日記

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 日本の戦争の諸々を覚え、毎年8月中頃の礼拝で、私たちは日本基督教団のいわゆる「戦責告白」を唱えています。敗戦から22年を経た1967年の復活祭に公にされた戦責告白は、多方面から綿密に論じられており、内容に関して新たに述べることはありません。ただ、これが公にされて半世紀となる今日、その言葉遣いから見る国家観の微妙な差異を検証し、「クニ」のイメージを相対化することは意味があるかな、と考えています。

 言葉遣いの微妙な差異とは、「祖国」。「まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました」とか、「わたくしどもの愛する祖国は〜ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます」といった言い回し。「国」ではなく「祖国」と言うと、どのようなニュアンスが加わるのでしょうか。歴史や数多の事象が刻印された民族の記憶か、寄る辺なき者の望郷のセンチメントか。

 人口に膾炙した寺山修司の短歌、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」。望郷を刺激する虚構の歌なのでしょう。場面を想定すると「ギターを持った渡り鳥=小林旭」と港のチンピラとのひと悶着が思い浮かんだ。「身捨つるほどの祖国」、さらに想像を跳躍させると、故郷を喪失させられた孤独なテロルにまで届きそう。そうなると古びた「祖国」は、むしろ現代を語るにふさわしい新鮮な言葉に思えて来ます。

 イエスが十字架にかけられる時、祭りの恩赦で(マルコ15:6)、「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した(15:15)」。バラバは「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒(15:7)」でしたが民衆に支持されていた。ということは、彼は帝国に支配された「祖国」解放に身を投じた闘士なのかもしれません。

 究極的には、「わたしたちの本国は天にある。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っている(フィリピ3:20)」。仮住まいとはいえ、まだ少し時間に猶予があります。教団戦責告白が示している祖国なのか、「身捨つるほどの祖国」の構えなのか、バラバのような祖国解放運動なのか、どれでもいい。各々が思い描いている近くて遠い「祖国」と、何らかの決着をつけておきたいものです。今、時のある間に。Ω

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うっかりする墓がいい


「石に腰を、墓であったか(山頭火)」。遊行僧の姿で各地を漂泊し、喜捨乞食(こつじき)の日々に数多の自由律俳句を記した種田山頭火(18821940)。よっこらしょ、草に埋もれた路傍の石に腰おろすと何やら文字(もんじ)が、うひゃぁ墓ではないか、という滑稽な哀句。よく知られた「うしろすがたのしぐれていくか」にしても、「分け入つても分け入つても青い山」でも、山頭火の句は柔らかく物悲しい。あれこれ考えずとも、その光景、その心象、その境涯、その悲しみやおかしみなどが、ぽっかり浮かびあがります。


 これから計画する八ヶ岳伝道所の教会墓も、小さな墓石一つにして、ともすれば腰かけられてしまうようなものがいい。自分の遺骨がそこに納められると想像し、誰かがうっかり腰をおろしてくれたらおもしろい。山頭火だって死者に対して「御無礼申し訳ない」というより、尻下の石に生の句読点を感じて、慰められる思いだったでしょうから。


 伝道所の作庭は無計画で夏季に草刈りするくらいですが、梅雨のとある日、十字架の周囲がどことなく墓所に見えました。このあたりに、うっかり腰かけてしまうような墓石を置けたらいいのだがなぁ。死者と生者が共に礼拝する感じにならないでしょうか。

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 「主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない(申命記34:6)」。尾根や谷筋にはいにしえからの道があり、旅人がひと休みする時、そうとは知らずにモーセの墓石に腰かけている。そんなことを思い描くと、郷愁めいたものを感じて胸がしくりとなります。


 モーセは神の仲保者にして傑出した民の指導者。しかし、それを為さしめたのは主なる神なので、顕彰碑のような墓はふさわしくありません。伝道所が構想する墓も、神に従う者たちらしいものにしたい。すなわち、旅人がうっかり「石に腰を、墓であったか」となるような、慎ましく、長閑で、自然に溶け込んだものでしょうか。Ω




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まむしの三兄弟

 田舎住まいも四半世紀、刈り払い機のふり回し方は上達し、山野草をうまくかわしながら草刈りできるようになりました。伝道所の庭や林もそうした慎重な刈り方をするため、時間が余計にかかり、仕上がりは中途半端に見えます。気をつけて残す山野草の代表はテンナンショウ(まむし草)、葉だけの時も間違って刈っちゃうことはありません。
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 守られてテンナンショウ地回りのごとし、「おっ、まむしの兄弟か」。まむしの兄弟と言えば、1970年代東映のシリーズもの。私は新宿の昭和館で何本か観ています。悪にして義なるハチャメチャな兄弟、政(菅原文太)と勝(川地民夫)が暴れまわるやくざ映画ですが、胸のすく場面でのかけ声や、どっと笑って連帯感が生じていたあの暗闇が懐かしい。

 東映のまむしの兄弟は二人ですが、伝道所のそれは三兄弟。聖書世界のまむしの兄弟は誰か、と思い巡らしてすぐさま浮かぶのがヘロデ大王の三息子。大王の死後(マタイ2:19)、三人の息子は彼の地を分割統治します。長男アルケラオは南のユダヤ地方を(マタイ2:22)、次男ヘロデ・アンティパスは北のガリラヤを(マルコ6:14)、三男フィリポはガリラヤ湖東岸をそれぞれに統治しました(ルカ3:1)

 まむしの三兄弟の内、長男のアルケラオはあまりに極悪非道で、ローマ帝国に統治能力なしと見なされて失脚し、代わりに総督ピラトが着任。次男のヘロデは色欲(マルコ6:17)とそれに伴う近隣国との紛争(政略結婚を反故にしたり)で敗北。三男のフィリポは兄たちに比べれば穏健で、荒廃した都市パネアスをフィリポ・カイサリア(マルコ8:27)として再建させる行政手腕もありました。まむしの三兄弟の内、長男と次男は内在する自らの毒によって自滅。三男も同じ毒を持つ、まむしだったでしょうが、自家中毒を起こすには至りませんでした。

 テンナンショウの根には相当の毒があり、その姿と危険性ゆえに「まむし草」と呼ばれています。草刈りしていて、まむしの三兄弟と対面。はっとしてしばし立ち尽くし、東映やくざ、イエスが生きた時代、そして私たち自身のことへと連想していきました。毒は使い誤ると自滅、うまく使えば人間の可能性を拡げます。悪と義は、罪と恵みは、人間において分かちがたいものなのでしょうか。Ω

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神おひとり

新しく作った物置小屋横の薪を眺め、ひと安心。Hさんが伐りたての薪材をごっそり調達して下さり、私は乾ききった放置材からリョウブなどの堅木を選んで割りました。今までの薪はこの冬で無くなりましたが、陽射しが強くなると次の冬の心配は薄らぎます。いかん、いかん、備えをしなければと思い直して薪割り。そしてひとつ発句も。

「薪割る哉寒き憶えのあるうちに」。なんだか蕪村のような趣があって、案外いいじゃないか。ただ見方によっては勤勉を唱える格言のようでもあり、類似の御言葉を探すとしたら箴言か、と聖書をくくっていると、おっ、ありました。

「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食料を集める(箴言6:6〜8)」。

イソップ物語「アリとキリギリス」につながるような箴言ですが、新鮮に響いたのは「首領もなく、指揮官も支配者もない」のに共働が成り立つところ。私たちに即して思い描くならば、八ヶ岳伝道所には当番表の類がないことでしょうか。もちろん、小さいとはいえ、他の教会のような奉仕はあります。でも、指揮官なしにこれを為すことは、思っている以上に意味あることなのかもしれません。将来、奉仕の担い手が増え、当番表が必要になったとしても、この御言葉を受け取りながら計画してほしい。

イエスは金持ちの男に答えました。「なぜわたしを〔善い〕と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない(マルコ10:18)」。箴言の「首領ない、指揮官ない、支配者ない」には、ただ一者、善い「神おひとり」が暗示されています。この「神おひとり」を感じているなら、人間は指揮官なしに、本当の意味で「共に働く」ことができる。

イメージ 1 「薪割る哉寒き憶えのあるうちに」。格言めいていると自嘲気味に書きましたが、こうして御言葉をひと巡りしてみると、自らの発句ながらそうではないことが分かります。「夏の間にパンを備える(箴言6:8)」ことは、労働や奉仕と言うよりも、祈りなのではないか。いやもっと言えば、祈りとは、労働や奉仕をも含んだ「人間の支柱」ではないか、と積まれた薪を眺めて感じました。Ω


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 三月下旬、いろいろな山野草が芽吹き出したところに雪が降りました。素朴で地味な土手のヒメオドリコソウも、寒の戻り雪に演出されて、どことなく晴れがましく群舞しています。「春の雪鄙の踊り子飾りおり」と駄句をひとひねり。印象を味わうだけでなく、拙くとも言葉にしてみると、イエスの御言葉とも響き合います。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった(マタイ6:28)」。

イエスは「野の花を注視せよ」と示し、結論を述べます。「〔何を食べようか〕〔何を飲もうか〕〔何を着ようか〕と言って、思い悩むな(6:31)。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである(6:32)。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である(6:34)」。

 「明日は雪になるのか」、あれこれ思い悩んでしまうと、野の花は花弁を閉じ、時を逸してしまいます。ところが天気の急変で、逡巡する間もなく唐突に雪が降りました。すると、どうだろう。花は枯れるどころか、地味なヒメオドリコソウが「栄華を極めたソロモン以上に着飾る」ことになりました。妙に感傷的なこうした視点は、八ヶ岳伝道所の歩みと重ね見ているせいかもしれません。

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「明日のことまで思い悩むな(6:34)」。明日を思い悩むほど、私たちの今日に備えがあったわけではない。かといって「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる(6:33)」というほど、生真面目に祈り続けた覚えもありません。伝道所の道程は、ぼんやりしている間に春の風()が吹き、その恵みによって野の草花が咲いた、という感じでしょうか。

「春の雪鄙の踊り子飾りおり」。雪が唐突に降りはしましたが、翌朝の寒さは春らしいもので、アクシデントだと思ったことがかえって幸いな結果になりました。「その日の苦労は、その日だけで十分である(6:34)」。私たちは相変わらず明日のことは思い悩みませんが、今日の苦労だけは、父なる神が恵みと共に与え給う創造的な事柄として、誠実に負っていくつもりです。Ω

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