ぐうたら主婦 コイセバラクサ (ё_ё)キャハ

乳がんになって転移して・・・病気に感謝 (@⌒ο⌒@)

日記’10+’05

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2010年の日記 プラス 病気が分かった2005年の治療の様子
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今日はシミジミ

古いノートが出てきた。
2005年のメモ書き、それによると
准教授H医師の説明によれば
 腫瘍は3cmくらい
 転移なし
 Ⅰ期に近いⅡ期  と思われる・・・と書かれてある。
さらに
    4月26日(火)
      突然H医師に「点滴しましょう」と言われ、少し戸惑う。
      リンパ節に転移があったのか質問をすると、
      7個中2個あったとのこと。
      先日もそうだったけれど、薬を飲みましょう・・・とか
      点滴を今日からしましょうと言われても
      何の説明もないと困ってしまう・・・・と思っていたところ、
      5月2日11時にH医師の予約は入れておくから、
      9:30にB医師に説明を受けるようにとのこと.???????
と書かれてある。
また、5月2日には、
     B医師より病状説明有。
     猪のように一所懸命説明してくださる。
     副作用のことなどを考えると、
     どこか割り切れない思いが残る。
 
そしてまた、このころジャイアンは、学校で友達に殴られていた。
    5月7日(土)
     ジャイアンが、殴られた鼻が気になるというので病院へ。
     耳鼻科ではもうどうにも出来ないらしい。
     ついでに私も 5/2のB医師の病状説明に対する質問がしたいと外来へ。
     B医師はいなくてH医師にきく。
     言葉の端々に大学病院の古い体質が伺える。
     それでも、不信感をもったまま前に進むことは出来ないから、
     今日、H医師に会えてお話が出来て良かったと思う。
 
と書かれてある。
何のことだか、今はもう忘れちゃってる。
ただ、ジャイアンの鼻は、
一度学校から連絡が来たときに通院し、大したことはなかった。
何日かして、「鼻が曲がっている気がする」と本人が言うので良く見てみたら、
確かに、ジャイアンの高い鼻が曲がっていた。
それで再び病院へ。
で、耳鼻科ではもうどうにも出来ない・・・ということになる。
でも、大丈夫!
「曲がってる鼻を、しょっちゅう指で押すように撫でてたら?」
なんてアドバイスしてあげたら、ちゃんと戻りました❤
 
そして、つい何日か前の授業中、同級生の体が不運にもジャイアンの鼻に当たり、
ジャイアンの鼻は再び曲がってしまったのだ。めでたくない。
 
   私の乳がんは<充実腺管癌>という。
         膨張するように塊となって増殖し浸潤
         個々の細胞がバラバラになり易く、血管やリンパ管に
         飛んでいきやすい。勝手気ままな性格
・・・とノートには書かれてある。
まるで私自身のようだ。
 
この後、化学療法は、勉強熱心なB医師のお世話になるのだが、
しばらくすると、他の大学病院へ移動?するH医師に呼ばれることとなる(`´)。
が、また、次回に。
 
 
 
今日は暖かかったので、郵便局まで往復一時間の散歩をした。
歩きながら、
そういえば昔は歩くのが大好きだったことを思い出した。
初台の、4畳半・風呂なしトイレ共同の暮らしを思い出した。
もう25年も昔の話しである。
日当たりの良いあの部屋は、
私にとって、最高のお城だった。
たったの2年間ではあったが、
男女関係なく、沢山の友人が集い、語り明かした。
宝物の時間だった。
シミジミ(-。-)y-゜゜゜
 
今日は1時間歩いただけで、
手の指が少し浮腫み、
足の裏と甲の先の方と、足の指も少し浮腫んだ。
あ〜あ、不便だな(・o・)。
 

湯たんぽ登場+2005

今日は、珍しく足が冷たくて、ついに湯たんぽ登場。
気持ちがよくて、2時間も昼寝をしてしまった。
一説によれば、
免疫細胞は骨髄で作られていて、
立っている時間が長い人ほど免疫細胞の状態が悪く、
骨休めのために横になったり、
お風呂(浮力)でのリラックスも有効だとか。
地球には重力があって、
その重力に耐えながら生き物は生きている。
横になることは、重力から解放されること。
だから、骨休めは大切。
だから、今日の2時間のお昼寝は、とっても大切❤(なんてね)。
 


2005年8月の骨シンチ 結果
                左肩と脊髄のあたりが 黒く出ていた。
                その人の弱いところも黒く出るという。
                確かに、左肩は負担をかけると痛むし、
                寝るときに両足を紐で縛って寝る療法(?)を
                1ヶ月間位やってからは、殆ど痛まなくなったが、
                ひどい腰痛もあった。
                B医師の見解は、転移なし。 
 
    11月29日  無事に抗がん剤の全投与が終わり、 
    12月21日  CT撮影
    12月24日  結果発表 
               開口一番、B医師 
                「ああ、分かった!」
                「夏に骨シンチ、脊髄のあたりが黒く出てたでしょ?
                 これ、一回、折れて曲がったまんまくっついてるわぁ。」
                私   「それって、治りますか?」 
                B医師 治りません」
   
  治らないモノは仕方がない。
  心当たりは?と訊かれ、
  「うーん、小さい頃、天井裏から落ちて尻もちをついた時か、
   階段をお尻からドンドンドンって落ちた時か・・・それとも、
   ・・・・・・田んぼの堰に頭から落ちた時か・・・分かりません
  そういえば、健康診断で背骨をなぞられた時、
  医者に首を傾げられたことがあったが、
  こういうことだったのかと、20年以上経ってガテンがいった。 
  B医師からのささやかなクリスマスプレゼントである。
 
  そして年末、主人の実家へ帰省した。

感じたまま(@_@)

いよいよ尻に火が点いて、
昨日今日と、ちょっぴり仕事モード。
今日は、お昼寝もしました。
 
最近(いつも?)、頭の中がまとまらなくて、
先日は、
「スーザン・オズボーン」と間違えて
「スーザン・ボイル」のCDを購入。
「スーザン・ボイル」の歌声は澄んでいて美しく、
ぐっすり眠れる。
 
今日は、買い物に出たものの、
財布(ポイントカード等入り)を忘れ、
仕事用財布より拝借。
郵便局で実家にノニジュースを送った後、
家に戻り、財布を持って再び買い物へ。
私は、何をしているのだろう(@_@)
 
母は、心筋梗塞、脳梗塞、糖尿病で
薬をいっぱい呑んでいるのだが、
ノニジュースを飲み始めてから、
処方される薬の量が減ったという。
 
それを知った母の従弟、
腎臓移植をする予定が、出来なくなり、
ノニジュースを飲み始めた。
数値が良くなってきたので、
もっと飲みたいから送って欲しい・・・とのこと。
 
歳も歳だけど、いつまでも元気でいて欲しい。
あっ、私には父もいる。
煙草は吸うが、酒は飲まない(飲めない)。
甘いモノを山ほど食べても
全然太らないし、糖尿病にもならない。
もうすぐ喜寿を迎えるが、
髪は、ふさふさで、真黒(地毛)である。
 
 
<副作用>
普段、身体を伸ばすと脇がつる。
車を運転していると、よく足がつる。
慣れてしまって、
足がつったまま運転している。
それから、
抗がん剤や枇杷の種の粉末で、
内臓の働きがとっても鈍くなった時、
足の温冷浴で解決した。
こんなことで・・・と、思ったが、
本当によく効いた。
 
中国人のマッサージの先生に言ったら、
「それは、とても良いよ」
とお墨付きをいただいた。
 


2005年夏のジャイアン
 母(私)に一方的に
 「学校に行かせません」宣言をされたジャイアンは、
 翌日から学校へ行かなかった。
 来る日も来る日も、
 父が買って来た「五輪の書」と
  「宮本武蔵」全巻を読んでいた。
 そして、感じたこと、思ったことを書いては提出した(父と母に)。
 この方法が正しかったかどうかは分からない。
 夕方になると、
 近所の広い公園で運動をした。
 
 夏休みも終わりに近づくと、
 担任のバケラッタ先生がやって来て、
 「もう大丈夫だと思いますよ。
 2学期から学校に出してください。」と言う。
 迷ったが:主人と相談の上、
 登校させた。
 
 登校させて、ビックリ\(◎o◎)/!
 
 学校が落ち着かない。
 3年の2学期だというのに、
 各クラスの中に、授業中だというのに、
 立ち歩く生徒が5〜6人はいるのだ。
 廊下に出て来たり、
 先生との追いかけっこ・・・である。
 あの、いじめられているというKBくんも、
 自ら進んで、授業中に廊下に出たり、
 他のクラスを訪問したりしていた。
 
 一部の有志の母たちが、見守りのため、学校に来ていた。
 それを目にした日から、私も加わった。
 
 先生たちも一生懸命。
 生徒からバカにされていたQ先生、
 おおよそ着そうにないジャージ姿だった。
 学校から抜け出す子どもたちに対応するためだ。
 
 生徒たちは、ちゃんと見ていた。
 一生懸命自分たちを思ってくれる大人たちを。
 
 落ち着かない子たちは、
 ほとんどが素直で淋しん坊。
 お母さんや、お父さんに、
 振り向いて欲しい、
 自分を分かって欲しい子どもたち。
 
 ジャイアン?
 180度 変わってしまった。
 先生達もビックリ!
 「30年近く教師をやっていて、
 こんなに変わってくれたお子さんは初めてです。」
 と言っていただいた。
 しっかり、高校推薦もいただけた。
 
 そして、卒業した子どもたち、
 その後、落ち着いた子もいれば、
 本当は素直で優しいのに、道を外れた子もいる。
 大人の責任である。
 
 今日も、支離滅裂(-_-)zzz
 
 
ラジオをつけたら サザンが流れている
ご機嫌である。
 
昨日は、54回目のパクリ投与。
腫瘍マーカーが結構上がっていたので、
過保護な西洋医学信者のB医師が、
どう話しを切り出してくるのか、
ちょっぴりドキドキしながら、
「刺される(点滴用針)前にね、お土産を」
と言って、松山からの土産を渡した。
 
お礼を言いつつ、
B医師 「それでね、腫瘍マーカーが上がってってね、
      5月の時点と同じくらいなんだけど、
      効き目が薄れているかなあ・・って気がします。」
 私   「そうなんですね、
       じゃあ、12月の値で判断しませんか?」
B医師 「・・・そうだね、今月いっぱい、
       あと2回予約を入れてあるから、
      その後、CTを撮って、
      腫瘍マーカーの値とで考えようか。」  
「はい」 と素直な私。
 
あと、3〜4週間の勝負である。
頼むぞ、ユーグレナ(みどりむし)
頼むぞ、藍プロポリス
頼むぞ、ワタシ
 
帰宅して、遅い昼食を済ませ、
舌が抗がん剤でおかしくなる前に、味噌汁を作る。
 
夕方から、超だるくなり、
7時から11時前位までグッスリ就寝。
 
起きて、何故だか、
主人と、ジャイアンと、私で
2時間ほど話し合いを。
壊れたスクーターの話しに始まり、
ジャイアンの第三者的にみる生活態度、
部活でのジャイアンの負担、
ジャイアンの将来の夢、
戻って、今、何がやりたいのか・・・などなど。
 
自分が1番大事な主人は、
「監督だろうが誰だろうが、関係ない。
要は、自分がどうしたいか、どうなりたいかだ。」
と言い切る。(それも一理ある)
(と同時に、あんたはそれでいいだろうよ・・と思う)
 
部活のことでいえば、
ジャイアンは、後援会のことをメインに、
マネージャーのフォローもしていて、
さらに、監督から声をかけられると常にYES。
練習やトレーニング時もお構いなし。
身体は故障気味で、記録が思うようにでない・・・などなど。
 
私の言い分は、
先ず、殆どのことは本人任せにしてあるが、
スクーターにしろ、身の回りのことにしろ、
もっと大切に扱って欲しい。
使えればいいという感覚は、
モノを大切に使ってた人に許される言葉であって、
粗末に使っていた人には、自業自得である。
それから、清潔と、安全をもっと意識すること。
家族の中にいるのだから、
自分の役割の意識をして欲しい。
(母不在中、洗濯はチビタがきちんとしてくれた)
そして、今は、学生生活の中で、
辛いことや、迷いやがあるとは思うが、
とってもいい訓練をさせてもらっているのだ、ということ。
私がマネージャーとなったら、いいマネージャーなのにね・・
と付け加えながら、
「頑張っているのは、
お父さんもお母さんも分かっているから
いい訓練だと思って、
迷い、悩み、考え、行動しなさい」
「はい」
体はジャンボだが、
素直で優しい、ジャイアンである。
 


2005年5月31日 手術後 初めての抗がん剤   CEF → 3週おきに4回
      6月21日 CEF  2回目           赤くて、おそらく数ある抗がん剤の中でも
      7月12日 CEF  3回目           かなりキツイ。処方される吐き気止めは、
      8月 2日 CEF  4回目          もらって即呑んだ方が、私は楽でした。               
      8月 9日 骨シンチ    夏休み 1人で留守番するチビタに、
                      「9時に薬を入れたらすぐに戻って来るからね」
                      と言い残し病院へ。
                      微量の核物質を注入した後、
                      時間をおいて、13時からの撮影である。ところが、
                      骨シンチの薬剤を注入する際、大きなクジラのような担当者は、
                      2回も失敗した。
                      そして、3回目、親切ぼかしに、
                      「痛くないですか、大丈夫ですか」と声を掛けてくれる。
                      イヤでも針が刺さっているところに意識が集中するじゃないか
                      朝、起きた時からすでに気持ちが悪く、                                             骨シンチを見合わせたいほどだったが、
                      寝て撮るだけだからというB医師の言葉に
                      まんまと乗せられて来たのに・・・。
                      完全に意識が飛び、冷汗が出て、暗闇に吸い込まれていった。
                      気がついて、少し休ませてもらったが、家に帰るどころではない。
                      看護士さんに頼み、家に電話してもらったが、
                      小2のチビタはエライもので、知らない番号は受話器を取らない。
                      私は、ストレッチャーに乗せられ、B医師の待つ外来病棟へ運ばれた。
                      「せっかく来て、あとは、寝そべって撮るだけだから撮って行こうよ。」
                      (確かに)と思い、主人かお兄ちゃんが早く帰宅することを祈った。
                      骨シンチ、これさえ終われば帰れる。
                      ところが、撮影が終わる頃には、ますます気持ちが悪く、
                      再び、今度は車椅子でB医師のもとへ。
                      移動中、気持ち悪さに耐えられなくなり、お手洗いで吐いてしまう。                             B医師は「吐いたら少し楽になったでしょう」
                      そういえばそうだ、吐いたら、少し楽になっていた。
                      でも、とても帰れる状態ではなく、
                      治療用に使う隣りの科のベッドで暫く休ませてもらった。
                      なんとか車を運転して帰宅をしたのは、うす暗くなってから。
                      主人が帰宅していたのでホッとしたが、それも4時頃だったそうで、
                      開口一番「やっと帰って来たの、オヤジかよ
                      かわいいかわいいチビタのお口から、そんな言葉がでるなんて
                                            あとで思ったのだが、あの日は、
                                            朝から軽い熱中症か脱水症状を起こしていたのではないだろうか。
                                            だとしたら、せっかく病院にいったのだから、
                                            点滴くらいしてくれても良かったのに・・・。
                                            乳腺じゃ駄目なのかなあ ?
 
2005年  8月23日 タキサン(タキソテール) 2週おき  
      11月29日 タキサン(タキソテール) 8回目 遅延なく無事終了
                      爪が黒く変色したので、普段は使わないマニキュアを4本購入
                      ベージュをベースに 濃い色を重ね 普通の色を重ねる
                      余力があれば、ラメ入りで仕上げる。
                      2色では 爪の色を隠せなかった。      
 
 
2005年   ジャイアン 中3の大事な時期
        不安定だったジャイアンは、たびたび問題を起こし、
        その度に、私も学校に呼ばれ、頭を下げた。
        やったり、やられたり、
        鼻を殴られて曲がったことがあった。
        今度は、その相手(プラス数名)と組んで、大騒ぎを起こした。
        訳の分からない世界である。
        私は、そういう年頃の子ども同士のことなので
        親が出すぎないように注意を払っていたが、
        ある時、ある父親が大騒ぎをしてくれた。
        何人かの生徒にイジメを受けているというのだ。
        数名が親子で学校に呼ばれ、順番にKB親子と対面した。
        私は抗がん剤の影響もあってフラフラだったが、そんなことは、言っていられない。
        けれど、KB父の怒りは収まるところを知らず、なかなか呼ばれない。
        やっと呼ばれ、ジャイアンと主人と3人、応接室に入った。
        少しやりとりしているうちに、これでは収まらないと腹を括る。
        学校の対応が、完全にマズイ。
        ジャイアンには、KBくんにキチンと謝らせ、
        「こんな何度も問題を起こして、人様の大事なお子さんを傷つけてしまうような子どもを、
        私は親として、安心して学行にかせる訳にはいきません。明日から、この子を休ませます。」
        と宣言していた。
        学校側は焦って、とめようとしたが、
        この頃のジャイアンの荒みはとても気になるところで、
        今、正さないと、一生ものだ・・・と感じていた。
        夏休み前、終業式まで9日。賭けである。

義父を思い出して

今日もいい天気
午前中、ドラッグストアのクリエイトで
バナジュウム入りの水を2箱購入。
店員さんが、車まで運んでくれ、積んでくれるので助かる
 
今日は変な夢をみました。
一軒の小さな建物があって、その中に入ったら、
鉄道模型がグルグル走っていて、
おまけに、歌声喫茶のようになっている。
そして、みんなで一緒に
「汽車汽車しゅっぽしゅっぽ・しゅっぽしゅっぽ・しゅっぽっぽー・・・・
と歌うのだ。
気持ち良かったあ。
 

 
2005年5月〜
 
義父ががんだと知ってから2ヶ月ほどして、やっと帰省した。
夏休み、正月、春休みには子どもたちのスケジュールの合間をぬって帰省していたが、
この年は、私が入院してしまい、春休みには帰れなかった。
義父は元気にしていた。
 
私には後悔していることがある。
しかも、取り返しのつかないことである。
 
義父は、10年以上前に定年退職し、
義母と2人で小さな畑を作り始めた。
慣れない手つきを見かねた元部下や近所の人たちが、
親切に手ほどきをしてくれたという。
完全無農薬で、作物は小さかったが、とても美味しかった。
 
母が亡くなり、
私は主人に、「実家に帰ってもいいよ」と提案したが、
その時、私達と同じアパートの2階に住み、主人の仕事を手伝ってくれていた主人の弟が、
「自分は一人だし、兄貴は仕事もあるから、俺が帰る」
と言って、帰ってくれた。①
 
義父は年よりも若く見え、主人や義弟と兄弟に間違われたりした。
(子どもたちが老けていたのかなあ)
病気だと分かる1年半位前、私は、「あれっ」と思った。
義父のおでこが、少しくすんで見えたのだ。
そして、会うたびに、肌のつやがなくなっていたり、
黒々としていた髪の毛に白髪が混ざり始めたりしていた。
古希をとうに過ぎていたので、当たり前と考えるのが普通かもしれないが、
私には、そうは思えなかった。
 
なぜ、あの時、もっと異変を疑わなかったのだろう。②
 
義父は、病気が分かり、飲むタイプの抗がん剤を服用していた。
 
当時の私は、自分の治療と、家庭やジャイアンのことで家を離れられなかった。
2度ほど義父が入院をした際に、
私は、病室の状態や看護婦さんのおっしゃることを聞き、
その病院に不信感を抱いた。
だから幾度か主人に、
「私達のところに来て、こっちの病院でもう一度検査して、
どんな治療があるのか、考えてくれないかなあ」と提案した。
けれども義父は、家を離れたがらなかった。
そう、義母が生きている頃は、
年に1度は、私達のところへ来てくれていたのが、
義母が亡くなってからは家を離れようとはしなくなっていた。
もっと、義父を説得する方法はなかったのか。③
 
義父は気丈な人で、ご飯の支度や洗濯、掃除など、変わらずにこなしていた。
これは家族しか知らないことだが、
義母が生きている頃から
家の中が整然と保たれていたのは、義父のおかげであった。
対外的な義父のイメージからは、親戚の人ですら想像もできなかったと思う。
2006年の初夏に台所でボヤ騒ぎを起こしたころから、
身体の自由もかなりなくなってはいたが、
それでも、排泄など、一人で頑張っていた。
 
ヘルパーさんや、お手伝いさんなど、
他人が家の中に入ることは好まなかったし、
普段から、食べるものも、私が作ったものは喜んで食べてくれたが、
よそ様の作ったものは、あまり口にしたがらなかった。
私達も、時間をみつけては、会いに行ってはいたが、
本当に、本当に何にもしてあげられなかった。④
 
義父が亡くなる少し前、夏休みに3度ほど帰った。
 
義母のときは、ある日突然・・だった。
もう、お見事、というか、
残された者たちは何を考える余裕もなかった。
 
義父は、私達に覚悟する時間を十分にくれた。
 
あまり食べ物を口に出来なくなっていた義父の肌は、
光に透けて、光と同化するようなイメージを受けた。
 
夏休みの3度目は、
本当は、草津へ家族旅行をする予定だった。
お盆に帰省した時、
もう長くはない気がして、
私は主人に、草津は止めて、帰省したい・・と言った。
主人は、草津に行こう・・・と言う。
「このバカ息子っ!
あんた、草津行ったら、今、親の顔、見に行かなかったら、
一生後悔するからねっ」
私は、もしかしたら、頭ごなしに怒鳴り倒していたかも。
(本当に頼りにならないヤツ・・とここでも思ってしまった)
 
そして、急遽、帰省した。
夜、それも、いきなり雨風、雷がひどくなり、
車での山越えが怖いほどであった。
義父は、お盆が最期・・・と思っていたみたいで本当に嬉しそうだった。
 
それから2週間程して、
いよいよ一人では立ち上がれなくなり、入院をすることになった。
日中は義弟も仕事があるし、仕方のないことだ。
 
入院した翌日、義父は亡くなった。
余命3ヶ月と診断されてから1年半が経っていた。
 
義父に言われた言葉が、今も耳に残っている。
 
私も抗がん剤治療をしていて看病できなくて申し訳なかったときに、
「お前はまだ若いんだから、ちゃんと治しなさい」
(ごめんなさい、転移しちゃいました)
それから
「医者は、余命半年だとか何んとか勝手に言ってるけど、
神様じゃあるまいし。
医者に俺の命を決められてたまるか」
(人の命って本人次第・・・そんな気がする)
義父らしい。
 
私達が、もっと違った対処をしていたら、
義父は今も元気でいてくれただろうか。
 
ああ、今日は、久しぶりに義父を思い出した。
 
 

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