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礼拝堂、集会所、物置薪小屋、八ヶ岳伝道所の三つの建物は雪の中。三好達治(19001964)のよく知られた二行詩「雪」が連想されます。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」。激しく移りゆく世の雑音を吸い取って、深夜しんしんと降る雪。山の村には変わらない昔からの暮らしがある。
懐かしく、平穏で、木版画のような場面がしっとり心に染みます。

都市育ちの詩人が、山村暮らしの実際を垣間見、衝撃めいた印象を内面化させます。「雪」はその生々しさを控えめに覆う民話ではないのか。
初期詩集『測量船(1930)』には「雪」と共に「村」と題された二編の詩があり、その一はこう。「鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた(後略)」。
「村」その二にはこうあります。「恐怖に澄んだ、その眼をぱつちりと見ひらいたまま、もう鹿は死んでゐた。無口な、理屈ぽい青年のやうな顔をして、木挽小屋の軒で、夕暮れの糠雨に霑れてゐた(後略)」。

さて罠でとった獲物をどうするか。放り投げた芋一つは、殺生に対する贖罪のつもりなのか。しなやかな野生と荒っぽい山村の人為(麻縄、木挽小屋)との接合に、ひどく胸をしめつけられる。
小屋に縛られた鹿を見てしまった詩人の動揺、ありありと分かります。

礼拝堂は太郎の家、集会所は次郎の家、物置薪小屋はさしずめ三郎の家。これらの屋根に夜更けて雪がしんしんとふりつむ。
朝、この透き通った光景を、静かにゆっくり剥がしてみると、「麻縄で縛られた、澄んだ目の、風雅に坐ってゐる、無口な、そして理屈っぽい青年のやうな顔」のキリストがおられる。そんな想像が巡ります。

「苦役を課せられて、かがこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった(イザヤ53:7)」。
信仰的な解釈は脇に置き、預言者の言葉からただちに浮かぶ感情が、「木挽小屋の軒で、夕暮れの糠雨に霑れてゐた」十字架のキリストとして、私のどこかを直截に響かせます。

キリストの救いとは、「太郎や次郎の屋根に雪ふりつむ」、懐かしく、平穏で、母にいだかれるような安堵感ではありましょう。そしてその底部には、私たちが生きていることの、ひどく胸しめつけられ、動揺させられる、生々しい神の子の犠牲がありました。Ω

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昨年末、からっ風吹く寒い日に、八ヶ岳伝道所では大掃除と餅つきをしました。
なかなか思いきれずに実現しなかった餅つきを後押ししてくれたのは、その春のこと、リニア計画でダメになるIさんの田圃がきっかけでした。
「じゃあ教会で餅つきするから、抗議の表明としてモチゴメ植えて下さいな」と、つい口走ってしまいました。

餅つきというと、搗いている威勢のいいところが注目されますが、準備や始末にこそ相当な手間と時間がかかります。私など、おもしろがって搗くか、駄句をひねって遊んでいるがごとくですが、女性たちは搗きたての餅をのし台の上で手際よく丸め、箱に納めていきます。
「餅まるめ納めて凹と凸残し」。力いっぱい搗くことも、せっせと丸めていくことも祈りの身体のような気がして、うぅむ良いなぁ、ぼんやり感慨に耽りました。そして、それぞれの祈りの痕跡が残る、まことにおいしい餅ができました。

パンや葡萄酒がない東南アジアの辺境の教会では、餅とドブロクで聖餐式をするそうです。聖晩餐を日常食でおこなうとは、イエスの作法に倣ってもいて、それなりに正統なことでしょう。
触発されて私も昔、餅と清酒で聖餐式をしたことがありますが、紋付き袴を礼装にするようでわざとらしく、恥ずかしくなってやめてしまいました。

「体は一つ、霊は一つ(エフェソ4:4)、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ(4:5)」。とはいえ、実際にはなんと多様な現れ方をするのでしょうか。
聖霊降臨の折に人々は驚いて言います。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか(使徒2:8)」。
ガリラヤの漁師(2:7)が数多の外国語(2:9~11)を喋ったというより、言語や文化を異にする者たちが、馴染んだ、心の深いところに響く「故郷の言葉」で聞いたのです。
語る者と聞く者の境がない存在の深部において、霊や信仰が「一つ」なのであり、認知しうる表層はむしろ違っている方が自然ではないでしょうか。

「餅まるめ納めて凹と凸残し」。一人ひとりが己の形を為し、しかもそれらが無理なく一つに納まっていること。
私たちが熱と弾力のある搗きたて餅であるなら、キリストの一つなる体に自ずと納まりながら、私という凸凹がそのまま尊ばれることになるでしょう。Ω

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クリスマスと系図





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クリスマスはもう間近。マタイ福音書の降誕記述はこう書き出されます。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった(マタイ1:18)」。
この降誕記述の前には、養父ヨセフに流れ込む系図が長々と書かれていて(1:1〜17)、ダビデの家筋であることが分かります(1:6)。母マリアの系図はありませんが、洗礼者ヨハネの母エリサベトが親類で(ルカ1:36)、モーセの兄アロン家に属するので(1:5)、いっそう古い祭司の家筋なのでしょう。ところが、系図を延々と記した直後に、あたかもその系を断ち切るかのように「聖霊によって身ごもった」と述べているのは、家柄に拘泥する世の支配者や民衆への一撃なのでしょうか。
ルカ福音書にもイエスの系図があり(ルカ3:23〜38)、こちらは祖先へ遡る形式で記されています。マタイ福音書の系図がメソポタミア由来(創世11:31)のアブラハムから始まるのに対し(マタイ1:2)、ルカ福音書のそれはアブラハムを遥かに超えて、神話的なノアやアダムまで遡ります(ルカ3:36〜38)。両者の系図は共に史実ではありせんが、そもそもクリスマスは「聖霊によって身ごもった」出来事ですから、系図の信憑性は問題外でしょう。
系図は英語で「family  tree」。なるほど、私から父と母へ、四人の祖父と祖母へ、八人の曾祖父と曾祖母へと遡行し続けると、大きな樹冠のような図が描ける。逆に、歴史の流れに沿って祖先から現在の私に至る嫡流と傍流を描いても「family  tree」になります。前者の私の位置はその幹にあたり、後者だと私は枝先に位置づけられます。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である(ヨハネ3:5〜6)」。降誕した神の御子と同じように、私たちにとっても新たに「霊から生まれる」ことが何よりも大事で、「family  tree」はさして意味がありません。
冬ざれた午後、礼拝堂の白壁に映った陰影にハッとさせられ、ちゃんと読んだことのない福音書の「family  tree」を確かめました。彼らの粘着的な系図に比べて、私の祖先はわずかに高祖父までしか辿れず、その先は無明です。しかし20万年前アフリカのアダムまで遡れば、私たちは天の霊においてだけでなく、地の肉としても兄弟姉妹なのだと思い、くすり苦笑してしまいました。Ω

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影 と 実 体

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ことのほか冷えびえとしている今年の秋。礼拝堂の扉が午後の陽で温まっているせいか、アキアカネがじっととまっています。
そおっと扉を開けて堂内へ入り、用事を済ませて出る時も、そおっと。…おっ、まだ、いる。カメラを構えてぐっと寄ると、頭部をくりくりと動かし、どうやら生きているようです。

翌日、その姿はなく、ほっとしたような、残念のような心持ちで、扉の周囲をなんとなしに捜索する。
秋が深まり、アキアカネの鮮やかな紅色が枯れてくすむと、実体が影に近づくのか、影が実体を覆うのか、どちらとも見分けがつかなくなります。とりわけ翅の影は、この辺りをすいすい飛んでいる時から、実体とほとんど同じ。

「とんぼ死んで影刻みおりくっきりと」。礼拝堂に黒い影はくっきり落ちていましたが、彫り込むように刻まれたのは扉ではなく心象に、でした。


「あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります(コロサイ2:16〜17)」。


伝統や律法による神への手がかりは「影」に過ぎない。この影、私たちに重ねて見るならば、祭礼や宗教儀式のようなものでしょうか。そうした歳時記に彩られた世は、キリスト者にとっていわば影で、再臨されるキリストがまことの「実体」なのだと。
私たちはキリストを真ん中に据えているし、否を言うつもりはない。だが皮肉なことに、キリストという実体はいつまでも摑み尽くせず、一方、世という影には手応えがあって親しい。

やがて召されて憩うであろう神の御許が、光で満ちていたり、一面の花畑などではなく、影なる世と見間違うような、雑多で悲哀ある場であったなら嬉しい。
礼拝堂の扉で、影と実体が混然となっていたアキアカネのようであるなら、いいのだけれども。Ω

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信 仰 と 沈 黙

イメージ 1漫画では、静寂の画面に「シーン」という擬音が書き込まれます。その影響からか、真面目な話し合いで皆が沈黙してしまった時など、緊張に耐えられずに誰かが「シーン」とつぶやくと、いくらか場がなごんだ感じになります。あの「シーン」は、静寂時に聴こえる耳鳴りの擬音でしょう。

下の田の稲刈りが終わった時期、草刈機を止めて、伝道所裏庭の雑木林で腰を伸ばすと、あの耳鳴りがはっきり聴こえました。
「しいんといふ文字書きたすか背戸の秋(拙作)」。花はなく、紅葉にはまだ早く、とりたてて指差すところもない秋の光景に、しばし陶然として「しいん」という耳鳴りを味わっていました。

木々のむこうに礼拝堂。礼拝では、私たちの生きている言葉で主を讃美し、心身に響く母語で主の言葉を読み、耳を澄ませてそれを聞く。裏の林に降りてみれば、「しいん」と耳鳴りが聴こえる沈黙の場がある。
なんという絶妙な調和でしょうか。意図したものではありませんが、八ヶ岳伝道所という「場」はそんな配置になっています。

復活されたイエスは、手応えを欲するトマスに言った。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである(ヨハネ20:29)」。
使徒であるトマスはかつて、実際にキリスト・イエスの愛の業を見、救いの言葉を聞いていました。しかし、それを見、聞いただけではまだ半分。「見ないで信じる」ことがその足りない半分でしょうか。

私たちもまた聖書によってキリストを見、神の御言葉を聞いています。それと同時に「見ないで信じる」ことも求められている。
キリストは私たちの知覚に働き、同時に知覚には納まりません。秋の林で「しいん」と鳴っている沈黙は、その納まらなさと関係あるような気がします。
「しいんといふ文字書きたすか背戸の秋」。この沈黙の擬音は、言葉に納まらない信仰を、暗示する響きなのかもしれません。Ω

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