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またまた五木さんの本から むかしの人の言葉で「君看よや双眼の色、語らざれば憂いなきに似たり」 というのがある。 あの人の眼を見てごらんなさい、いつも静かに微笑んで、 つらいとか苦しいとか、こんな目にあったとか、 大げさにいろいろ述べたりしない。 だけど、そうであればあるほど、 その人が心のなかに蓄えた憂いというもの あるいは苦しみや悲しみというものは こちらにも惻々として伝わってくる ながい解釈をするとこうなる この『語らざれば』というとろが心にじんとくる なにか事があると大げさにそのことを他人に訴えたり話を聞いてもらったり 文句を言ったりするけど、 本当の人生の悲しみとか苦い記憶とかそういうものを骨の髄までしみるほど、 しっかり抱えている人は、そういうことを軽々しく口に出したりはしない むしろ静かに微笑んで、こちらがいろいろとたずねたとしても、 「まぁ、いろんなことがありました」ぐらいで、 あまり多くを語らない そういう静かな表情で微笑んでいるような人の態度にこそ こちらは『語らざれば』という部分の大きさ深さを感じるものなのではないか ここで例にあげられていたのは、 著者自身と 同じ”引揚げ”を経験した”引揚者”の方たちを探して そのときのことを詳しく聞こうと マイクを向けたことがあるそうだが 本当に深刻な体験をしたであろうと思われる方に限って ほとんどそのことを詳しく話そうとせず 「ええ、まあいろんなことがありました。 でも、おかげさまで、今はこんなふうにして、なんとか…」 というふうに微笑されるだけ むしろ、こんなことも、あんなこともあったと悲劇を滔滔と喋る人の話は 他人の記憶と自分の記憶とをごっちゃごちゃににしてるー あるいは、くり返し話をしてるあいだに話ができすぎてしまって リアリティがないという面があった ということ ここに人の憂いというのか、人間でもこころのなかに自分だけの他人に明かすことのできない 悲しみとか痛みとか そういうものをそれぞれに抱えて生きている こういったものを言葉で言い表すことはどんな達人でも不可能なのではないか 『言いしれぬ』とか『名状しがたい』という言葉があるように 人間の心には、言葉にならない深い思いがあるのだー 豊かに言葉を使って、自分を表現することはすばらしいこと でも、その〈言葉〉にも限界があるということを 常に感じていたいと思う と書いている 言葉を表現方法として使っているプロがそういうのだから 説得力がある 私自身も 自分の辛かった体験などは、人に言わなくてもいいと思ってるし それは、思い出したくないとかではなく 自分が知っていればそれでいいことだと思っていたし やっぱり言葉にするのが下手で 下手に言葉にすると 事実が伝わらないだろうと 思うのもある それに事実は、そう簡単には伝えることができないし 結局どう伝えようとしても 事実というのはその時の自分しかわからない事だ 悲しかったことやその時の痛みはほかの人に共感してほしいとは思わないというのもあるけど それよりも、嬉しいこととか、楽しいこととかに共感してもらいたいって方が うれしいってのもあるのかも なので 五木寛之さんのこのくだりに共感した。 言葉には限界があるし 言葉にならない深い思いがあっていいのだ ってなんか、ほっとした
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2009年10月24日
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