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まむしの三兄弟

 田舎住まいも四半世紀、刈り払い機のふり回し方は上達し、山野草をうまくかわしながら草刈りできるようになりました。伝道所の庭や林もそうした慎重な刈り方をするため、時間が余計にかかり、仕上がりは中途半端に見えます。気をつけて残す山野草の代表はテンナンショウ(まむし草)、葉だけの時も間違って刈っちゃうことはありません。
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 守られてテンナンショウ地回りのごとし、「おっ、まむしの兄弟か」。まむしの兄弟と言えば、1970年代東映のシリーズもの。私は新宿の昭和館で何本か観ています。悪にして義なるハチャメチャな兄弟、政(菅原文太)と勝(川地民夫)が暴れまわるやくざ映画ですが、胸のすく場面でのかけ声や、どっと笑って連帯感が生じていたあの暗闇が懐かしい。

 東映のまむしの兄弟は二人ですが、伝道所のそれは三兄弟。聖書世界のまむしの兄弟は誰か、と思い巡らしてすぐさま浮かぶのがヘロデ大王の三息子。大王の死後(マタイ2:19)、三人の息子は彼の地を分割統治します。長男アルケラオは南のユダヤ地方を(マタイ2:22)、次男ヘロデ・アンティパスは北のガリラヤを(マルコ6:14)、三男フィリポはガリラヤ湖東岸をそれぞれに統治しました(ルカ3:1)

 まむしの三兄弟の内、長男のアルケラオはあまりに極悪非道で、ローマ帝国に統治能力なしと見なされて失脚し、代わりに総督ピラトが着任。次男のヘロデは色欲(マルコ6:17)とそれに伴う近隣国との紛争(政略結婚を反故にしたり)で敗北。三男のフィリポは兄たちに比べれば穏健で、荒廃した都市パネアスをフィリポ・カイサリア(マルコ8:27)として再建させる行政手腕もありました。まむしの三兄弟の内、長男と次男は内在する自らの毒によって自滅。三男も同じ毒を持つ、まむしだったでしょうが、自家中毒を起こすには至りませんでした。

 テンナンショウの根には相当の毒があり、その姿と危険性ゆえに「まむし草」と呼ばれています。草刈りしていて、まむしの三兄弟と対面。はっとしてしばし立ち尽くし、東映やくざ、イエスが生きた時代、そして私たち自身のことへと連想していきました。毒は使い誤ると自滅、うまく使えば人間の可能性を拡げます。悪と義は、罪と恵みは、人間において分かちがたいものなのでしょうか。Ω

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神おひとり

新しく作った物置小屋横の薪を眺め、ひと安心。Hさんが伐りたての薪材をごっそり調達して下さり、私は乾ききった放置材からリョウブなどの堅木を選んで割りました。今までの薪はこの冬で無くなりましたが、陽射しが強くなると次の冬の心配は薄らぎます。いかん、いかん、備えをしなければと思い直して薪割り。そしてひとつ発句も。

「薪割る哉寒き憶えのあるうちに」。なんだか蕪村のような趣があって、案外いいじゃないか。ただ見方によっては勤勉を唱える格言のようでもあり、類似の御言葉を探すとしたら箴言か、と聖書をくくっていると、おっ、ありました。

「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食料を集める(箴言6:6〜8)」。

イソップ物語「アリとキリギリス」につながるような箴言ですが、新鮮に響いたのは「首領もなく、指揮官も支配者もない」のに共働が成り立つところ。私たちに即して思い描くならば、八ヶ岳伝道所には当番表の類がないことでしょうか。もちろん、小さいとはいえ、他の教会のような奉仕はあります。でも、指揮官なしにこれを為すことは、思っている以上に意味あることなのかもしれません。将来、奉仕の担い手が増え、当番表が必要になったとしても、この御言葉を受け取りながら計画してほしい。

イエスは金持ちの男に答えました。「なぜわたしを〔善い〕と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない(マルコ10:18)」。箴言の「首領ない、指揮官ない、支配者ない」には、ただ一者、善い「神おひとり」が暗示されています。この「神おひとり」を感じているなら、人間は指揮官なしに、本当の意味で「共に働く」ことができる。

イメージ 1 「薪割る哉寒き憶えのあるうちに」。格言めいていると自嘲気味に書きましたが、こうして御言葉をひと巡りしてみると、自らの発句ながらそうではないことが分かります。「夏の間にパンを備える(箴言6:8)」ことは、労働や奉仕と言うよりも、祈りなのではないか。いやもっと言えば、祈りとは、労働や奉仕をも含んだ「人間の支柱」ではないか、と積まれた薪を眺めて感じました。Ω


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 三月下旬、いろいろな山野草が芽吹き出したところに雪が降りました。素朴で地味な土手のヒメオドリコソウも、寒の戻り雪に演出されて、どことなく晴れがましく群舞しています。「春の雪鄙の踊り子飾りおり」と駄句をひとひねり。印象を味わうだけでなく、拙くとも言葉にしてみると、イエスの御言葉とも響き合います。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった(マタイ6:28)」。

イエスは「野の花を注視せよ」と示し、結論を述べます。「〔何を食べようか〕〔何を飲もうか〕〔何を着ようか〕と言って、思い悩むな(6:31)。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである(6:32)。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である(6:34)」。

 「明日は雪になるのか」、あれこれ思い悩んでしまうと、野の花は花弁を閉じ、時を逸してしまいます。ところが天気の急変で、逡巡する間もなく唐突に雪が降りました。すると、どうだろう。花は枯れるどころか、地味なヒメオドリコソウが「栄華を極めたソロモン以上に着飾る」ことになりました。妙に感傷的なこうした視点は、八ヶ岳伝道所の歩みと重ね見ているせいかもしれません。

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「明日のことまで思い悩むな(6:34)」。明日を思い悩むほど、私たちの今日に備えがあったわけではない。かといって「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる(6:33)」というほど、生真面目に祈り続けた覚えもありません。伝道所の道程は、ぼんやりしている間に春の風()が吹き、その恵みによって野の草花が咲いた、という感じでしょうか。

「春の雪鄙の踊り子飾りおり」。雪が唐突に降りはしましたが、翌朝の寒さは春らしいもので、アクシデントだと思ったことがかえって幸いな結果になりました。「その日の苦労は、その日だけで十分である(6:34)」。私たちは相変わらず明日のことは思い悩みませんが、今日の苦労だけは、父なる神が恵みと共に与え給う創造的な事柄として、誠実に負っていくつもりです。Ω

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 「預言者イザヤ及びエゼキエルと食事を共にした時、彼等はどうしてそうあからさまに、神が彼等に話しかけたと主張するのか、そう主張した時誤解されて、欺瞞のもととなることを心配しなかったかと私は尋ねた(「忘れがたい幻想Ⅱ」土居光知訳)」。

 詩人・画家のW.ブレイク(William Blake,1757~1827)はこのように書き出し、その問いにまずイザヤが答えます。「私は有限な五官を以て神を見たことも聞いたこともない。然し私の感覚は至る所に無限を見出した〜すべての詩人はそれを信ずる、そして想像力の時代においてはこの確信は山をも動かした」。

 私(山本)よりちょうど二百歳年長のブレイク兄貴は冷静な幻視者であり、大胆なイマジネーションで預言者の本質に迫ります。こうした「幻想」は、現代の教会や神学が扱うことのない道筋で、備えなしに踏み込んでいくには幾分危険な領域かもしれません。

ブレイクの問いに対し、エゼキエルはいっそう明晰に答えます。「東方の哲学は人間の知覚作用の原理を教えたが、知覚の根源と考えらるるものが国々によって異なっていた。我々イスラエル人は所謂詩魂を以て根本とし、他をすべて枝葉のものとした」。

国々よって多少異なるとはいえ、確かに私たちは、実生活にせよ学問体系にせよ、「知覚作用」を根本とし、「詩魂」を枝葉のものとしています。聖書の読み方や信仰でさえ、どちらかというと詩魂は脇へ追いやられ、痩せた枝葉にされています。

早春の宵、街灯で木立の影が礼拝堂に落ちています。細い枝々は少しずつ膨らみ、しばらくするとその影は礼拝堂を覆うでしょう。イザヤが答えたような「山をも動かす」想像力は、やがて辛子種の信仰となる(マタイ17:20)。礼拝堂は教会の本質ではありませんが、信仰で培われた想像力による果実です。八ヶ岳伝道所の誌魂、痩せている枝葉であっても、春の御言葉によってたっぷり膨らみ、次なる山をも動かすでしょう。

イメージ 1世界の内奥を幻視するブレイク兄貴が、寒さで縮こまっていた信仰を揉みほぐしてくれました。キリストの備えさえあれば、少しばかり危うい領域がおもしろい。Ω

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ま  ぼ  ろ  し

相変わらず寒いけれども、陽光の照度が増してきている二月。礼拝堂扉のガラス越しに、建築中の物置小屋に目をやると、ふいに郷愁めいた感情が湧きあがりました。しばし立ち尽くし、これまでの道のりをふり返ってみましたが、その理由はどうも見当たらない。もしかすると、過去ではなく未来から今に流れ込んでいるヴィジョンが、郷愁の香りを放っていたのかもしれません。「あぁ、まぼろしとは、こういうことなのか」。

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「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る(ヨエル3:1)」。この預言は、イエス亡き後の使徒ペトロが、その堂々とした説教の中で引用しています(使徒2:17)。息子や娘の「預言」は言葉ですから一応は別物だとしても、老人の「夢」と若者の「幻」には何か違いがあるのでしょうか。


教会に幻滅しながらも、キリスト信仰に生きた哲学者キェルケゴール(1813〜55)はこう記しています。「若者が自己自身について希望を抱いている時、彼は幻影の内にある。老人は老人でその青年時代を想起する仕方の中でしばしば幻影に捉えられている(『死に至る病』岩波文庫)」。「若いキリスト/老いた教会」という哲学者の信仰ヴィジョン。このまぼろしをコペンハーゲンの市民と重ね見ていたのでしょうか。さらに解するなら、老人の夢をいわば歴史とし、若者の幻を来たるべき終末の隠喩として、過去と未来から「今」を規定しているのかもしれません。「死に至る病とは絶望である」という哲学者の警句、「幻がなければ民は堕落する(箴言29:18)」という御言葉。こうした言葉が礼拝堂の扉越しに、物置小屋と共にゆらめいています。

八ヶ岳伝道所にはすでに20余年の出来事が刻まれています。しかし「歴史」を語るほどに形は整っておらず、未来から流れ込む「まぼろし」を受け取るばかりの段階でしょうか。とはいえ、そのまぼろしは、数多の人に注がれ、数多の人を介して現わされています。共に礼拝を献げる人々、折々に覚えて祈って下さる人々、伝道所というキリストの身体に接している人々。数えていくと相当な人数になりました。

 まぼろしは幻影のままではありえず、礼拝堂の扉越しに見える物置小屋のごとくに形づくられる。増していく光の中、私たちの歩調で少しずつ現れていきます。そのうちに「青年時代を想起する老人の夢」、つまり自分たちの歴史によって「今」を規定する時も訪れるでしょう。でも、まだしばらくは、キリストのまぼろしに導かれるに任せて、心地よい起伏があり絶妙に蛇行する野道を進みます。Ω

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