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Q113 八ヶ岳の南麓、長野県富士見町には縄文時代の「井戸尻遺跡」があります。ここにある井戸尻考館には写真の土器「渦巻把手付深鉢」が収蔵されています。
さて、この土器の絵は「あるもの」に利用されました。
その「あるもの」とは次のどれでしょうか?
1 郵便ハガキの料金図柄
2 富士見町の町章
3 遺跡のそばにある境小学校の校章
4 信濃境駅前にある塔の形
答えは、1番のハガキの図柄です。井戸尻考古館には、写真の郵政大臣からの書面が展示されています。昭和47年とあります。今は別の図柄になっていますが、この図柄、何か記憶があるような・・・ 昔のハガキをお持ちの方がございましたら、探してみてください。
井戸尻遺跡がある八ヶ岳南麓、西麓には多くの縄文遺跡があり、土器などもたくさん出土しています。井戸尻考古館に一度足をお運びください。
今回の正解は、k447iさま、風路さまです。おめでとうございます。
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八ヶ岳の歴史
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では、第113問です。
Q113 八ヶ岳の南麓、長野県富士見町には縄文時代の「井戸尻遺跡」があります。ここにある井戸尻考館には写真の土器「渦巻把手付深鉢」が収蔵されています。
さて、この土器の絵は「あるもの」に利用されました。
その「あるもの」とは次のどれでしょうか?
1 郵便ハガキの料金図柄
2 富士見町の町章
3 遺跡の近くにある境小学校の校章
4 信濃境駅前にある案内塔の形
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Q104 八ヶ岳を東に見る長野県茅野市には縄文時代の遺跡が多くあります。縄文土器や黒曜石などが出土されています。茅野市尖石(とがりいし)縄文考古館には写真の土偶が展示されています。1枚目は「仮面の女神」と呼ばれ、2枚目は「縄文のビーナス」と呼ばれています。さて、この二つの土偶のうち、作られた年代が古いのはどちらだと思いますか?
1 仮面の女神 高さ34cm
2 縄文のビーナス 高さ27cm
答えは、2番の「縄文のビーナス」です。こちらは縄文中期で、今から約5000年前です。昭和61年に発掘され、平成7年に国宝と指定されました。
「仮面の女神」は縄文後期で、約4000年前ということです。平成12年に墓と思われる穴から出土されました。「仮面の女神」という名前は公募されて名づけられました。
尖石縄文考古館に行くと、この二つの美しい土偶を見ることができます。
ぜひ一度足をお運びください。本物を見ると、感動しますよ。
写真は「縄文のビーナス」が発掘された時の状態と、縄文土器です。
今回の正解者は、ともたん様、k447様、のんき仏子様です。おめでとうございます。
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では、第104問です。
Q104 八ヶ岳を東に見る長野県茅野市には縄文時代の遺跡が多くあります。縄文土器や黒曜石などが出土されています。茅野市尖石(とがりいし)縄文考古館には写真の土偶が展示されています。1枚目は「仮面の女神」と呼ばれ、2枚目は「縄文のビーナス」と呼ばれています。さて、この二つの土偶のうち、作られた年代が古いのはどちらだと思いますか?
1 仮面の女神 高さ34cm
2 縄文のビーナス 高さ27cm
2択の問題です。ちなみに、2つの土偶の制作年代には約1000年の差があるとのことです。
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Q90 清里と野辺山の間にある平沢峠の近くに「平賀源心胴塚」があります。海ノ口城の城主であったという平賀源心は初陣の武田晴信(信玄)に敗れ、討ち取られました。そして、この地に胴だけ葬られたということです。
では、この地に胴だけ葬られた理由は、次のどれでしょうか?
1 平賀源心の部下が追いかけ、首を取り返したから
2 この地が信州と甲州の境であり、源心の戦いぶりを誉め、胴は信州に残した
3 首級を確かめるために運んだが、胴は必要がなかったから
4 戦の帰途、夜になってしまい、運ぶのが大変だったから
正解は3番です。写真にありますが、胴塚の脇に石碑が建っています。この碑には「首実験のため首だけ持ち帰り、若神子に葬り、胴はこの地に埋めた」とあります。海ノ口から平沢峠まで亡骸を運んできたのですが、大男で重たかったので、胴はこの地に葬ったようです。首級も須玉町の若神子に葬られ、源心のお墓があります。父の信虎に首級を見せることがなかったようです。また、源心は生きて捕らわれ、この地で殺されたいう説もあります。実際は記録が残っておらず、源心の存在も明らかでないようです。
この戦は武田信玄の初陣として有名です。天文5年、信玄の父、信虎は8,000の兵を率いて海ノ口城の攻略に向かった。海ノ口城には2,000余の兵が堅固な守備を続け、ひと月を過ぎても落城しなかった。信虎は甲斐への引き揚げを決意。16歳の晴信が進み出て、殿軍を申し出た。信虎は軍を返すが、晴信は300人余の手勢を率いて甲信の国境に残った。ここで晴信は兵に休息をとらせ、一息に取って返し、海ノ口城を急襲。平賀源心は、武田軍が撤退したと思い、城兵の殆どを家に帰し、城内には7,80人ほどしかおらず、すっかり油断し、不意をつかれた平賀源心はじめ城兵の殆どは討ち取られ、海ノ口城は落城した。しかし、信虎は、この大手柄を「空城だから落とせたのは当たり前といって、認めようとはしなかったと言われています。
今回の正解はasyiさまです。おめでとうございます。
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