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人間的経験には、人間の知情意の生きた全体が関わってくる。
かつてカントは哲学の課題を
「人間は何を知る事が出来るか」
「人間は何をなすべきであるか」
「人間は何を望む事を許されるか」
という三つの問いに集約し、それは結局「人間とは何か」を問う事に他ならないといった。
 
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  「人間?」  絵・トシ
 
ガダマー・「真理と方法」
ガダマーは経験ということについて
第一に
 経験について、大事なのは、何時もそれが、誰にも予測できず、見通せない仕方において生じてくる。
経験は常に新しさを含んでおり、およそ人間は、経験がもたらすであろう内実を、まったく予測し切る事が出来ないという点が肝腎である。
第二に
 私たちは、それを経験するまでは、当の事柄をよく知っていなかったことを痛感させられる。つまり、それまでの安易な思い込みが崩れ去り、私たちは、徹底的に経験や独断を捨て去らねばならない事を思い知らされる
第三に
 経験とは本質的に、辛い不快なもの、期待の幻滅を伴うものである。かって、ギリシャのアイスキュロスが語ったように「人間は苦しみを通して学ぶ」のである。(渡邊二朗著「自己をみつめる」)
 
※ 今度の様な経験はしたくなないですが・・・トシ
   
 
 
 
「人生の哲学」 渡邊二朗 著 6 絵・トシ(勝手に付けた挿絵です
 
長いことほったらかしにしておいたつづきです
 
できたら、一回の初めを少し読んでね!!
 
間をず〜と省略・・・・・
 
その3―「永遠性の問題」
生存への不安と懐疑
 以前述べたように、私たちはやがて何人にも不可避的に襲ってくる死の事実に対して、覚悟を定めこの終わりある各自の人生を、自分本来の固有の仕方で生き抜き、かけがえのない各自の人生を大切にしてこれを立派に生き抜くことを於いてほかに、どこにも、人生に対する真実の根本的構えを持ちえない存在者なのであった。この根本的事実に即して、それぞれの人生を築いていく以外に、何処にも人生というものを持ちえない存在者なのである。
 しかし、いかにいかにそうした真剣な生き方がなされたとしても、やはり、所詮は人間は死すべき可滅的な存在者だとすれば、その人間の努力はやがては、水泡と期し、無意味の、空しい足掻きに帰着するのではないかという不安と懐疑が私たちの心の内に頭をもたげてくるのではないであろうか。神や仏は、ほんとうに存在しないのであろうか。人間の魂は死とともに終わってしまうのであろうか。人間は永遠性にあずかることは無いのであろうか。絶対的なものは存在しないのであろうか。いわゆる生死を越えたものへの問いが私たち人間の中には不可避的に起こってくる、といってもいいと思う。
 
 
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哲学と宗教の分岐点
 この問題を考えることは、人間における「宗教的なもの」を考え抜くという試みになっていくことであろう。けれども、ここでは、私たちは何らかの既成宗教の立場をとることを、自らに禁止したいと思う。私たちの立場はあくまでも、人生に対する「哲学」の立場である。哲学はあくまで人間的経験の枠内にとどまり、その限界と範囲内における人間的経験の根本省察に、自らを限定するのである。したがって私たちは、みだりに、神や仏を、独断的に担ぎ出すことには慎重であらねばならない。
 ある意味で私たちはここで、哲学と宗教の限界面、其の接触点と分岐点の前に立っているといって良いかもしれない。あるいは、理性の立場と、信仰の立場、その連関と相違の地点といってもいいかもしれない。
 ※「宗教の哲学」「仏教哲学」など、宗教を哲学的に考察した本もあります。あまり、難しい本ではありません。宗教の本でもありません。大学の哲学科の本です。
  
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問題の深さと目下の狙い
 こうした問題については、これまで数多くのすぐれた考察が行われているのである。哲学と宗教、時間と永遠、有限者と無限者、等々といった問題意識の及ぶ射程は広大であり、東西の思想史のすべてが、この問題にかかわっているといっても過言ではない。こういった、形而上学的周到な考察は別の機会に譲ることとし、目下は、ひとえに死によってすべてが灰塵に化してしまうかという、ささやかな素朴な懐疑と煩悶に対し自省を加えてみることとしたい。
 
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カントの考察へ
 こうした問題に関しては、近代の合理的な啓蒙思想の洗礼を受けている「現代の私たち」にとっては、近代ドイツの大哲学者カントの出した答えが最も納得がいきやすい、極めて人間的な解答であると言わざるをえない。
 カントは、「純粋理性批判」という近代の最も重要な書物の冒頭で、人間的な理性には、「拒否」できないが、しかし、「答えられない」根本的な問いがあるとした。
それが、形而上学的な問いであり、それは、結局その書の後半部分やそれに続く「実践理性批判」で論じられているように、「自由」と「霊魂不滅」と「神の存在」という、三つの問題に集約されてよい。なぜ、この三つが人間にとって最も気懸りの種となる、大問題であるのか、解りやすいように言いかえれば次のようになる。
 
 
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自由
 まず、「自由」であるが、もしも、この世の中に自由というものが存在しないとすれば、すべては自然の必然的な因果法則によって支配されることになり、したがって、人間的な行為も因果法則によって引き起こされた機械的な出来事となり、人間の行為も「責任」を問うことが不可能になってしまう。人間は「人格」的な存在者であり、行為の「善悪」を考え責任を持って「道徳」的にふるまう存在者であると考えざるをえない。そのためには人間は自然法則に左右されずに「自由」に「理性」的に行為しうるものでならない事になる。そのためには「自由」という事がどうしても存在しなければならない事になる。
 カントは、この「自由」の存在は理論的には認識されないとされた。この世界の出来事はその「現象界」に関する限りは、自然必然的な「因果法則」によって、説明されなければならないからであった。けれども、カントは現象を超えた「物自体」という「可想界」においては、「自由」が存在してよい、否、「自由」の存在を私たちは「信」じざるを得ず、いや、それを「要請・Postulat」せざるを得ないとカントは考えたのである。なぜなら、もしそうでなければ、この世の中は真っ暗闇となってしまうからである。「自由」こそは、「道徳法則」の「存在根拠」であり、「道徳法則」こそは、「自由」の「存在根拠」であるとカントは考えたのである。
 
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             絵・トシ
 
霊魂不滅
 カントによると、もしも、このように、自然の必然的な衝動に左右されずに、自律的な道徳法則に従って人間が「人格」として生きるとするならば人間は無限の努力を要求されるであろう、その、努力の過程が「死」と共に微塵と砕け散って、雲散霧消する事になれば、これはあまりに無残な事になるであろう。カントは、むろん、「霊魂不滅」という事柄が、この「現象界」においてはもちろん「物自体」という、「可想界」においては、けっして、理論的には認識され得ず、「証明不可能」な事柄である事を見抜いていた。けれども、「実践的立場」に立てば、「霊魂不滅」を「信」じざるを得ず、否、「要請」せざるを得ないとカントは考えたのである。つまり、人間の人格的努力は決して、「死」によって断ち切られはせず、永遠に課せられ、こうして人間の「霊魂」は「不滅」であると、カントは見たのである。そうでなければ、この世の中は、あまりに、真っ暗闇であると、カントは考えたのである。
 
※ もしも、死と共に全てが終わるならば、生きている内に自由気ままに、勝手放題に生きた方が得、と人間が考えるならば、この世の中、道徳も規律もなく、本能のままに生きるとするならば、この世は真っ暗闇となってしまう。神が居ようが今居が人間の良心に従って行動しなければならない。そんな事かな?噛み砕いて解釈するなりば。
 
つぎは
カントの「神の存在」について

「人生の哲学」 4

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ウイリアム・ブレイク 画
ブレイクは画家で詩人 18世紀イギリス生まれ
「無垢のうた」など、大江健三郎さんの愛読書だそうです。立派な画集、版画集などでています。

「人生の哲学」渡邉二郎 著より

死に対する精神的態度

 死に対する虚無的態度

 もしも人間の存在が、死に晒された有限のはかない存在であるならば、、そうした人生など無意味に過ぎず、どのように生きようと勝手気ままで良いはずであり、場合によってはよっては自殺さえも許されるのではないか、死に対する想念などは明るく生きようとすることにとっては死を考えることなど無駄で無意味なことではないのか、という反論がすぐに予想されてくる。

ひとごとでない死の自覚
 
 死をたんに他人事のようにながめ、死ねば全てが終わる、万物は没落の運命を免れ得ない、などとうそぶいているのはまだ、死の問題を本質的に自覚されていない。大切なことは死が「個別的」に当の自分自身に関わる切実な問題として自覚され、孤独の中においてぞっとするような先の見越しえない。 ヤスパース のゆう「限界状況」の一つとして人間にとって不可避の宿命として捉えてこそ本当の意味の死の問題が自覚されたことになる。その時人間はどのような態度をとるべきか真剣な課題となるのである。

※ヤスパースの「限界状況」人生の途上にあって人間の力ではどうすることも出来ない事、壁、もっとも解りやすいのは人間は必ず何時か死ぬということ。どんなにお金や地位や名誉があってもある日予告なしに、時間を限定すること無く、有る人は老衰で安らかに、ある人は事故で突然にまたは不治の病でやってくる状況の現れの事。トシ

「人生を大切と思う心」

夜も遅いので次回へ つづく・・・おやすみ・・・・・

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「anatomy」画・yattkoトシ
世界医学大会の記念切手のカシェとして自作の封筒用に描きました。(個人用です)
人物画を描く為に解剖学を若い頃少し勉強しました。教材には事細かく、骨格、筋肉、などが説明されています。

うろ覚えで記憶をたよりに、カレンダーの裏にそれも仕事中に描いていました。捨てるのがもったいないので記念切手のカシェ(記念封筒の絵)として使いました。

気持ち悪いと言わないで〜。

春・・・ だというのに少し暗い話の様ですが決して暗くはないのです。希望を抱く為の話なのですが、タイトルはくら〜いイメージになっています。

「人生の哲学」・渡邉二郎 3

生と死を考える視角

 生と死を考える問題の視座についてはじめに若干の限定をほどこしておかねば成らない
死を考える視角には様々なものがありうるからである。
まずは、医学的な死についてのさまざまな問題である
 医療における死その中には社会的なさまざまな問題が浮かび上がってくる。
尊厳死、がん告知、脳死と臓器移植、人命軽視のさまざまな傾向などであろう。
以上の問題はすべて「医学的生物学的な死」の問題である。

 医学的生物学的死から哲学的存在論的な死へ

今日において「生と死」の問題が根本から問い直さなくてはならない事はたしかである。
 しかし、私たちはここでは「医学的生物学的死」の次元の論議は別の機会に譲るとして
ここでは哲学的存在論的な生と死の問題がある事を指摘して、私たちの問題考察の方向を示しておくことにしたい。
 通常私たちが死について語る時それは生物としての機能の停止、医学的な意味の身体的生命活動の終焉を意味している。しかし、そうした意味での死の現象のみにおいてのみ死の本質はけっして尽くされはしない。もっと根本的な意味が生物学的医学的意味の根底にあるのである。医学的な死の問題だけであるのならある人は安らかに天寿を全うし、またあるものは事故死や心臓死のためにあっというまにこの世をさり、有るものは病魔と闘いながら苦痛と苦悩のなかに終焉を迎える、とさまざまである。しかし、それが等しく死の出現であるのは、もはや人間が生命ある「存在」では無く生命の「無い」「非存在」へと「転化」したという根本問題が潜んでいるからである。死の本質は医学的生物学的な「失命(Ablemen,Exitus)」のではなくそれらの根底に潜む所の人間の「存在」の「非存在」への転化そうした意味での「無」の出現そうした形の「存在」の「終焉」という点にある。
 死において人間は抗いがたく「無力」で「非力」な己の「存在」の「有限性」に直面するのである。人間が滅びゆく「儚い」存在が死という現象の本質認識に他ならない。

 死を考えることの意味

私たちが考察してみようと思うことは医学的生物学的な死の問題ではなく「哲学的存在論的」な死の問題である。死に対しては無力で非力で可滅的な有限性を背負った一人一人の存在を直視しこれをどのように受け止めてここからいかに、十全な人間理解を形成すべきかという問題こそが私たちの視座に他ならない。

この人間の有限性と限界性への徹底した理解の上にのみ私たちは人間に対する慈悲や優しさ、憐憫や愛情の念も追い育つと思う。すべての人をいとおしみ、愛する心根が滅びゆく哀れな存在であるからこそ生まれると思う。やがて、現代の殺伐とした、荒涼たる精神風土を乗り越える豊かな思想を切り開きうるかもしれない。

 人生を哲学すること

哲学と言った時それをとりたてて難しく考えることはない。「哲学」とは人間にとって重要なことを日常の雑事に追いまくられて慌ただしい時を一時中断して人間にとって重要なことを偏見や先入観にとらわれずにその本質をあるがままに反省的にとらえようとする知的営為のことに他ならない。プラトンはその著「パイドン」においてソクラテスの言葉を引用し哲学を「死の練習(メレテー・タナゥー)」とよんでいた。死を恐れずにその覚悟を決めておく訓練である。ということである。もちろん、そのことは死をも超えてゆるぎない不滅の物への確信が必要である。
 私たちは自分の人生経験をよく反省し直し、人生の事実を曇りない目で見直し、過去の偉大な遺産に学びつつ生死を考えていかなければならない。「人生の哲学」より

 ※この中の語句の一つ一つに引用した哲学書とページが記載されています。それはあまりに膨大な書にのぼるのでここでは省略・・・先生自身の言葉よりも過去の偉大な哲学書の解説のように思われます。トシ

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 水彩「・・・」絵トシ

人生論の必然性

 外部の世界へと向けた精神のまなざしを、己の内部のうちへと屈折した時に、抗い難い形で、われわれの心の中に湧き上がってくる人生に対する様々な思い、実人生の長い時間的歴史的な遍歴過程の中から辛苦に満ちた経験とともに熟成してきた人生に対する思い、そうしたものが世に言う「人生論」である。
 人生論こそはあらゆる人間の感心事である。と言っても決して過言ではないとおもう、なぜなら人生にたいする考察の遂行こそは人間が人間であることの証しだからである。自分の人生の意義について思い悩み苦しまなかった人間は想像することが出来ない。
 「人生の哲学」と題して考察する事柄は「人生論」的思索に関わっている。それが単に「人生論」と呼ばれずに「人生の哲学」と呼ばれる所以は問題となっている事象の本質を翻って、反省的にとらえ直そうとする精神の態度を強調するにすぎない。過去の優れた人生論的思索の遺産に学びつつ若干の考察を試みたいと思っている。

人生の五つの根本問題

 ここで人生の諸相のすべてに付いて考察を施すことは不可能である。そこで、もっとも基本的な根本問題に目を向けるほかない。それでは、その根本問題は何処にあるのであろうか。私たちの人生経験や境遇は、各人各様であり、私たちは誰もみな等しく、この世の中に産み落とされ各自の人生を生きるほか無く、その際には自己と他者は愛憎の葛藤において、複雑極まりない修羅場のうちに置かれ人生の難しさを味わいつくすであろう。
こうして私たちは実人生のまたっだ中で、幸福と生きがいを問い求めて必死に生きるが、そうした人生行路の途上に置いて人生の究極的なものを掴みきれないその未完成の苦闘のさ中で私たちは突如、死に襲われて朽ち果てていかねばならない存在であることは、万人に等しく当てはまる人生の真実であろう。
 こうして、生と死、愛の葛藤、自己と他者、幸福と生きがい、といった諸問題が人生の根本問題として浮かび上がってくるのである。こうした意味でとりわけ「死」と「愛」と「自己と他者」と「幸福」と「生きがい」について考察をめぐらしてみたいと思う。
「人生の哲学」より抜粋 トシ

※ようするに生まれてくる環境を自分で選ぶことは出来ない「自分はなぜもっと金持ちに、出来ればヨーロッパの貴族に生まれてこなかったのだろう」と考えてもそれは無意味この環境、この境遇、どんな複雑でどんな片田舎、どんな障害を持って生まれても、それが自分である。その自分を人間は生きるしかない。・・・そんな解説が先生の言葉にありました。トシ

3へつづく

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