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ドナルド・ウォルシュの「神様との対話」をだいぶ前に読んだことがありますが、そのときは、とても、興奮したのを覚えています。
しかし、聖書を通読しているうちに、彼が対話している「神」と、私が信仰している神は、全くの別物だということがはっきりわかりました。
この本には、聖書のことばやニューエイジ系の思想、ヒンズー教を土台とする輪廻転生思想、仏教など、多くの宗教や思想、哲学がいたるところに使われています。
ただ、残念なことに、ウォルシュさんの「神」は、聖書を最初から最後まで、読んだことがないようなのです。
ウォルシュさんの「神」は、聖書の誰でも知っているような有名な箇所をまるで、自分がそれを言ったかのように語っています。
聖書のどこの部分に書いてあるという引用箇所が載っていないので、聖書を通読したことがない人が読むと、まるで、新鮮な教えであるように思えるのも無理はありません。
ときどき、聖書の本来の意味と全く勘違いした意味として解釈して、聖書の言葉を引用するので、神様との交わりがあるクリスチャンなら、ウォルシュさんの「神」は、聖書を読んだことがないというのが、一目瞭然でわかるのです。
また、彼の「神」は、ことばを重要視しない、聖書の言葉を人間が信じていることを批判しています。
ところが、この「神」は、ことばを重要視しないと言いながら、ことばを使って、ウォルシュさんと話しています。
そして、そのことばをウォルシュさんが書き記し、それを本にして売るようにウォルシュさんを促します。
今から3500年前から、1600年という月日をかけて、40人以上の全く違う職業の、全く違う時代の人たちが神から霊的に預けられた言葉を書いた聖書の言葉は、重要ではないと言い、どこのだれだかわからないウォルシュさんが書いた言葉を出版しなさいと語ったわけです。
自分は、ついていない、家族を養うお金も、仕事もない、、、人生の大ピンチにいたウォルシュさんが、神様に話しかけることで始まったこのお話。
ウォルシュさんは、この本のなかで、何度も、「これは、自分の想像の産物ではないのか」と自問自答しています。ウォルシュさんはこの相手が、本当に神であったのかに確信をもてないまま、筆を書き進めているのです。
以前アメリカのテレビ番組に出演したとき、オペラ・ウィンフリーに「この本は、フィクションですか、ノンフィクションですか」と聞かれたときの彼の顔が忘れられません。
にんまり笑って、それは、読者の判断にお任せしますと答えました。お金がたくさん入って、笑いが止まらないというような表情でした。
「愛するものたち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神から出ているものかどうかを試しなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出てきたからです。人となって来たイエスキリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれひとつとして神から出たものではありません。」(ヨハネの手紙4章)
ウォルシュさんの「神」と私の信仰する神の究極の違いは、彼の「神」は、すべてのものが神からできていると言っていることです。つまり、「Made by God」ではなく、「Made of God」ということでしょうか。
神が何十にも何千にも分割しても、分割したそれぞれのものは、神以外のものにはなりえないという解釈です。
つまり、簡単に言ってしまえば、私たちは、神であり、自分の人生や現実を自分の好きなように創造していくとあります。地獄などというところはなく、裁きもない。神は、私たちの生活や人生に介入しない。
神は、私たちの人生を通して、自分自身を経験しているというのです。
これも、ニューエイジ系の本では、聞いたことがある魅力的な発想で、ウォルシュさんの「神」が言い出したことではありません。
聖書にも、同じようなことを言っている者が登場します。
「あなたがたがそれを食べるとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記2章)
これは、堕落した天使であるサタン(蛇)が、最初の人間、アダムとイブをそそのかし、神が食べてはいけないと言った善悪の知識の木の実を食べさせたときのサタンの手口です。
サタンとは、真の神から引き離そうとする力を指します。
ここで、サタンは、「人間が神になれる」ということを言っているのです。
私たちにとって、自分が神になれる、または、実は自分は神なのだ、神の一部なのだと言われるほど、魅力的で「いかにも好ましい」シナリオはありません。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」
サタンは、色々な手口で、私たちを真の神、真の救いから遠ざけようとし、ときには、御使いの姿で、ときには、甘い誘惑の言葉で私たちを惑わすようです。
「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者は、誰か。
さあ、あなたは、勇士のように腰に帯を締めよ。
わたしは、あなたに尋ねる。
わたしに示せ。
わたしが、地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら告げてみよ。
あなたは知っているか。
誰がその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたか。
その隅の石は誰がすえたか。
そのとき、明けの星星が共に喜び歌い、神の子達はみな喜んで叫んだ。
海が吹き出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。
そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。
わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、言った。
「ここまでは来ても良い。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」と。、、、、
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。
深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
死の門があなたに現れたことがあるのか。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さをみきわめたことがあるのか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。
光の住むところに至る道はどこか。
やみのある場所はどこか。
あなたは私をその国まで連れて行くというのか。
また、その家に至る通り道を見分けるというのか。、、、
だれが心のうちに知恵を置いたか。
だれが心の奥に悟りを与えたか。、、、
烏の子が神に向かって泣き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にエサを備えるのは誰か。、、、
ダチョウは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみが無駄になることも気にしない。
神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。、、、
主はさらにヨブに答えて仰せられた。
非難する者が全能者と争おうとするのか。
神を責めるものは、それを言い立ててみよ。」(ヨブ記38−40章)
私の神は、「はじめに神が天と地を創造した。」という神です。
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せられる神です。
「わたしは、はじめであり、終わりである。わたしのほかに神はいない。」と仰せられる神です。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と仰せられる神です。
「恐れるな。わたしがあなたと共にいるからだ。」と仰せられる神です。
腐敗したこの世が去るとき、ひとりでも多くの人が次に来る新しい世の住人となることができるように、イエスキリストの十字架の死と復活をもって、イエスを信じるものの罪を赦され、天国の永住国籍を与えてくださる神です。
サタンに騙されて、神を裏切ったアダムとイブの「原罪」のゆえに、その子孫である人類は、皆、生まれながらにして罪の性質を持って生まれてきます。
「罪」とは、神から離れて自己中心的に生きることです。
神と人類の間にある「罪」を取り除くために、そして、神と本当の意味でひとつになるために、イエスキリストが「いけにえ」として十字架にかけられ、3日後に復活されました。
聖なる主、義なる主、愛なる主、何の汚れもない神です。汚れのない純粋な霊であられる神に、少しでも汚れのあるものは、近づくことさえできません。
真っ白いペンキに、赤いペンキを入れたら、それは、もはや、真っ白ではなくなってしまいます。
真っ白いペンキとひとつになるためには、自分も、真っ白にされる必要があるのだと思います。
神と本当の意味でひとつになるためには、イエスキリストへの信仰によってきよめられる必要があると私は信じています。
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