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ちびとら 小学5年当時は不登校ながらも落ち着いた年でした。
前年度に引き続き S先生が担任だったこと 保健の先生が以前の先生とかわり理解を示してくれたこと
ちびとらの学年の保護者達に関しても不信感が募るばかりで思い切って縁を切ったことで
私のメンタルも生活の不安を除けばまあまあ安定してきたところでした
こころが安定してくると同時にちびとらの今後について確たる考えが・・・
不登校の本などを見て不登校の再発の高さ 発達障害への支援の今後などを考えた時に
安易に学校へ行ける子というよりは 学校・社会で問題があった時に対応できる子にしたいと思いました。
これは学校へ行くことよりも大切なスキルを身につけさせる
自立とは自分1人で考えて生きて行くこと 歩行器にのせたまま歩かせるのではないって
同時に学校への復帰は2の次 勉強も心が立ち直りやる気を出せば追いつける そう信じて
調子が良くなると登校をっていってくる学校に対して 生意気ながらこの持論を言わせていただいてました
それからは焦ることもなく ただただ時期を待っていたような気がします
ちびとらにも焦ることはなく 学校にいっても 行けなくても ちびとらの対しての愛情は変わらない事
ただ 学校にいけない間は お母さんは仕事はしなくてはいけないから それは理解してねと
母子分離障害も急には理解できなかったけど 徐々に改善されてきました。
このころに以前 通った区の不登校教室が改善せれたこと 発達障害に関して情緒支援教室なる
ものが出来てと保健の先生やスクールカウンセラーより再度提案がありましたが
校舎・学校などのPTSDは治らず 吐き気や頭痛、恐怖で 違う学校でもそれはだめでした
ちびとら状態
5年生のはじめのころはまだまだ母子分離不安も激しかったのですが 母の精神状態の安定と
ともに軽減してきました。学校にかかわらない事はだいたい落ち着きもでて チワワの龍ちゃんの世話や
自分でインターネットを検索したり 日中はレゴ テレビもクイズ番組や教育番組など気になるものは
沢山見ていたような気がします。
実はこのころはまだ九九ほとんど言えてませんでした(笑)
母の状態
精神面での安定と同時に のちに揺らぐことのない考えが確立しました
これは現在でもあまり変化していません
自立できるように 目標は社会にでるまで スタートが遅い分 確かな土台を作りたい
ただ 学校・会社に行けるのではなく 切り開ける立ち向かえるように
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不登校時代
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ちびとら小学4年生は担任の先生がS先生に、前年度で学年主任の先生で2クラスしかなかったので
知ってはおりました。
しかし今年度は人数の関係で学年1クラスになりました
ちびとら自体は落ち着いた年度だったと思います。
昼間の学校やクラスなどは1度も行かなかったけど
このS先生とはなんとなく 好きだったようで月に1度くらいでしたが夜の小学校のパソコンルームで
交流も持てました。 S先生が ちびとらのレゴ好きを聞いて レゴの発売会などの情報をくれたのも
あるのかも知れません。
ただ この学年の時に 学校や他の保護者にたいして極度の不信感や恐怖を抱いた出来事がありました。
それはちびとらがいないクラスに2人ほど いま思えば発達障害(ADHD)のようなお子さんがいました。
1人は1年生の時に遊び来たこともあるので確かに手が早い・・・
ただ その子が家に来て訳もなくちびとらは殴ったっときにあとで(小学1年生時)その子を膝に抱えて
話を聞きました。泣きながらお父さんが殴るからって僕も手が出るって・・・
確かに2人のお子さんとも幾分家庭に問題はあるようでしたがそれはうちだった同じこと
その2人のお子さんの行動が他のお母さんたちから
あの子たちがいると授業にならないと
その当時本当にクラス崩壊でしたがその2人が目立つだけで問題はその子たちだけではなかったと
あとから発覚しました
集団万引き、集団放火・・・・・10人近くがかかわっていたのにすべてその2人のせいにされました
緊急保護者会なんど行われたでしょう
授業にはつねに数人のお母さんたちが後ろにたって見張っている
その2人の子たちが少しでも騒げば 先生を無視してその子たちの机をとなりの空き教室に運ぶんです
私はその子たちが心配で ちびとらのクラスを何度も見にいきました
空き教室に1人でやられた子と話をしたり、本当に涙がでました
うちの地域が特殊だとあとから 高校の保護者の方とかかわったことでやっと理解できました
また 絶対に ちびとらは こんなクラスには戻さない決意をしました
追い込まれた2人のお母さんたちは 周りからおかしい人とレッテルを貼られて
職場にさえいやがらせの電話が入る異常な状態で・・・集団心理の怖さ・・・
こういう子供への理解のなさにびっくりしました
結局 2人とも別々の学校へ転校していきました。その転校した学校に保育園時代の知り合いの
お母さんがいるので聞きましたが大きな問題は全然ないそうでした
もちろんその後もクラスではずっと問題はいろいろ出て中学ででも
実はそのうちの1人のお子さんがいまちびとらのコンビニで一緒にバイトしています(笑)
高校も都立の上の方の工業高校で
向こうは小学校時代1度もあったことがないちびとらで知らないと思いますが
ちびとらは知っています あのころのことも
ちびとらバイトしているときにつらいことがあった地元でバイトするなんて偉いよねって言葉が
多分 同じような思いをしたちびとらへの勇気の1つになったと思います
いまはバイトで土日シフトが重なると話をけっこうするみたいです
ちびとらの状態
学校への拒絶感はあいかわらずでしたが誰もいない夕方すぎの学校へは4年終わりころには
親が付き添いでは入れるように 最後には先生と教室で1時間ほど過ごせるようにも
カードゲームが好きでそれを口実に外へも出かけられてました
美術の家庭教師の先生と週に1度作品を作ったり それが芸大美術館に展示されたときは嬉しそうでした
比較的落ち着いてはいたと思います
チワワの龍ちゃんの面倒も見れるように
母の状態
学校の事件のせいで少し精神的はママ友恐怖がぶり返してましたが
そこにかかわらない 地元は母の面倒を見なければいけないので引っ越しできない状態でしたが
近所でママ友たちを見ても気にしない訓練を重ねた時期でもありました(笑)
意外に気にしない訓練 目に入れない訓練と私は誰かに話す時に言いますが
訓練の成果は数年かかりますが有効です。ちびとらにも訓練させてました
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ちびとら小学校3年生 また担任が変わりました。今度は若い女の先生でしたが事務的な対処のみで
すぐに産休に入られてまたべつの先生が・・・
ちびとら状態
精神的情緒不安や多少の分離不安はあるものの学校にかかわらなければ安定していました。
このころに無理をして チワワの龍太郎を飼い始めました。ちびとらが4歳くらいまでは先代の
ポメラニアンがいたのですがなくなってしまっていました
龍ちゃんには本当にちびとら癒されたと思います。龍ちゃんのおかげですこしづつ母がいない時間も
だいじょうぶになりました。同時に前記事の家庭教師サイトから東京芸大大学院に留学していた
台湾人の先生を紹介されました。女の先生です。専門は自閉症美術教育です。
小学1年生の時に図工の先生に「おかあさんが書いた絵」いわれて好きな絵を書かなくなってしまった
ちびとらでしたが時間はかかりましたがこの家庭教師の先生とすこしづついろいろ作品を書くようには
なりました。(ちびとら作品展示場の書庫を参考にしてください)
外出もこのころは母と一緒になら出かけることが出来ました。
母の状態
母は強しというかこのころはほとんどなにもなければ鬱状態は回避できるように
ただやはり生活やらいろいろ大変でした。学校へもかかわることを減らしたのも良かったと思います
以前は学校が変わってくれるって理想をいだいていた分悩みも生じましたが変ないいわけですが
遮断するってことも大切なことだと感じました
初のスクールカウンセラー
そのころ小学校に初のスクールカウンセラーさんが
学校側がうるさいので週1ペースで1年近く通いましたが学校の中の1部屋という事もあり
すべてつきそいでした。スクールカウンセラーさんはスクールカウンセラーさんなりにすごく
努力はしてくださったとは思います。ただやはり若い女性でアスペルガーの子供もそう多くはかかわって
無かったと思います。あるときちびとらとのやりとりで
なにかのはずみで「じゃあ帰っていいよ」って言われてしまい
そのままちびとら 学校を飛び出し行方不明に・・・
スクールカウンセラーさんもどうしていいかわからず すぐに追いかけもしない状態で
そのままちびとらが2度とスクールカウンセラーさんにお会いすることはありませんでした。
理解してもらえるよう沢山の発達障害の本も寄付しましたが本当にその当時は何にせよ
発達障害の子供に対しての理解配慮はない時代でした。
(追記 ただのちにちびとらと私がで会った中学のスクールカウンセラーさんがいま小学校にいます
あのときの書籍の数々をいかしていただけてると思い後悔はしていません)
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ちびとら小学校2年当時の状態です。(1部1年時重複)1年の時の担任の先生は年配の女の先生でした。
もちろん発達障害に理解に理解はなく不登校気味で教室に入れないちびとらを空き教室に追いやるなんて事も
2年生に進級したとき1年時の担任の先生は教師の職をおやめになりましたが、1度も家庭訪問もなく配慮もないままでしたがそんな状態でもその時はまだ先生について親の私が理想をもとめていた時期だったかも知れません。
もちろんそんな先生ばかりではないことは中学でであった数々の先生方で理解しています。
ただ当時の小学校については本当に信じられない事ばかりでした。
2年になり担任が新卒の男の先生に変わりました。学校で発達障害のこともすこし学ばれたそうです
ちびとらの状態
1年生の時に体験した数々の出来事により小児鬱、2次障害の発症
校舎および学校に類似した建物への拒絶感(心理的・身体的)眠れない、不安恐怖で
寝言で泣き叫ぶ状態でした。2年に進級するまで3カ月くらいはほとんどつきっきりでいました。
2年になり担任の先生が変わりましたが校舎・学校へのPTSDは変わらず
学校の校門をくぐったとたん顔が真っ青になる状態でとても入れませんでした
ただ新卒の男の先生は学校横の公園で数回リレーをしてくれたり配慮は感じられましたが
学校自体の理解はなく校長先生や保健の先生など何度もお話しましたが、いま思えば問題を表面化
させないための対応だったと思います(後日それをうらずける発言あり転任当時)
母の状態
2年生にあがってすぐに赤羽 発達協会クリニックにてアスペルガーの診断がおりました。
発達障害ではなくお母さんの育てかたって認識の小学校にすくに診断書を提出したところ
こちらへの発言の数々はなりをひそめましたが支援はなにもないままでした。
とにかく自分自身もひどい鬱状態でしたが、ちびとらのためにと区の教育委員会、教育相談所にも
足を運びましたが区の担当は情緒学校へ通いなさいの一点張り
その時点ではもう転校など視野に入れても校舎や学校自体が無理なので行けても母のそばから
数秒も離れることができず離れたら泣き叫ぶ状態でとても仕事や生活もまともにできず
ご飯は買ってくるもの生活環境もかなり荒れていました。
そこで家でもできる仕事として独学でPCを学んだのもこの時期です。
生活保護をといわれる方もいるかもしれませんが、私には無理解な兄と兄嫁がいて住んでいる区の
区役所で働いています。1度だけ福祉課に相談には行きましたが親族の話で区役所勤務のものが
いる場合は到底生活保護などうけれる状態ではありませんでした。
その頃にオークションを知りこれは本当に助かりました
それと当時うちの区には不登校教室なるものがあり、問い合わせをして2か月くらいちびとらを
つれて通いましたがそのころはやはり不登校自体が発達障害とは切り離されたもので
不登校教室=中学生の不良の受け皿でもちろん小学生は1人もいませんでした。
ただ私はそういう子たちにも全然偏見はなく その子たちも寂しいというのがあるみたいで
小学1年生のちびとらはかわいがってくれました。廃校利用でしたがかなり廃校になってから
時間が経っているみたいで校庭が虫の宝庫だったことがちびとらの癒しになりました。
ただやはり母からはなれることができず、不登校教室のほうも初の小学生でタバコをすう中学生と
一緒にはおけない事を安易にいわれここにも居場所はありませんでした。
(追記 現在の不登校教室は小学生も多く受け入れられているそうで少なくともちびとらが
通ったことは無駄ではなかったみたいです)
発達障害児のための家庭教師
またそのころはまだ 勉強についていけないってことも私の頭の中には悩みの1つでありました。
そこでネットで発達障害の子供の家庭教師ってサイトを見つけて
数万円の紹介料をはらい 明治大学2部の学生で将来は発達障害児の先生になりたいって
大学生を紹介していただきました。勉強を教えるって感じではなく でもそれでもちびとらの
心理面でと思いましたが遅刻が多く約束もよく変わる
3カ月ほどお願いしましたが極めつけは就職の内定のときでした
希望していた教員職にはつけず 中堅建設会社に決まってからは余計に対応もルーズになり
こちらからお断りしたところ アスペルガーのこともお話していましたが
ちびとらのアスペルガー的な発言を逆になじるような結果となりました。
これも当時の私は いろんなものにまだ期待や助けを求めていたせいで真実の部分が見えていなかった
と思います。もちろん当時から比べればいろいろな部分で現在は理解もされ支援をもとめられる場所も
ひろがっているとは思います。ただ信用と信頼を同じにとらえないということを学んだ機会でも
ありました。
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最近 地元で9年間不登校をしていたのにって話から 知り合いの紹介で不登校のお子さんのお母さんのお話を聞く機会がありました。多分 私もそうだったのですが一番精神的にもきているときのようだったのでお話を聞くのみにしておきました。こういうブログなら自分の考えを書きとめておけますがやはり同じ不登校でも環境や考え方、お子さんの性格なんかも違うのでかならずって答えはないと思います。だから私もブログの皆さんの考えを読ませていただいて勉強にもなることも沢山ありましたがかならずそのままというよりは自分や子供にそしていまの状況に会っているのかを考えて取り入れていました。
そこで改めて ちびとら小学1年からの不登校の間の私の考えていたことをちょっとまとめて行きたいと思いました。もしそのお母さんやいま現在不登校に悩んでいるかたに少しでも参考になることがあれば幸いです
思い出しながら合間に書いていきたいと思いますのでいま現在までにたどりつくに少し時間がかかるかも知れませんがよろしければお付き合いください
本当に文章能力は低いので上手くまとまるかわかりませんが 自分的にも記録として残しておきたいと思います
☆当時の状況説明 ○ちびとらの状態 □私の状態
☆小学1年生2学期から保健室登校始まる ちびとらのクラスはもともとやんちゃな子や落ち着かないクラス
髪を切られたりなんてこともありました。ただ私の目からみてもちびとら感受性が高いのでもしやと思い
発達協会クリニックを予約(診察は半年後の予定)
その間 学校にその旨伝えたり話したりしましたが「お母さんの気のせい」当時の保健の先生から
いわれたり、ちびとらが書いた当時の絵は図工の先生から「お母さんが書いたもの」といわれ
最寄駅の喫茶店で私が打ち合わせでいるのを知らない先生数人がちびとらの話をしているなんて
本当におかしなモラルの低い小学校でした。
当時の女性の副校長には保健室登校をしている生徒を差別する発言が多く(6年生の女の子に対して)
ちびとらも「こんなとこにいるとだめな子になっちゃう」と怒鳴りつけ私の目の前で保健室からみんなが
並んでいる全校朝礼に「マイク持ちしなさい」って引きずりだしました。これがちびとらの一番最初の
PTSDになりました。それ以降学校に一切いっていません
○発達協会の診断まちでしたが(後にアスペルガー症候群診断)
入学当時から学校に行くことを楽しくしている事は1度もありませんでした。
それでも1学期は頑張って休みなく登校 夏休み明けから登校を渋り始め保健室に送っていく状態
9月の終わりころに上記の事件があってからは学校の建物を見るだけでPTSD状態
校門をくぐることもできず、吐き気、不眠など近所の小児科にて小児鬱と診断ドクターストップ
□母子家庭ながらもハードな仕事をこなしておりましたが
ちびとらの状態を見て、また学校のことを教育委員会や相談機関に相談してもらちがあかず
ちびとらの状態も成徳大学の心理カウンセリングを受けても当時は発達障害に対しての認知も心理の専門
分野の方の熟知も低く 母子家庭だからお母さんの育て方がといわれる状態で
くわえて発達障害の診断も診断できる病院のすくなさから半年待ちの状態で
いろいろな問題が一挙にきて2か月で15kg体重減少 重度のうつ病発症 しかし実家の理解も当時なく
しばらくはちびとらの安全に注意しながらお留守番させ私は数駅先の勤務先にもまともに通勤できず
タクシーの送迎で通勤を1カ月あまり続けました。しかしその後何の保証もありませんでしたが
ちびとらを守れるのは 私しかいないと思い退職しました。
薬も何種類ものみ地獄のような日々でした。親子心中なども何度も考えた日々でした
こういうときはお付き合いのあったママ友から手のひらを返されたり(子供が不登校のため)
重なるものですがこの期間があったからこそいまの耐性があるかと思えば懐かしくも思えます
小学校1年生当時が一番つらくそしてまだ周りの学校や行政に働きかければって期待も抱いていたころ
だったと思います。しかし結局は学校はあった事件を隠そうとするばかり事実を知らない周りの保護者から はモンスターペアレント扱い。そこで私が考えたことが待っていても学校や周りが変わるのを持っていたら
ちびとらはもう卒業してしまうだろうということと理解されないのなら無効な関係を切ること(時間の無駄)
学校に行かないという選択肢をとること、ただしちびとらには学校に行かないということが100パーセント
正しい答えではない事を伝え、外で「学校に行かないと馬鹿になるんだって」って言われたら
それは間違い 学校に行かないと馬鹿になるんではなくて勉強しないから馬鹿になるんだって
それと私のほうが精神的には辛かったけどあえて地元商店街や公園近所には積極的に出ていました
なぜなら不登校が悪いって認識をちびとらに抱かせたくなかったから
行く権利を奪われただけということを知っておいてほしかったからです。
アスペルガーの件も隠すことなくこのころから告知。ただ悪いことよりアスペルガーって偉人や天才が多い んだってってプラス志向を持つように 事件でアスペルガーのことがでたらいろいろ2人ではなしてました
商店街でも買い物ついでに不登校の話を聞かれるから アスペルガーの件も明るく説明しときました
おかげで今も商店街ではちびとらは皆さんに可愛がってもらっています
その商店街のコンビニでバイトも
壮大な計画でしたがアスペルガーとわかり当時療育がすごく高くて退職した私にはどうしても捻出できず
かたっぱしから当時の発達障害関連の本を読みあさり療育は地元でという計画は成功したみたいです。
下町の人たちはうわさすきや口は悪いけど情は厚いと思っています。アスペルガーのちびとらにおいては
一番苦手とするタイプだと思いますがこれが今も功をそうして 団地のおばちゃんたちにも笑顔であいさつ
すごく可愛がられて見守っていただいています。当時はこうなるとは予想できませんでしたがこうしておい
てよかったことの1つです
小学校2年生以降に続きます
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