神の究極の違いは、彼の「神」は、すべてのものが神からできていると言っていることです。つまり、「Made by God」ではなく、「Made of God」ということでしょうか。

神が何十にも何千にも分割しても、分割したそれぞれのものは、神以外のものにはなりえないという解釈です。

つまり、簡単に言ってしまえば、私たちは、神であり、自分の人生や現実を自分の好きなように創造していくとあります。地獄などというところはなく、裁きもない。神は、私たちの生活や人生に介入しない。

神は、私たちの人生を通して、自分自身を経験しているというのです。

これも、ニューエイジ系の本では、聞いたことがある魅力的な発想で、ウォルシュさんの「神」が言い出したことではありません。


聖書にも、同じようなことを言っている者が登場します。

「あなたがたがそれを食べるとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記2章)

これは、堕落した天使であるサタン(蛇)が、最初の人間、アダムとイブをそそのかし、神が食べてはいけないと言った善悪の知識の木の実を食べさせたときのサタンの手口です。

サタンとは、真の神から引き離そうとする力を指します。

ここで、サタンは、「人間が神になれる」ということを言っているのです。

私たちにとって、自分が神になれる、または、実は自分は神なのだ、神の一部なのだと言われるほど、魅力的で「いかにも好ましい」シナリオはありません。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」

サタンは、色々な手口で、私たちを真の神、真の救いから遠ざけようとし、ときには、御使いの姿で、ときには、甘い誘惑の言葉で私たちを惑わすようです。



「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者は、誰か。

さあ、あなたは、勇士のように腰に帯を締めよ。

わたしは、あなたに尋ねる。

わたしに示せ。

わたしが、地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。

あなたに悟ることができるなら告げてみよ。

あなたは知っているか。

誰がその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。

その台座は何の上にはめ込まれたか。

その隅の石は誰がすえたか。

そのとき、明けの星星が共に喜び歌い、神の子達はみな喜んで叫んだ。

海が吹き出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。

そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。

わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、言った。

「ここまでは来ても良い。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」と。、、、、


あなたは海の源まで行ったことがあるのか。

深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。

死の門があなたに現れたことがあるのか。

あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。

あなたは地の広さをみきわめたことがあるのか。

そのすべてを知っているなら、告げてみよ。

光の住むところに至る道はどこか。

やみのある場所はどこか。

あなたは私をその国まで連れて行くというのか。

また、その家に至る通り道を見分けるというのか。、、、



だれが心のうちに知恵を置いたか。

だれが心の奥に悟りを与えたか。、、、



烏の子が神に向かって泣き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にエサを備えるのは誰か。、、、


ダチョウは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみが無駄になることも気にしない。

神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。、、、

主はさらにヨブに答えて仰せられた。

非難する者が全能者と争おうとするのか。

神を責めるものは、それを言い立ててみよ。」(ヨブ記38−40章)




私の神は、「はじめに神が天と地を創造した。」という神です。

「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せられる神です。

「わたしは、はじめであり、終わりである。わたしのほかに神はいない。」と仰せられる神です。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と仰せられる神です。

「恐れるな。わたしがあなたと共にいるからだ。」と仰せられる神です。



腐敗したこの世が去るとき、ひとりでも多くの人が次に来る新しい世の住人となることができるように、イエスキリストの十字架の死と復活をもって、イエスを信じるものの罪を赦され、天国の永住国籍を与えてくださる神です。

サタンに騙されて、神を裏切ったアダムとイブの「原罪」のゆえに、その子孫である人類は、皆、生まれながらにして罪の性質を持って生まれてきます。

「罪」とは、神から離れて自己中心的に生きることです。

神と人類の間にある「罪」を取り除くために、そして、神と本当の意味でひとつになるために、イエスキリストが「いけにえ」として十字架にかけられ、3日後に復活されました。

聖なる主、義なる主、愛なる主、何の汚れもない神です。汚れのない純粋な霊であられる神に、少しでも汚れのあるものは、近づくことさえできません。

真っ白いペンキに、赤いペンキを入れたら、それは、もはや、真っ白ではなくなってしまいます。

真っ白いペンキとひとつになるためには、自分も、真っ白にされる必要があるのだと思います。

神と本当の意味でひとつになるためには、イエスキリストへの信仰によってきよめられる必要があると私は信じています。



イスラム教

イスラム教

1、 モハメッドは、570年に多神教のアラビアのメッカという町で生まれる。

生まれる前に父親を亡くし、6歳のとき母親と死にわかれる。

その後8歳で祖父がなくなったあと、メッカの有力者の叔父にひきとられる。

そこで、文化的、ビジネス的な才能が磨かれる。

595年に最初の妻をもらい、その後10人の妻をめとる。



2、 モハメッドは、よく、町から離れ、

山の洞窟で人生について熟慮していた。

610年、40歳のモハメッドが、洞窟で寝ているとき、

「暗唱しなさい。」という天使ガブリエルの声がして、

自分が世界への神のメッセンジャーであることを知らされる。

そして、それからも、神のメッセージが幾度となく語られるのを

暗唱したものを書き取ったのが、コランという信仰の書となる。



3、 はじめは、このような声を聞くのは、

自分が気が狂ったせいか、何か悪い霊の仕業だと思っていたが、

妻やクリスチャンであった妻のいとこに励まされ、

しだいに神のメッセンジャーとしての任務を受け入れる。



4、 メッカの人は「アッラー」は、神々を支配する

大元の神という意味で使っていたが、

モハメッドは、そこには唯一の神しかいないと教える。

また、モハメッドは、すべての人への平等と慈悲を教える。

全世界滅亡の裁きの日に貧しい人を助けないものは

神により裁かれるという神のメッセージを伝える。



5、 メッカから追い出され、メディナに逃げる。

そこで宗教的にだけでなく、国のリーダー、軍の指揮者として受け入れられ、

最初のイスラム教国が生まれる。



6、 対立していた多神教のメッカの人たちと

モハメッドのイスラム教徒がモハメッドの生まれた地をめぐって

624年に戦い、629年10000人のメディナのイスラム教徒が

メッカに入り、メッカをとる。メッカは聖地とされる。



7、 アメリカの9・11でJihad(じはっど)という言葉が出てきたが、

コランには「あなたに敵対するものをこちらから攻撃してはならない。

神は攻撃的なものを愛さない。、、、聖なる地メッカで戦ってはならない。

しかし、敵がメッカに攻撃してきたら、剣をとりなさい。

もし、彼らが悔い改めたら、神は慈悲深いものであることを知りなさい。

もし、彼らが思いとどまったら、戦うのをやめなさい。」
(スラ2:190−193)

この時代は、戦いがたえない時代だったが、

モハメッドは公平と慈悲を重んじた。

現代のイスラム教徒にとっては、Jihadは、

「この世の汚れから離れることの葛藤」という霊的なことを指すという。


8、 モハメッドは、世界をきよめる力として

神のメッセージを伝えるため、イスラム教コミュニティを広げようとする。

中東のコミュニティに3つの選択肢を与え、交渉した。

1)イスラム教にかい教するようにすすめる。
2)もし嫌なら、その土地のしきたりを続けながら、
イスラム教コミュニティの保護を受けるようにすすめる。
3)それも駄目なら、イスラム教徒と戦う。

多くは1)と2)に従った。

アラビア、エジプト、ペルシア、パレスチナ、モロッコ、スペインにまで広がる。


9、 モハメッドの死後、モハメッドの義理の息子が跡継ぎとなるべきと

考える派(シーア派)と後継者を委員会が決めるという派(スニ派)による

対立、戦争が起こり、派が別れる。

また、ヒンズー教の影響を受けたスフィズムという派もあり、

この世の快楽から離れ、、質素な暮らしをし、コランを勉強して、

ヒンズー教の呼吸法のようなことをする派もある。


10、 イスラム教の教え:神にひれ伏す:コランに書かれているとおりに何を着て、何を食べ、いつ祈るか、いくら献金するかなどのきまりに従うこと。

1) 一生に一度「アッラーの神以外のほかに神はいない。モハメッドはアッラーの預言者である。」と宣言すること。

ユダヤ教のアブラハム、モーセ、キリスト教のイエスを神の預言者として

認めるが、モハメッドが神の最後のメッセンジャーであるとする。



2) 地面にひれ伏して一日5回神に祈る。

祈る前は手と顔と足を洗う。

世界中のイスラム教徒が同じ時間にモハメッドの生地メッカにむかって祈る。

「慈悲ふかい、同情的な宇宙の支配者、裁きのときの権威者よ、褒め称えます。あなただけを私たちは崇めます。あなただけに助けを求めます。あなたがかわいがられたものたちと同じ道に導いてください。」というような内容。


3) 収入と資産の2.5%を税金として払う。

モハメッドは、欲と自己中心を批判。

このお金は貧しいものや孤児たち、Jihad(聖なる戦い)のため、

イスラム教の布教のためにつかわれる。


4) 神を賛美するために、イスラムのカレンダーの9月ラマダンの月に

1ヶ月、日の出から日の入りまで断食をする。

5) 一生に少なくとも一度メッカへのお参りをする

キリスト教

キリスト教

1、 キリスト教は、ユダヤ教のTorahという信仰の書を基盤においている。

キリスト教では旧約聖書と呼んでいる。

詳しくは、ユダヤ教の記事の1−15までを参照)


2、 神は、さまざまな預言者を通して、

永遠に続く神の国の支配者が地上に出現することを啓示する。

まず、その人物が、人間の子どもとして生まれることを示し、

紀元前2100年ごろにはユダヤ人として生まれることが預言され、

紀元前1000年にはダビデ王の家系に生まれること、

紀元前750年には全人類の罪の身代わりとして死ぬこと、

また、ベツレハムという町で生まれること、

紀元前550年にはその人が釘付けにされることが預言されている。

ここから、ユダヤ教のマサヤ(救世主)思想がうまれる。


3、 ユダヤ人たちがローマ帝国の支配下にいた頃、

紀元前5年ごろ、ベツレヘムで大工の息子として

イエスという人物が生まれる。

彼は、ダビデ王の家系のもので、

28年ごろから、神の国について語りはじめる。


4、 イエスは、その頃のユダヤ教の律法学者や祭司たちが、

自分たちの言い伝えや儀式、人間的しきたり、律法を守ることにこだわって、

神への信仰や戒めをないがしろにしていると批判する。

また、自分は、人類の生まれる前から神と共にいたと公言し、

病人を癒したり、さまざまな神の奇跡を行い、

神の国について権威をもって語る姿が新約聖書に描かれている。

このとき、ローマの支配下にあったユダヤ人の多くは、

イエスが、ユダヤ民族を独立の道に導くユダヤ人の王、

または、リーダー的存在となるべき人だとしか考えていなかった。



5、 旧約聖書から続く神の人類に対する計画と

全世界滅亡の計画をイエスは、さらに明らかにする。

生きているものも死んでいるものも、

神が計画している全世界滅亡「最後のとき」がおとづれたとき、

神に裁かれる。

もし、神を忘れて自分勝手に生きてきた自分の今までの人生を悔い改め、

イエスを救世主として受け入れるならば、

その罪が赦され、永遠の命が約束され、神の国(天国)に入れると約束する。

そして、全人類の罪を神に赦してもらうために、

自分がいけにえとして十字架にかけられ殺されるが、

3日後に復活するという神の計画を自分は成就するために

地上に来たことを弟子たちに伝えた。



6、 ユダヤ教のパリサイ派の人々や律法学者は、

自分たちの立場が悪くなるのを恐れた結果、

イエスを裁判にかけ十字架に釘付けにし、殺す。


7、 新約聖書には、死んだはずのイエスがその3日後に、

弟子たちや人々の前(全部で400人くらいの人)に

次々に現れたことが記録されている。

また、イエスは、自分が天に上げられると、聖霊が地上にくだり、

人類を救いの道に導く役目をすることを告げる。

このとき、はじめて人々は、イエスこそが旧約聖書の中で預言されていた

マサヤ(救世主:キリスト)だと信じる。

ここで、ユダヤ教とキリスト教がわかれる。



8、キリスト教の主な教え

1)三位一体:キリスト教は、父(神)と子(イエス)、と聖霊の三つから

神が成ると教える。

それぞれは、それぞれと別のものでありながら、

同時に神の霊、神の力である。

父は、宇宙を創造した父なる神、

子は、その目に見えない神を肉体を持って現した姿、

聖霊は、目に見えないけれど、私たちとともにいて、

人間を導いたり、助言を与えたりする。

2)神の国:

旧約聖書で預言されているように、物質的なこの世界がいつか滅亡し、

霊的な神の国が起こるという神の計画を信じている。

キリスト教徒は、神の霊がイエスキリストの肉体に宿って

地上に降りてきたときからすでに神の国ははじまっていて、

イエスを信じたときから、

その人はすでに永遠に続く神の国に入っていると考える。

つまり、肉体の死は一時的であり、霊は永遠に生きる。

そして、イエスが再び、地上に降りてくるときが裁きのときであり、

全世界は、新しく「神の国」として生まれ変わると信じる。


3)神の恵み:自分の信仰の努力や道徳的な努力とは無関係に、

神の慈悲や罪の赦し、神の御国に続く永遠の命が神からの恵み、贈り物としてもらえる。

ただ、イエスを信じたときに、聖霊が与えられ、心のうちに神の御国をすでに経験するようになる。

4)隣人愛:

神があなたを愛するように、あなたも人を愛しなさい。

神が愛や恵みや慈悲を無償で与えてくれたように、

あなたも人に無償で愛や慈悲を与えなさい。

自分を愛するように人も愛しなさい。

敵をも愛しなさい。

貧しい人、社会から虐げられている人、

クリスチャンの兄弟ばかりでなく、クリスチャンでない人も愛しなさい。

心を尽くして神を愛しなさい。


5)祈り:

神と祈りを通してつながる。(プロテスタントの場合)

主の祈り
「天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうも与えてください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
私達を試みに会わせないで悪からお救いください。
主、イエスキリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン」

また、祈りを通して、日常生活のすべてのことにおいて、神に告白したり、

赦しをもらったり、相談したり、慰めをもらったりする。

祈りに対する答えが自分の内側から聞こえたり、

聖書の言葉や他の人との出会いを通して与えられる。


5)洗礼:

イエスキリストと共に生きることを決めたとき、

神の恵みを受け取り、今までの過去の罪がすべて赦されきれいにされる。

教会で水にどぼんとつかる場合や頭から水をかけられる場合がある。


6)聖餐式:

信者の者が、パンとワインを一緒に食べる儀式。

イエスキリストが十字架にかけられる前に最後の晩餐で、

弟子たちにパンをちぎってわけあたえ、

「これは、私の体です。」と言って、食べさせたこと、

そして、ワインをとり、弟子たちにまわして、

「これは多くのものの罪が赦されるために流される私の血です。」と言って

飲ませたところから来ている。

人類の罪を背負って殺されたイエスを覚え、

イエスとつながるという意味がある。


9、 新約聖書は、旧約聖書で1000年以上の間に

預言されていた救世主が、イエスであることをあかしし、

そして、このイエスキリストの誕生や生涯、教え、復活をまとめた文書、

また、イエスの使徒たちの伝道書をまとめたものである。

著者は、イエスと生活を共にしたもの、

また、イエスの行った奇跡や復活を目撃したものなど、

さまざまな土地でさまざまな職業のものによって

記された文書が集められたものである。



10、 使徒たちは、迫害されながらも、伝道を続け、

キリスト教はその後、ローマ帝国の国教となり、

カトリック教会ができあがる。

カトリック教会(意味は、ユニバーサルだそうです。つまり、全世界の教会)では、

イエスが使徒ペトロを教会の権威としたことから、

流れをついで、ローマ法王を教理や道徳の最高権威とした。

イエスの母マリアを聖なる者として4世紀から5世紀ごろから

聖母として祈りの対象とするようになった。

教会で与えられるパンとワインの儀式は、

人類の犠牲となったイエスの体と血を実際に食べているという意味があるそうだ。(カトリックの方がいたら、教えてください。)


11、16世紀ごろになると、ローマ法王は、王のような身分になり、

教会の聖職者たちの腐敗が見られるようになる。

お金を出せば、罪が赦されるというような

神の恵みとは矛盾した教えをするようになる。

このような教会を本来の教会の姿に戻そうとする

プロテスタント運動が起こる。この中心人物がマーチン・ルター。


12、結局、ローマ教会に反抗した者は破門され、

プロテスタント教会としてそれぞれの国で独立する。

プロテスタント教会の最高権威は神の言葉である「聖書」とされる。

罪の赦しや救いはお金で買うものではなく、

神の恵みによって無償で与えられるものだとする。

また、聖餐式は、イエスを覚えるために行われる霊的な儀式とする。

神を偶像化しない。教会の建物もシンプルにする。


13、1562年にカトリック教会の腐敗も改正される。

14、オーソドックス教会(ギリシア、トルコ、エジプトなど)は、

使徒たちの起こした初期教会からそのままつながっていると信じていて、

もともとローマ法王の権威を否定する。

人間は、もともとは、神の神性を持っていたが、その後腐敗した。

その後、神はイエスキリストという人間になってやってきたことで、

キリスト教信者は神の神性を再び与えられたという考え。

神の崇拝にイエスやマリア、使徒たちの偶像などが用いられる。

ユダヤ教

ユダヤ教:

1、神がユダヤ民族の預言者たちを通して語りかけた

全宇宙のはじまりから、ユダヤ民族に与えられた律法、

そして、人類全体にもつ神の計画が、

Torah(キリスト教でいう旧約聖書)と呼ばれる信仰の書に書きとめられている。

2、口から口へ伝承された神の言葉が、

エジプトで教育を受けた預言者モーセによって、

1200BC−1500BCごろから書きとめられはじめる。

その後、約1000年の間に、それぞれの時代に、

さまざまな身分や職業の人たちが神の啓示を書きとめた。

キリスト教とイスラム教を含め、世界人口の約半分が

この書物を神が人間に霊的に書かせた信仰の書であると信じている。


3、神が全宇宙を造ったという創世記から始まる。

神は、愛と自由意志などの自分の性質を反映させたものとして

人間を造ったとTorahに書かれている。

つまり、人間は、神の「愛」を形として具現化するために創造された。

「愛」を具現化するには、愛する相手が必要となるため、

神は男と女をつくり、男女関係、親子関係などの人間関係の間で

自分の「愛」を具現化していく。



4、はじめは、神と人間は、愛し愛される良い関係にあったが、

後に、人間は神のようになろうとして、

神から離れて自分勝手に生きるようになり堕落する。

これが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいう「人間の罪」の意味。


5、そこで、神は人類を正しい道に導く計画を立てる。

まず、アブラム(後にアブラハムと呼ばれる)という人を選び、

今住んでいる土地を捨てて神の声に聞き従えば、彼の子孫は増え広がり、

約束の地で神の民として建国することを約束する。

アブラハムは、神にすべてをゆだね、神の声に聞き従いながら生きる。


6、神は、アブラハムに、アブラハムの子孫が外国の奴隷になり

400年虐げられるが、その後、そこから脱出すると啓示する。

その預言のとおり、エジプトで増え広がったユダヤ民族の勢いに

恐れを抱いたエジプトのパロ(王)がユダヤ人を400年間奴隷にする。


7、神は、ユダヤ人でありながら

エジプトの王の娘に拾われ育てられた預言者モーセに語りかけ、

ユダヤ民族を引き連れてエジプトから脱出させ、

ユダヤ民族は約束の地カナン(パレスチナ)に導かれる。(紀元前1440年ごろ)


8.神は、預言者モーセに、シナイ山で十戒を与える。

1)わたしのほかに他の神々があってはならない。

2)自分のために偶像を造ってはならない

3)主の御名をみだりに唱えてはならない

4)安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ

5)あなたの父と母を敬え

6)殺してはならない

7)姦淫してはならない

8)盗んではならない

9)あなたの隣人に対し偽りの証言をしてはならない

10)あなたの隣人のものをほしがってはならない



9、また、神は、ユダヤ民族に、犯罪の取締り、社会的道徳、

宗教的儀式(神へのささげもの)などを含む律法を与え、

ユダヤ民族にこの律法を守るように命じる。

もし、神の声に聞き従ったら、神の聖なる民として祝福され、

彼らの祝福を通して、全世界、全人類も祝福を受けるが、

聞き従わなかったら、与えられた土地を他国に占領させ、

神殿を壊し、ユダヤ民族を全世界に追い散らし、

ユダヤ民族は、全世界からさげすまれ、迫害を受けると啓示する。

しかし、アブラハムとの最初の約束のとおり、

最終的には、ユダヤ民族は、もう一度集められ、

約束の地に国を再び建てることを告げる。


10、神は、また、1000年の間にさまざまな預言者を通して、

永遠に続く神の国の支配者が地上に出現することを啓示する。

まず、その人物が、人間の子どもとして生まれることを示し、

紀元前2100年ごろにはユダヤ人として生まれることが預言され、

紀元前1000年にはダビデ王の家系に生まれること、

紀元前750年には全人類の罪の身代わりとして死ぬこと、

また、ベツレハムという町で生まれること、

紀元前550年にはその人が釘付けにされることが預言されている。

ここから、ユダヤ教のマサヤ(救世主)思想がうまれる。

紀元前900年にダビデ王の子、ソロモン王により、最初の神殿が建てられる。


11、神は、預言者イザヤを通して、

ユダヤを占領するのは、バビロニアであること、

預言者エレミアを通して、神にきき従わなければ、国も神殿も壊され、

バビロン捕囚となって70年間苦しむことを警告するが、

この警告にもかかわらず、ユダヤ民族は神の声に聞き従わず、

偶像崇拝や外国の神々をあがめた。

このため、ユダヤ民族は預言のとおり、

歴史上、他国(バビロニア)に占領され、

神殿も壊され(紀元前586年)

バビロン捕囚として70年苦しめられる。(紀元前606-536年)



12、一時は、ペルシアの支配下で、

ユダヤ人は自分たちの土地に戻ることをゆるされ、

神殿も建て直される(紀元前512)が、

その後、ローマ帝国の支配下におかれる。

この頃、イエスという人物が出現し、神の国について語るが、

ユダヤ教の有力者たちは、彼を迫害し、十字架につけ殺す。

ここで、ユダヤ教とキリスト教がわかれる。


13、その後、ユダヤ民族がローマ帝国に対して暴動を起こしたため、

ユダヤ人は大量虐殺され、70年には神殿が再び崩壊され、

ユダヤ人は、国を失い、世界じゅうに散らされた。



14、神殿崩壊後、100年ごろから律法学者を中心とした

ユダヤ教パリサイ派がユダヤ教の主流になる。

神殿の代わりにシナゴーグをつくり、

日常生活の中の汚れから離れるための細かい決まりや人々の口を通して

言い伝えられた古いしきたりや言い伝えを律法に加えた。(Mishnah 200AD) 

そのほか、律法学者(ラビ、先生)によって

このTorahとMishnahの書の解釈本2冊が加えられる。(400−800AD) 

ユダヤ教徒は、ユダヤ民族が神の律法に従いながら、

身をきよくして生きたとき、マサヤ(救世主)が地上に現れ、

イスラエルを中心とした神の国が始まると信じている。



15、1800年ごろ、新しい時代の動きで、

革新派、伝統派(パリサイ派の流れを継ぐ)、保守派に分かれる。

1800年代終わりに、反ユダヤ人の風潮からユダヤ人を守るため、

ユダヤ人に国を与えようと訴える動き(Zionism)が起こる。


16、ナチスのユダヤ人大量虐殺を経て、

第二次世界大戦後、ユダヤ人は国連の力をへて、

ユダヤ人国家をつくる土地をとりもどし、

ユダヤ人は神の約束のとおり、1948年イスラエル再建を果たす。

1967年には神殿跡のあるエルサレムの一部を取り戻す。

先住のアラブ系民族パレスチナ人との対立が今日も続くなか、

ユダヤ民族は、マサヤ(救世主)の到来を今も待ち続けている。

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