癒しの世界へようこそ/Cool Wallpaper World

癒し系の壁紙を作っています。デスクトップに是非どうぞ!そろそろ、新作品を。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1
 
「責任 ラバウルの将軍今村均」を読んで
 
今年の夏、7月30日にNHKで「日本のいちばん長い夏」が放映された。
これは、昭和38年(1963年)6月20日、東京の料亭「なだ万」に、日本を代表する知識人や政治家、
官僚を含む28名の人々が集められた。
当時、半藤一利さんが編集者として昭和38年に『文藝春秋』で行った座談会(文春新書)を文士劇
として再現した「日本のいちばん長い夏」と題されたものである。
政治家、官僚、作家など28人が集まって行われた座談会は、ポツダム宣言受諾の背景、原爆投下、
ソ連参戦などをリアルに明らかにしていく様を記録したものの再現を、現在の著名人達が演技して
放映された。
イメージ 2その中の一人、陸軍大将であった今村均も参加され、番組の
最後にこの方が終戦からの事を紹介された。
それは、とても興味を引くものだった。
 
早速書店で文庫本を見つけ、読みふけった訳です。
 
まず、このノンフィクション作者 角田房子女史に感謝したい。読みやすく判りやすいストーリーが流れていき、良くまとまっていると思う。
そして、時代背景や今村均本人の日記・書籍を実に解読説明されていているしイメージしやすかった。(角田さんは今年1月にお亡くなりなったそうです。謹んでお悔やみ申し上げます。95歳でした)
 
 
さて本題に入ります。
この本の始まりは、終戦後今村均がニューブリテン島で戦犯者収容所にて自害するところから始まります。青酸カリを持っていて、その毒薬は数年前に勤務していた中国で手に入れものでした。

きっと、古いため成分も緩和され効き目も薄かったのでしょう。一命を取り留めました。
 
今村均は宮城県仙台市出身。(1886年6月28日 - 1968年10月4日)
幼い頃から夜尿症で悩まされ、頻繁にトイレに行く事で昼間は眠気が何度も襲います。
学生生活では、その眠気を修めるため唐辛子をポケットに入れ眠気防止で口に含んでいたそうです。
父の職業は判事。裕福だったようです。しかし、その父が病気で倒れ亡き人となりました。
ちょうど進路を決めていく時期で、母親に軍士官学校を勧められましたが悩みます。
結局、陸軍士官大学に入学。大学ではトップで卒業します。
大学からはその成果を称え、昔のどこかの殿様が持っていた刀剣を授かります。
大卒後、陸軍省に勤務。その経歴は、ウィキペディアを参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E5%9D%87
かなり色々な場所に配属され、転々としているようですがその成績は優秀だったようです。
性格は温厚で高潔な人柄と、占領地での軍政・指導能力は高く、戦後は総じて評価が低い傾向にある
昭和期の日本軍高級軍人達の中では、数少ない名将という評価を受けています。

また、明治生まれであり明治天皇が崩御され前に乃木将軍とも会っているようで、崇拝していたようです。
乃木将軍は明治天皇が崩御されたと同時に、ご夫妻で自殺しました。
東京赤坂にその家が残されているようです。
その事件を伝えられた時は、今村均も男泣きだったようです。
 
大東亜戦争開戦後、第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。
帝国陸軍の最精鋭空挺部隊である挺進連隊や、一式戦闘機「隼」装備の飛行第64戦隊・飛行第
59戦隊の活躍により、太平洋戦争における日本の最重要戦略目標であるパレンバンの油田地帯を制圧
(パレンバン空挺作戦)。
また、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、わずか9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千の
イギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を無条件降伏させたのであります。
 
ガダルカナル島では日本は大惨事でした。
記憶に寄れば(書籍で知って)、確か北海道の旭川から歩兵部隊として第一次部隊としてガ島に向かいます。
戦員1000人に対し、相手国アメリカは20000人そして最新武器を持って戦いあいます。
日本と言えば銃剣がほとんどで昔ながらの「つっこめ〜!えいやー!」と言った具合ですから、一晩で全滅です。
日本は今までほぼ対中国や対ソ連戦では、陸での戦いは無敗でした。
アメリカはそれまで陸での戦いは無かったということで、日本は甘く見ます。陸戦なら負けないという根拠無き
考えで向かうのでした。
そして、二次三次と戦員を送り込むみますが同じ事の繰り返し。
惨敗でした!海岸にはおびただしい数の戦員達の遺体がありました。(YouTubeでも見られます)
そして流された血は、海水がきれいにしたようでした。
 
もう一つ、ガダルカナル島では戦いで亡くなったのもそうですが、餓死・病気(マラリアやチフス)
等でも一命を落としたのが多かったそうです。
日本から送られる食料は、途中で対戦国に撃沈されます。届かぬ食料・医療これでは体力もなにも
あったものではありません。それでも日本兵は、精神・気力で戦います。
どんな思いでの戦いだったのか、頑張っても先が見えています。
今村均は当時ラバウルから以前の後輩・部下の応援・激励にガ島に来ました。そのやせ細った体、
医療室で見る元部下達に愕然とします。見舞いに来た今村に部下達が気づき、敬礼をしようと立とう
とするのですが立てないのです。この本では、その時の部下も日本に帰れてインタビューをした
文が記載されていますが「私は35kg位しかありませんでした」と。
今村は、気を使い「よいよい。そのまま!そのまま!」「何もおまえ達が悪くてこんな事になった
のでは無い。本部上層部が対策を建てもせず、こんな結果になったのだ。」
そうすると部下達から、すすり泣く声・嗚咽が始まり今村もそこに居られなくなり外に出ました。
外では男泣きだったそうです。
こんな文を打っていながら、泣けてきてどうしようもありません!………
 
今村はラバウルに戻り、部隊一丸となって自活をします。食料は生きる事・戦う事。
未開のジャングルを切り開き、田畑を作り、食料には不自由しなくなりましたし、とても先見の目が
ありました。そして南の島の椰子の実を、実に上手に利用しました。
甘味を利用し、お菓子を作ったようです。部隊それぞれが味を競いあい、大会もあったそうです。
面白いのは、お菓子の名前は隊長だったり隊員の名前だったりしたそうです。
椰子の実の葉は、乾燥させて縄状にしたり、火をつけるのが簡単ではなかったようで火縄にして
土に潜らせ翌日また使ったようです。知恵というのは人間を進化させますね!
また今村は、防空壕ならぬ洞窟を山の中に掘りました。これによって、人・武器は隠せますし雨風にも
耐える事ができたようです。その距離はm単位ではなく、kmです。凄いとしか言いようがありません。
当時のマッカーサーは、ラバウルでは日本軍のそのような防衛作を知り、わざわざ上陸せずに次の
場所を探そうと言う事になったそうです。結局、アメリカ軍はラバウルには上陸しませんでした。
それでも、空撃には来たようです。
 
そして終戦です。隊員達は、終戦と知ると「日本が勝ったんだ」と疑いもしませんでした。
しかし、アメリカ軍の飛行機が来飛し、ビラをまき・飛行機のボディには「日本、無条件降伏」と
ペイントされていたようです。知るや否や、嘘を言っていると思いながらも正式に通知が来るまで
敗戦などと疑いませんでした。知ると全員大泣きだったようです。
今村はその時には、大将になっていました。すぐに今後の事を考えました。
戦員はほとんどが尋常小学校あがりであり教育がなされていません。日本に帰っても苦労するのは
目に見えています。よって、戦員の中には教師をしていた者もあり、教科書を作り勉強させました。
この辺は、今村均の凄いところ!知恵があり実行力があり、書籍だけで知恵を得た者と違います。
きっと日本軍の上層部等現場を知らない者が表面上指揮をしていたものと思われます。
今村均は、知恵・実行力・先見の目がそろっておりました。どの人におかれましても、今村の事を
悪く言う人はいませんでした。優しさ・人を思う心がありました。
現地人、台湾・韓国からも戦員として来ていた者達も尊敬の念をおかれていたようです。
かの漫画家水木しげるも今村に対して、暖かい人と言っていたそうです。
 
それから、日本敗戦となったとてすぐに日本に帰国できるでもなく指示を待ちます。
そうです、裁判が始まるのです!
第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、
現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定しました。その後の第16軍司令官時代の責任を
問うためのオランダ軍による裁判では、無罪。
今村は、とにかくみんなを死刑にならないようどんな理由でも良いから、弁護してきました。
たとえば、「この者の顔や見て下さい!女性のような風貌で現地の人に危害を加えると思いますか?」
などと言ったそうです。危害を加えたというより、食べ物を粗末に扱ったりものを大事にしなかった
ことにより、びんたを加えたようなのですが…。
そのように者にも中には銃殺・首つり等分けられ処刑されました。
 
1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に送られたが今村は「(未だに環境の悪い南方
で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、
1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望
した。巣鴨プリズンは、A級・BC級犯罪で訴えられ、東条英機なんかもいましたね!
この場所はご存じでしょうか?今は池袋サンシャインが建っているところです。
そして妻を通してマッカーサーに直訴したといわれている。
その態度にGHQ司令官のマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。
私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。
 
刑期を終え日本に帰ってきた今村は、責任を持って罪を償いました。
東京の自宅の一隅に建てた小屋(謹慎室)に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの
質素な生活を続ける傍ら「回顧録」を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に
用いられました。
元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せ
ざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれます。
その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されている
と知っていながらも敢えて拒みはしなかったといいます。
これが82歳でこの世を去った今村均の生涯でした。
 
戦争とは儚く悲しいものですが、日本を守るんだという根底において死も辞さない者が大半でした。
それは日本の将来のため、今我々が生きているこの時代を守るためと言う事なのです。
「靖国で会おう」という合い言葉に、本当に涙します。
先週靖国神社に行ってきました。沢山の英霊達の写真がありました。何とも言えない気持ちになりました。
 
 
 

そんな気持ちを歌に託したのだと思います。
♪海ゆかば水(み)漬(づ)く屍(かばね)
   山ゆかば草むす屍
   大君の辺(へ)にこそ死なめ
   かへりみはせじ
 
※私はこう解釈しました
海で息絶えることになっても 山で息絶えることになっても
人のため我が国のためになるのだったら
死んでも決して悔やまない
 
最後になりますが、この上の画像コスモス1本1本を英霊の方達に捧げたいと思います。
コスモスは色鮮やかでありながら、雨風に耐え凛として1本1本咲き誇っています。(合掌)
 

全1ページ

[1]


.

ブログバナー

doobie
doobie
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(18)
  • taigunaredo
  • ツカピョン
  • soe*917
  • pocke3ema
  • JUN
  • きてれつ!
友だち一覧
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

〜Art〜

〜scenely〜

〜music〜

標準グループ

過去の記事一覧

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事