「おばあちゃんの鐘馗(しょうき)さま」

安倍改憲ノー。戦争法と共謀罪廃止、野党は共闘。

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2018年8月16日(木)

きょうの潮流

 ♪あの日 お日さまが割れて 青空が消えて 残った影―。広島・府中小学校の子どもたちが被爆者から話を聞いて作詞した「あの夏を忘れない」です

▼曲をつくったのはロック歌手の吉川晃司さん。自身も被爆2世で原爆の話を聞かされて育ちました。8年前に完成したこの歌を、原爆とともに3・11後の原発とどう向き合うかを考えるきっかけになればと歌い継いできました

▼いまネットでその吉川さんが話題になっています。西日本豪雨の被災地を回り、黙々とボランティア活動に励んでいる姿が。本人からは何も発信していませんが、いくつもの目撃情報が称賛とあわせてツイートされています

▼タレントのローラさんがユニセフの行事に参加し、多額の寄付をしたことも注目されています。彼女は「リスクがあっても嘘(うそ)のない、人にとっても地球にとっても幸せが続くことに精一杯力を注いで頑張っていきたい」とのメッセージを寄せて

▼社会的な発言や取り組みには勇気がいる芸能界。沖縄の翁長知事が亡くなったときの安室奈美恵さんのコメントも強い印象を。「沖縄の事を考え、沖縄の為(ため)に尽くしてこられた翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております」

▼核や原発への政府の姿勢も批判する吉川さん。「ぼくたちなりの今だせる言葉や行動が平和につながるのでは」と。「あの夏―」は呼びかけます。幸せってなんだろう その答えは この手から きっと はじまる。


しんぶん赤旗

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-08-16/2018081601_06_0.html

筆洗

2018年8月16日

 民俗学者、柳田国男の『山の人生』の中にかつての迷子捜しの様子が描かれている。捜索方法のポイントは声や音だったようである

▼江戸では、子どもがいなくなれば、町内の人間が「迷子の迷子の○○やーい」と夜通し、大声で呼びながら歩いた。落語や歌舞伎でおなじみだろう。上方では「かやせ、もどせ」。鉦(かね)や太鼓をたたいて歩く地方もあったという

▼呼び声や音で迷子に捜していることを伝えるという意味もあっただろうが、別の狙いもあった。子どもをさらったと考えられていた天狗(てんぐ)や狐狸(こり)妖怪のたぐいを人間の声や音で脅すことで、子どもを解放させようとしていたらしい

▼その子どもの名を呼ぶボランティア男性の声に応えてくれた「ぼく、ここ!」の幼き声に日本中がホッとしているだろう。山口県周防大島町で行方不明になっていた、藤本理稀(よしき)ちゃんがきのうの朝、三日ぶりに発見され、無事保護された。本当に良かった

▼家族が顔を合わせる、お盆のこの時期でもある。男の子の行方不明が自分の家で起きた出来事のように感じられ、心配していた人もいるのではないか。「よっちゃん、返事して。早く出てきて」。防災無線で呼びかけた、おかあさんの声に胸を痛めた人もいるだろう

▼それにしても三日間、よく無事でいてくれた。さては天狗め、おかあさんのあの声を耳にして、悪さをあきらめてくれたか。

東京新聞

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018081602000141.html

終戦を見届け、22歳中尉は自決 中2で目撃、瀬戸の87歳
2018/8/15 朝刊
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雨宮文彦中尉の自決の状況を語る梶田義暢さん=名古屋市守山区で(中尾吟撮影)
 終戦から七十三年となる十五日、東京都千代田区の日本武道館で、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれる。来年四月三十日の退位を控える天皇陛下は最後の参列となる。安倍晋三首相や約五千人の戦没者遺族も列席し、先の大戦で犠牲となった約三百十万人を悼む。戦前、戦中世代の高齢化が進んでおり、継承や平和の在り方が問われる中での平成最後の追悼式となる。
 太平洋戦争が終結した七十三年前の八月十五日、愛知県瀬戸市の山中で自決した青年将校がいる。同市の感応(かんのう)寺を拠点に、陸軍の新兵を教練する部隊の隊長を務めた雨宮文彦中尉=甲府市出身、当時(22)=。「徳がある」として慕われた若き中尉の死に、自決現場を目撃した同寺の前住職・梶田義暢(よしのぶ)さん(87)は終戦の日が来るたびに思う。「生きていたら戦後大きな仕事をしただろう。当時の社会が死を選ばせたことが悔しい」
 梶田さんと雨宮中尉との出会いは一九四五(昭和二十)年六月。陸軍の申し出により感応寺が徴兵された新兵の練兵所となった時だった。本堂は百二十人ほどの新兵らの宿舎となり、境内で教練が繰り広げられた。
 当時中学二年生で、先代住職の父を手伝っていた梶田さんが衝撃を受けたのが軍隊の鉄拳制裁だ。新兵らを指導していた上等兵らが「訓練がたるんでいる」「食料を盗み食いした」などの理由でことあるごとに新兵を殴り倒していた。その異常なしごきに「人間扱いされていない」と感じた。
 そんな中でも、雨宮中尉が部下に手を出すことはなかった。注意する声はよく響き、部隊は緊張感をもって動いた。馬に乗り寺周辺の集落を巡視するのが日課で、村人たちにも笑顔であいさつするため、美男子の隊長として評判になった。
 迎えた八月十五日。「正午に重大放送がある」との連絡を受け、雨宮中尉は本堂で梶田さんらとともに玉音放送を聞いた。敗戦を告げる昭和天皇の言葉を聞く中尉は、噴き出る汗をぬぐいもせず、拳を握り、微動だにしなかった。放送が終わると、中尉は新兵らにその内容を報告。新兵らは抱き合い、むせび泣いた。
 その日の夕方。「隊長の姿が見えない」と騒ぎになった。梶田さんらも加わり全隊挙げて寺周辺を捜したが、どこにも見当たらない。十七日の朝、ある兵士が寺から三百メートルほど離れた山中で遺体を見つけた。
 駆け付けた梶田さんが見た中尉の遺体は、頭を皇居がある東側に向け倒れていた。軍刀で頸(けい)動脈を切ったとみられ、赤インクで「東方を拝し今自決す」と書かれた紙が置かれていた。腕時計は、行方が分からなくなった午後三時すぎで止まっており、十五日に自決したことが推察された。
 自決現場は地元の人も立ち入らない雑木林の中だったが、東に山が見え、大きな玉石や立派な枝ぶりの松もあった。梶田さんには、雨宮中尉が敗戦時に自決することを前もって決めており、死に場所を探してあったように思えた。
 梶田さんは雨宮中尉の死を「八十年以上の人生で最もショックな出来事」として鮮明に覚えている。死後、大尉に昇進した雨宮中尉を慕い、戦後十数年は毎年八月十五日になると元隊員らが集い、法要を続けた。
 七十三回目の終戦記念日を迎え、梶田さんは思う。「戦争しか考えられない時代に育ち、国に忠節を尽くそうと自決を選んだかもしれないが、若者がそのように命を失う時代は二度と来てはならない」
 (中尾吟)                        
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転載元転載元: 猫と薔薇、演劇、旅ファン

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