全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全15ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


                                                                       イメージ 1


どかっと雪が降った春分の日、芽を出しはじめていた草花がなんだか唖然としているようでした。
私も唖然とし、「春の雪めざめにちょうどよき狂い」と駄句のつぶやき。


春分の雪程度の小さなアクシデントならば、ぼんやりした頭の刺激になるでしょうし、固くなりがちな私たちのパターンを按摩してくれる「ゆらぎ」になるかもしれません。
いや待てよ、水仙は冬の季語ではなかったか。だとすれば、この花にとって雪は、唐突な帰郷命令になるんじゃないか、とおおげさな妄想を巡らせました。


雪が降った同じ日にI氏が召されました。氏は私よりふたまわりほど年長の詩人。かつて氏の自作詩朗読のための音楽を作ったことがあって、その際に幾冊もの詩集を丁寧に読み込みました。
I氏は、大学で英文学を講じながら訳詩も数多いのですが=土俗的な風土で育った少年時代、戦後横須賀での混沌とした青年時代=洗練と土俗性と猥雑さが安易に溶け合うことなく、斑状に混在しているところが詩の特徴でしょうか。


「この人たちは皆、信仰を抱いて死んだ。約束されたものを手に入れなかったが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した(ヘブライ11:13)」。
たとえ「よそ者」であっても、地上に長く住むあいだにはそれなりの根が張り、引き抜かれる時には痛みが伴うのではないか。


「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた(11:16」。
と言われても、根のある地上ではそう都合よく考えられまい。季節外れに雪でも降って頭が冴えたなら、天の故郷にふと懐かしさを感ずるくらいのことはあるでしょう。
「春の雪めざめにちょうどよき狂い」、屈託した日々の裂け目から滲みでてくる郷愁か。


ところで、私たちキリスト者の「天の故郷」とはどんな感じなのでしょうか。I氏の詩のようだったらいいのだがなぁ、と思う。
愛が充満する清らかさは、もちろん嬉しい。それと共に、赤提灯が並ぶ路地のような悲しみも、斑状にあったならば申し分ありません。


天の故郷が春の雪だけだったら、透明度が高すぎて堅苦しい。でも、ひと足に先に往ったI氏が、地上のような悲しみもあったぜ、とその詩で知らせてくれました。Ω


この記事に


イメージ 1


「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。〔光あれ〕。こうして、光があった(創世1:13)」。
 1798年、J.ハイドンの333曲からなるオラトリオ『天地創造』が初演されました。音楽は天才の手による傑作でしょうが、聖書読解は通俗的で、創世記冒頭の「地の混沌」や「深淵の闇」という驚くべきエネルギーには関心が払われていません。
 3月初旬、神話的な物語ではなく、音楽でもなく、「地の混沌」か「深淵の闇」かの創造エネルギーを直截に表すような公演が礼拝堂でおこなわれました。『O’ Nancy in French with OVERHEADS』と題されたこのパフォーマンス、二人の演者が1980年代に試みていた行為の再演なのですが、「創造された私」が覚醒させられる興味深いものでした。
 私たちは日本人であっても、琵琶楽や能楽が用いる自然音よりも西欧クラシック音楽が生み出した音律や楽器に慣れ親しんでいます。ですからロックやジャズは楽しめても催馬楽は聴き通せない、という偏りの内にあります。日本の伝統音楽は雑音やサワリ音を多用しますが、「O’ Nancy in French」の音響はそれを徹底し、統合できる楽音を廃しているかのようです。つまりクラシックやポピュラー音楽とは逆方向に純度を高めているため、狭められた私たちの感性基準を素通りして、「創造された私」に直結する。

 「O’ Nancyin French」の音響装置はメーカーが販売する楽器ではなく、米櫃とドラム缶。そこにコンタクトマイクを接触させて独特の響きを発出させる。その音響と、複数のアナログ「オーバーヘッドプロジェクター」による映像が干渉し合って、何と言えばいいか、身についた「感性という牢獄」が崩されていく心地よさがあります。

 「創造された私」となって思い浮かんだのは、空海の「五大に皆響き有り/十界に言語を具す」という言葉。「五大(地水火風空)」とは森羅万象(西欧では四大元素)、これら各々の響きが共振し合って創造エネルギーを沸騰させる。「五大皆有響」は、創世記冒頭の「地の混沌」や「深淵の闇」と同じ意味合いだと思います。十界云々はここでは省略。
 当時だったらアングダーグラウンドや前衛とレッテル張りされてしまうでしょうが、今やそうした区分はほとんどないようです。昔の怪しい青年はそのまま怪しいオジサンになり、今日の青年たちは怪しいオジサンたちと楽しそうに語り合っていました。八ヶ岳伝道所がこうした響きに満たされたことは、ある種の啓示だったような気がします。
 聖書を読むうえで、時には意味性や歴史性に惑わされずに、世にあまねく生きて存在する創造の響きを直截に感じること。そんな膨らみのある春の夕べでした。Ω

この記事に


イメージ 1


礼拝堂、集会所、物置薪小屋、八ヶ岳伝道所の三つの建物は雪の中。三好達治(19001964)のよく知られた二行詩「雪」が連想されます。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」。激しく移りゆく世の雑音を吸い取って、深夜しんしんと降る雪。山の村には変わらない昔からの暮らしがある。
懐かしく、平穏で、木版画のような場面がしっとり心に染みます。

都市育ちの詩人が、山村暮らしの実際を垣間見、衝撃めいた印象を内面化させます。「雪」はその生々しさを控えめに覆う民話ではないのか。
初期詩集『測量船(1930)』には「雪」と共に「村」と題された二編の詩があり、その一はこう。「鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた(後略)」。
「村」その二にはこうあります。「恐怖に澄んだ、その眼をぱつちりと見ひらいたまま、もう鹿は死んでゐた。無口な、理屈ぽい青年のやうな顔をして、木挽小屋の軒で、夕暮れの糠雨に霑れてゐた(後略)」。

さて罠でとった獲物をどうするか。放り投げた芋一つは、殺生に対する贖罪のつもりなのか。しなやかな野生と荒っぽい山村の人為(麻縄、木挽小屋)との接合に、ひどく胸をしめつけられる。
小屋に縛られた鹿を見てしまった詩人の動揺、ありありと分かります。

礼拝堂は太郎の家、集会所は次郎の家、物置薪小屋はさしずめ三郎の家。これらの屋根に夜更けて雪がしんしんとふりつむ。
朝、この透き通った光景を、静かにゆっくり剥がしてみると、「麻縄で縛られた、澄んだ目の、風雅に坐ってゐる、無口な、そして理屈っぽい青年のやうな顔」のキリストがおられる。そんな想像が巡ります。

「苦役を課せられて、かがこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった(イザヤ53:7)」。
信仰的な解釈は脇に置き、預言者の言葉からただちに浮かぶ感情が、「木挽小屋の軒で、夕暮れの糠雨に霑れてゐた」十字架のキリストとして、私のどこかを直截に響かせます。

キリストの救いとは、「太郎や次郎の屋根に雪ふりつむ」、懐かしく、平穏で、母にいだかれるような安堵感ではありましょう。そしてその底部には、私たちが生きていることの、ひどく胸しめつけられ、動揺させられる、生々しい神の子の犠牲がありました。Ω

この記事に

イメージ 1


昨年末、からっ風吹く寒い日に、八ヶ岳伝道所では大掃除と餅つきをしました。
なかなか思いきれずに実現しなかった餅つきを後押ししてくれたのは、その春のこと、リニア計画でダメになるIさんの田圃がきっかけでした。
「じゃあ教会で餅つきするから、抗議の表明としてモチゴメ植えて下さいな」と、つい口走ってしまいました。

餅つきというと、搗いている威勢のいいところが注目されますが、準備や始末にこそ相当な手間と時間がかかります。私など、おもしろがって搗くか、駄句をひねって遊んでいるがごとくですが、女性たちは搗きたての餅をのし台の上で手際よく丸め、箱に納めていきます。
「餅まるめ納めて凹と凸残し」。力いっぱい搗くことも、せっせと丸めていくことも祈りの身体のような気がして、うぅむ良いなぁ、ぼんやり感慨に耽りました。そして、それぞれの祈りの痕跡が残る、まことにおいしい餅ができました。

パンや葡萄酒がない東南アジアの辺境の教会では、餅とドブロクで聖餐式をするそうです。聖晩餐を日常食でおこなうとは、イエスの作法に倣ってもいて、それなりに正統なことでしょう。
触発されて私も昔、餅と清酒で聖餐式をしたことがありますが、紋付き袴を礼装にするようでわざとらしく、恥ずかしくなってやめてしまいました。

「体は一つ、霊は一つ(エフェソ4:4)、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ(4:5)」。とはいえ、実際にはなんと多様な現れ方をするのでしょうか。
聖霊降臨の折に人々は驚いて言います。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか(使徒2:8)」。
ガリラヤの漁師(2:7)が数多の外国語(2:9~11)を喋ったというより、言語や文化を異にする者たちが、馴染んだ、心の深いところに響く「故郷の言葉」で聞いたのです。
語る者と聞く者の境がない存在の深部において、霊や信仰が「一つ」なのであり、認知しうる表層はむしろ違っている方が自然ではないでしょうか。

「餅まるめ納めて凹と凸残し」。一人ひとりが己の形を為し、しかもそれらが無理なく一つに納まっていること。
私たちが熱と弾力のある搗きたて餅であるなら、キリストの一つなる体に自ずと納まりながら、私という凸凹がそのまま尊ばれることになるでしょう。Ω

この記事に

開く コメント(0)

クリスマスと系図





イメージ 1

クリスマスはもう間近。マタイ福音書の降誕記述はこう書き出されます。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった(マタイ1:18)」。
この降誕記述の前には、養父ヨセフに流れ込む系図が長々と書かれていて(1:1〜17)、ダビデの家筋であることが分かります(1:6)。母マリアの系図はありませんが、洗礼者ヨハネの母エリサベトが親類で(ルカ1:36)、モーセの兄アロン家に属するので(1:5)、いっそう古い祭司の家筋なのでしょう。ところが、系図を延々と記した直後に、あたかもその系を断ち切るかのように「聖霊によって身ごもった」と述べているのは、家柄に拘泥する世の支配者や民衆への一撃なのでしょうか。
ルカ福音書にもイエスの系図があり(ルカ3:23〜38)、こちらは祖先へ遡る形式で記されています。マタイ福音書の系図がメソポタミア由来(創世11:31)のアブラハムから始まるのに対し(マタイ1:2)、ルカ福音書のそれはアブラハムを遥かに超えて、神話的なノアやアダムまで遡ります(ルカ3:36〜38)。両者の系図は共に史実ではありせんが、そもそもクリスマスは「聖霊によって身ごもった」出来事ですから、系図の信憑性は問題外でしょう。
系図は英語で「family  tree」。なるほど、私から父と母へ、四人の祖父と祖母へ、八人の曾祖父と曾祖母へと遡行し続けると、大きな樹冠のような図が描ける。逆に、歴史の流れに沿って祖先から現在の私に至る嫡流と傍流を描いても「family  tree」になります。前者の私の位置はその幹にあたり、後者だと私は枝先に位置づけられます。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である(ヨハネ3:5〜6)」。降誕した神の御子と同じように、私たちにとっても新たに「霊から生まれる」ことが何よりも大事で、「family  tree」はさして意味がありません。
冬ざれた午後、礼拝堂の白壁に映った陰影にハッとさせられ、ちゃんと読んだことのない福音書の「family  tree」を確かめました。彼らの粘着的な系図に比べて、私の祖先はわずかに高祖父までしか辿れず、その先は無明です。しかし20万年前アフリカのアダムまで遡れば、私たちは天の霊においてだけでなく、地の肉としても兄弟姉妹なのだと思い、くすり苦笑してしまいました。Ω

この記事に

全15ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事