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統一教会との思想戦に勝つためには
統一教会を一つの思想運動と見た場合、我々は統一教会と戦争をしていると考えるべきである。
彼らの強烈なイデオロギーとマインドコントロールに対抗するには、こちらも武器を持たなければならない。
我々日本人にとって、彼らに対抗する武器とは、戦後という時代の中で失われつつある「日本精神」そして、「武士道」に他ならない。
最後にもう一度、一九年前に書かれた統一教会と闘い、倒れた副島嘉和氏の叫びを思い起こしてみよう。(一九八四年八月号『文芸春秋』ー 「これが『統一教会』の秘部だ」より)
「『文鮮明氏』の最終目的は何かというと一国の『王』である。かねがね『文鮮明氏』は、北朝鮮の金日成をサタン側のアダム(再臨主)と呼び、自分を神側のアダム(再臨主)と自称してきた。そして最終的には神側、サタン側の双方のアダムが戦い、金日成を打ち破らなければならないと表現してきた。そのためにはまず、『文鮮明氏』が韓国の金日成になるということであり、韓国に文王朝を建てたいと願っているということになる。これは十数年前までは、単なる宗教家の空想でありスローガンに過ぎなかった。しかし、それは現在『文氏』の中で具体的野望になりつつある。そこまで『文氏』を舞い上がらせたのが、日本人会員によるニ千億円以上の献金であった。またそれによって買われた、学者、文化人、ジャーナリスト、政治家その他の人々の組織であり信用であった。
良識あるリベラリスト、愛国者は、この実体をはっきり知って、統一教会、勝共連合を腹中の毒として排泄すべきである。彼らは平和教授アカデミー、学術会議、科学の統一に関する国際会議、世界メディア会議、知識、世界日報など様々な顔をもって接近してくる。
この統一教会、勝共連合から、日本の良識と伝統精神、そして多くの青年男女を守りたいというのが、私たちの現在の心境である。」 完
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統一教会について
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武士道と陽明学
新渡戸は、武士道には陽明学が大きな影響を及ぼしているという。 「西洋の読者諸兄は、王陽明の著作の中に『新約聖書』と多くの点で似たところがあることに気がつかれるだろう。双方の教えに独得の用語の差異を認めれば『まず神の国と、神の義を求めよ。さらばこれらはすべてのものどもは汝らのもとに加えられるであろう』という一節は王陽明の書のほとんどどのページにも見い出される思想である。」(三〇ページ) とし、 「日本人の心は王陽明の教えを受け入れるために、特に開かれていたように思う」と、新渡戸は記す。 明治時代のキリスト者、内村鑑三も、陽明学に惹かれた一人である。 内村はその著、『代表的日本人』にあげた日本人のうち、西郷隆盛や、中江藤樹の行動に陽明学の影響をあげている。 「王陽明は、良心に関する高遠な学説と、やさしい中にもきびしい天の法則を説いた点で、同じくアジアに起った、かの尊厳きわまりない信仰であるキリスト教に最も近づいた者である。その後の西郷の書いたものには、王陽明の影響が、はっきりと現れている。そこに流れるキリスト的情操を見て、われわれは、それが王陽明の偉大で簡潔な思想から生じたものであり、また、王陽明の思想を、自分の性格となるまでに消化して、それを実行に移した西郷の偉大さを示すものであることを知るのである。」(『後世への最大遺物』新学社 中の「代表的日本人、西郷隆盛の項 九九・一〇〇ページ) 「陽明学という形で現れたシナ文化は、われわれを、小心で、臆病で、保守的で、反進歩的な人間とするものでは決してなかった。(中略)今では、思慮深い孔子評論家のすべてが、この聖人自身、非常に進歩的な人であったことに同意するであろうと私は信ずる。孔子の同胞である反進歩的なシナ人が、自己流に彼を解釈して、世界の人々の心の中に、反進歩的な聖人という印象を刻みつけたのである。しかし王陽明は、孔子の中にあった進歩性を表に引き出し、古い流儀で孔子を解釈しがちであった人々の心に希望を吹き入れた。われらの藤樹先生もまた、この人の助けにより、孔子に対して新しい見解を抱くに至ったのである。」(『後世への最大遺物』新学社 中の「代表的日本人、中江藤樹の項 一五八ページ) 内村の『代表的日本人』は、英文で出版され、海外の人々にも大きな影響を与えた。ケネディ大統領が、「尊敬する日本人は誰か」と聞かれ、『代表的日本人』に出て来る上杉鷹山をあげたのは有名な話である。 陽明学については、三島由紀夫は次のように記している。 「もともと各個人の心の胸の中には澄みきった鏡のような聖人が住んでいるのに、普通の人はそれに気づかない。この鏡の雲りをとり、これを明らかにすることがすなわち良知であって、『大学』にいう格物至知も、陽明は、この『良知を致す』ことだと解釈するのである。」(『行動学入門』(文春文庫)二〇一ページ) この、『自己の内に神聖なるものがある』という指摘は極めて重要なことのように思う。 例えば、ロバート・B・チャルディーニは、『影響力の武器 ー なぜ、人は動かされるのか』の中で、マインドコントロールに対抗するには、「心の声に忠実であること」が何よりも重要であるとしている。 チャルディーニによれば、マインドコントロールを受けている時、心の中で「カチッ」とシグナルが鳴るというのである。心の中で「これは変だ」と思うという。 騙そうとする側は、さまざまなテクニックを用いてくるであろうが、その場合でも「心の中の声」にあくまでも従うべきである。 この「心の声に忠実であれ」ということは、本当の宗教や規範に共通することのように思う。 特に、陽明学、あるいは、日本精神の中に顕著にあるものではないか。 |
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新渡戸稲造『武士道』
我々は、『武士道』についてはほとんど知らない。ここで、海外に大きな影響を与えた新渡戸稲造の『武士道』を読んでみよう。 新渡戸によると、仏教と神道が『武士道』に大きな影響を与えたと記す。 「まず、仏教からはじめよう。仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした。」 「仏教が武士道に与ええなかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖への崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。そのため、サムライの傲岸な性格に忍耐心がつけ加えられたのである。 神道の教学には『原罪』という教義が入りこむ余地はまったくない。それとは逆に、人間の魂の生来の善性と神にも似た清浄性を信じ、魂を神の意志が宿る至聖のところとして崇拝する。神社の霊廟には礼拝の対象物や器具がいちじるしくとぼしく、本殿にかかげてある装飾のない、一枚の鏡が神具の主たるものである。この鏡の存在理由はたやすく説明することができる。つまり鏡は人間の心の表象である。心が完全に落ち着き、清明であるとき、そこには『神』の姿を見ることができる。それゆえ参拝のために社殿の前に立つとき、輝く鏡の面におのれの姿を見るのである。そして参拝という行為は、かのいにしえのデルフィの神託『おのれ自身を知れ』に通じるのである。」(『武士道』知的生きかた文庫 二四・二五ページ) 前述の影山正治と同じく、新渡戸も神道には「原罪」という観念は無いとする。 自己の内に神聖が宿るとする神道は、『神は文鮮明に宿る』として、人間の『原罪』をとことん追求する、統一教会と対極にある。 新渡戸は、『孔子』『孟子』についても語る。 「道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった。孔子が述べた五つの倫理的な関係、すなわち、君臣(治める者と治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされたはるか以前から、日本人の本能が認知していたことの確認にすぎない。冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特にふさわしいものであった。孔子の貴族的かつ保守的な語調は、これらの武人統治者に不可欠のものとして適合した。 孔子についで孟子が武士道に大きな権威を及ぼした。彼の力のこもった、ときにははなはだしく人民主権的な理論は、思いやりのある性質をもった人びとにはことのほか好まれた。 そのため、その理論は既存の社会秩序にとって危険であり、破壊的な作用をもたらすものと考えられ、彼の書物は長い間、禁書とされてきた。ところが、この先達の言葉は武士の心の中に永遠のすみかを見出していった。」(二八ページ) 仁について 「封建制度のもとでは武断政治におちいりやすい。私たちが最悪の専制政治から救われているのは仁のおかげである。支配される側が『身体と生命』を無条件で預けると、そこには支配する者の意志だけが残る。(中略) 封建制を専制と同一視することは明らかに誤りである。(中略)君主は民の父であり、下からその民をいつくしむことを委ねられていたのである。(中略) 人民の意向と君主の意志は一致し、人民主権の考えと絶対主義とはたがいに融合しあっている。(中略) 専制政治と世襲政治とのちがいは次のようである。すなわち前者では人民は不本意な服従を余儀なくされるが、後者では『誇り高い随順と威厳を保ちうる従順、隷従そのもののような状態でさえ、自由な精神の高まりが生き続ける魂の服従』である。」(『武士道』知的生きかた文庫 四八?五一ページ) また、武士道で言う『忠義』とは、統一教会の『カイン・アベル問題』 ー 上に対する絶対服従とは対極にある。 新渡戸は説く。 「己の良心を主君の気まぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲(いけにえ)にする者に対しては、武士道の評価はきわめて厳しかった。そのような者は『佞臣』(ねいしん)すなわち無節操なへつらいをもって主君の機嫌をとる者、あるいは『寵臣』すなわち奴隷のごとき追従の手段を弄して主君意を迎えようとする者として軽蔑された。 そのような二種類の家臣はイアーゴが次のように述べている者どもとまさしく一致する。 その一人は自分自身の追従に由来する情愛に溺れ、あたかも主君のロバのようにあらかたの自己を費やしてしまう、従順かつ卑屈な下僕である。もう一つはその身ぶり、しぐさを偽り、しかも心の奥底では自分のことだけを考えている愚か者である。 主君と意見がわかれるとき、家臣のとるべき忠節の道は、ケント公がリア王に諌めたように、あくまで主君のいうところが非であることを説くことであった。 もしそのことが容れられないときは、サムライは自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをすることはごく普通のことであった。 生命はここに主君に仕える手段とさえ考えられ、その至高の姿は名誉あるべきものとされたのである。サムライのすべての教育や訓練はこのことにもとづいて行われたのである。」(『武士道』知的生きかた文庫 九八?九九ページ) 新渡戸の言う、『佞臣』や『寵臣』は、まるで、文鮮明と統一教会幹部のことを言っている様である。 教祖の言うことに唯々諾々と従う、カルト宗教と武士道とは対極のところにある |
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七、戦後思潮の超克のために
『武士道』を見直す 戦後教育の中で我々が忘れてしまった倫理や価値観が統一教会を始めとするカルトから日本人を救うヒントとなるのではないだろうか? 例えば、『武士道』はどうであろうか? 三島由紀夫は、政府にあてた『建白書』の中で、『武士道』について、次のように記している。 「私は、外人に極く概略的に説明しますことは、武士道と云うものは、セルフ・リスペクトとセルフ・サクリファイスということが、そして、もう一つ、セルフ・リスポンシビリティー、この三つが結びついたものが武士道である。そして、この一つが欠けても、武士道ではないのだ。 もし、セルフ・リスペクトとセルフ・リスポンシビリティーだけが結合すれば、下手をすると、ナチスに使われたアウシュビッツの収容所の所長の様になるかもしれない。何故なら彼としても、自分自身に対する尊敬の念を持っていただろう。自分の職務に対する責任を持っていただろう。しかしながら上層部の命令するとおりに四十万人のユダヤ人を焚殺したではないか。日本の武士道の尊いところは、それにセルフ・サクリファイスというものがつくことである。このセルフ・サクリファイスというものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすというのが武士道の非常な特長である。そしてこの三つが、相俟った時に、武士道というものが、成り立つのだ。ということを、外人に説明するんです。ですから侵略主義とか軍国主義とかいうものは、武士道とは始めから無縁のものだ。武士道は、セルフ・リスペクトをもった人間が、自分の行動については最終的な責任を持ち、そして、しかもその責任を持つ場合には、自己を犠牲にすること、一命を鴻毛の軽きに比するという気持ちが、武士道の権化で、これがないときには、武士道というものはない。」 (『君には聞こえるか 三島由紀夫の絶叫』山本瞬勝著七〇・七一ページ) セルフ・リスペクト(self-respect)は、『自尊心』と訳されているのだが、respectは、『尊敬』という意味なので、自分自身を尊敬すること。 セルフ・サクリファイスは『自己犠牲』、セルフ・リスポンシビリティーは、『自己責任』という意味である。三島は『自己尊敬』『自己犠牲』『自己責任』の三つが結びついているのが『武士道』だと説く。 例えば、統一教会信者に照らしてみれば、彼らはエリート意識を持っている。「自分達が世界を救っている」「人の知らないことを知っている」という意識は、ある意味のセルフ・リスペクトは持っていると言ってよかろう。(もっとも、彼らのエリート意識なるものは、原罪意識が根底にあり、恐怖に裏打ちされたものでしかないのだが) しかし、セルフ・リスポンシビリティーとセルフ・サクリファイスはどうだろう? 寝る時間も惜しんで霊感商法を行う信者には、「自己犠牲」はあるかもしれないが、幹部になればなるほど、「自己犠牲」の精神は欠如していく。 HG(『早く現金』の意味ともされる)の様に、信者に銀行から金を借りさせてまで献金を強いる。海外の宣教に日本の信者を狩り出すといった行動に、責任感は無い。 幹部が、「原理の常識は世間の非常識」などとシャアシャアと言う。 何よりも、文鮮明こそが、無責任の権化としか言い様が無いので、幹部になればなるほど無責任になるのも理の当然といったところか。 統一教会の対極にある思想 ー 武士道 笠谷和比古は、『武士道と現代 江戸に学ぶ日本再生のヒント』(産経新聞社)の中で、次のように記す。 「日本の長い歴史を振り返って見るならば、個人が集団の中に埋没してしまうのが日本文化であるということもできない。日本文化の根本は『和』であるとしばしば説明される。しかしながら『和』の本質は決して個人の自立を許さない集団主義の謂いではない。『和して同ぜず』という言葉の中に、『和』の真髄が込められている。それは人々との協調、調和を重んじるけれども、無定見で事なかれ的な野合を意味するものではないということである。」 「 忠義とは、阿諛追従でもなければ、奴隷の服従でもない。主体性をもち、見識をもった自立的な武士の、責任ある決断としての献身の行為なのである。それ故に、主君の命令に対してどうにも得心のいかないというときには、自己の意見を申し立てもするし、主君を諌めて悪しき命令を改善する方向にもっていくように努力もする。忠義とは、そのような自立的で能動的な立場を堅持したうえでの献身の行為なのだ。」(『武士道と現代 江戸に学ぶ日本再生のヒント』産経新聞社 二五・二六ページ) 「『葉隠』にあっては、まず自立せる個人としての武士の完成が要求された。それは『御家を一人して荷ない申す志』というものを、常に胸のうちに蔵しているような能動的で、自我意識の強烈な『個』としての武士だったのである。」(三四ページ) 「主命だからといって、事なかれ主義的に唯々諾々と恭順するということは『葉隠』の最も嫌悪するところであった。『事によりては主君の仰せ付けをも、諸人の愛想をも尽くして』、おのが信ずるままに打ち破って行動せねばならないこともある。畢竟は主君、御家のためを思う心さえ堅固であるならば紛れもないものとする。 あるいはまた、自己の名誉を侵害する者は、たとえ相手が主君であっても、その不当を強く申し立てるべきであるとも主張する。」(三七ページ) 「諌言は・・武士道上の義務であり、主君の命令に反対の態度をとることになっても、それを踏み行なうことは、むしろ忠義の本旨にかなうこととされたのである。逆に、主君の命令や行動が不法・不当であることを知りながら、それに唯々諾々と従ったり、主君のわがまま放題の振る舞いを諌めることなくそれに迎合するがごときは、武士にあるまじき態度と見なされていた。」(四二ページ) 統一教会では、上部と下部の関係は、『アベル・カイン問題』とされる。アベルである先輩に対して、後輩であるカインは絶対に服従しなければならない。 「カインの生活態度は、不平不満をもたない、謙虚な態度でなければならない。どんなことでもアベルに対して報告・連絡・相談(ホウレンソー)しなければならない」(『統一協会マインド・コントロールのすべて』一八二ページ) 文鮮明 ー 幹部 ー 信者 の縦の関係を重視する。同輩同士や、家族や友人に連絡しあったりすることは、『横的に流れる』といって『罪』であるとされる。 これは、キリスト教というよりも、歪んだ儒教的組織である。この『アベル・カイン』の関係の対極にあるものが、日本の武士道であると言っても良かろう。 |
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戦後世代の問題点
戦後に教育を受けた我々は、日本の歴史について、否定的な側面ばかりを強調された教育を受けて来た。日本について誇るべき歴史や神話も教えられることなく育って来た。 そういう我々は、統一教会で説く強烈なイデオロギーにひとたびさらされると、非常に脆弱なように思える。 小室直樹は『歴史に観る日本の行く末』の中で次のように記す。 「教育における致命的な結果(fatal consequence)は、父親の権威が否定されたことである。 このことの決定的重大さ(decisive importance)は、いくたびくりかえして強調しても、強調しすぎることはない。 父親の権威による規範は、人間が生きていくうえで、絶対必要である。 規範(倫理、道徳)とは、是非善悪の基準である。『これはしてよい、あれはするな』という命令である。 規範がなければ、ひとはなにをするべきかが分からずに途方にくれるばかりである。五里霧中になるだけである。アノミー(anomie)である。ひとは、このような心的状況に耐えることはできない。正常な人が最も狂的行動に走ることになる。 例えば、カルト教団。あんな教養もあり地位ある人が、何であんな幼稚なカルト教団に入信するのかと、たいがいの人は呆れはてる。 しかし、当人は死に物狂いなのである。 いまの日本には父親の権威がない。父親の権威が与える規範がない。 この人は、いわば規範飢餓なのである。 食べる物がなければ苦しくて仕方がない。水がなければもっと苦しい。 日常生活で、水なんかいくらでもあるときには、枯渇(水がないこと)のおそろしさなんか想像もできない。食べるものがふんだんに有り余っているときには、飢餓は考えられない。だから拒食症なんていう病気がでてくる。 規範(ノルム)(倫理、道徳)も、こんなものだと思うとよい。 それが存在するときには、ありがたみが分からない。人間存在にとって必要不可欠であることに気がつかない。 が、失ってみて、そのありがたみが本当に分かるのである。 規範が無いとどういうことになるのか。 『何をしてよいのか。何をしてわるいのか』 それが分からなくなる。 人間にとって、これほど苦しいことはない。急性アノミー(acute anomie)なのだ。 たいていの人にとって、その苦しさたるや、想像の外にあるだろう。 アップ、アップのように苦しいのである。 溺れる者、藁をもつかむ。 そこへ、カルト教団の教祖があらわれるとどうなるのか。 あれをしろ、これはするなと、はっきりと命令する。曖昧さはない。今まで求めて得られなかったものがそこにある。 もう、あっというまだ。 教養があろうが学問があろうが地位が高かろうが関係ない。 カルト教団の教祖は父親の権威をもつ。 そのようにふるまうことを知っているのだ。 そうなると一コロだ。 このようにして、カルト教団は隆盛をきわめることになる。」(二六五?二六七ページ) 小室の記す様に、我々は守るべき日本の歴史・伝統・文化については何も教えられてこなかった。 学校教育の中で、明治以降の歴史が「侵略の歴史」だと教えられ、中国や朝鮮において侵略をしたのだと教えられる。 朝鮮においては、朝鮮を侵略し、人民を弾圧し、「神社参拝」や「創氏改名」を強制し、朝鮮人を「強制連行」し、女性を「従軍慰安婦」にしたと教えられてきた。 学校教育により、統一教会に出会う前から「洗脳」の棺桶に片足を突っ込んでいるようなものである。 統一教会に出会い、学校教育で漠然と聞いた覚えのある、朝鮮に対しての「侵略行為」をこれでもか、これでもかと教えられる。 教科書では、「革命」の意図を隠した漠然とした歴史としか教えられてこなかったものが、統一教会では具体的かつ詳細に教えられるのである。 「人間は罪人で」「日本は侵略国家だ」と教えられる。 そして、「日本の侵略」に対して闘った「救世主」文鮮明の生涯を教えられる。 拷問に屈することなく、日本帝国主義と闘い、それでも「怨讐を愛せよ」と説く文鮮明の生涯が、イエスの生涯とオーバーラップする。 「日本の罪を償うのは君たちだ」と激をとばされ、国憲を侵し、肉身の親や兄弟を捨ててまで「霊感商法」に走るのである。 「献金の額が少ないと日本は沈没する」と文鮮明に脅かされ、人を騙しての献金にますます励むのである。 我々は国を守ることを教えられてこなかった世代である。 松本サリン事件の時も、地下鉄サリン事件の時も、坂本一家を拉致し殺害した時でさえ、表立って麻原に反対する幹部は誰もいなかった。 文鮮明が、金日成に「三五億ドル」の援助を約束したと聞いても、何も思わない。 その援助を約束したのと同時期に「日本の統一教会に対して約五千億円の金を集めろという指示が出た」というのに(『金正日の核が日本を狙っている』一一二ページ)、統一教会信者は、唯々諾々と文の指示に従っただけだった。 北朝鮮で作られているミサイルの九〇%は日本の部品だそうである。 北朝鮮で作られているミサイルの資金も、統一教会が「国を守る意識の欠如した」日本人から騙し、北朝鮮に送金したものではないか? また、我々は道徳や宗教を教えてこられなかった世代である。 江戸時代の武士は幼児のうちから四書五経を教えられてきた。 漢字は、常用漢字に変えられ、古典を読むことが出来ない世代である。 古典教育は「古いもの」とされ、道徳は日教組により忌避され、教育勅語は「古くて」「封建的」と言われた。 せめて、教育勅語の「父母ニ孝ニ」でも「国憲ヲ重シ」でもどこの語句でも、一部でも知っていれば、統一教会をここまではびこらせることは無かったのではあるまいか? |



