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石光真清の手記第3巻「望郷の歌」に、市川紀元二少尉の戦死の経緯と後日談がある。
日露戦争における将兵、弾薬等の損耗が激しく、その補充として石光所属の軍団に送り込まれた召集兵部隊の指揮官が東京帝大を出て間もない工学士市川紀元二だった。全く戦闘経験の無い、訓練も碌に受けていない集団だったらしい。
彼らは、前線の軍団に合流すべく移動してきたのだが、混乱した戦場で司令部との連絡が途絶え、悪かった視界が開けた途端、そこがロシア軍陣地の真正面、至近距離にあると判り、日露双方驚愕したという。
逃げも隠れも出来ない状況で、市川少尉は軍刀を抜き放ち敵陣への突撃を叫び、切り込み、部下の兵士たちも続いた。
突然の白兵戦が始まったのだが、作戦に無かった市川部隊の突撃で、それまで苦戦していた日本軍に運が付き始め、重要な拠点を確保できた。
犠牲的軍人精神で自発的に身を投げ出し、勝利に貢献した軍神の物語は読んだことがあるが、このような突発的な軍功もあったのだ。
戦死した市川少尉は中尉に昇進した。その功績を讃えて、国内に記念像が建てられたというのだが、その場所が帝大構内だと石光は書いている。これは初耳だ。大学構内に今時軍人顕彰の銅像など在る筈が無いから、戦後に始末されただろうと思い、念のため検索したところ、意外な展開となった。
この件について簡潔にまとめたサイト(« 日露戦争の英雄 市川紀元二中尉の銅像について(その2) 2011.08.09 )から引用する:
“静岡新聞昭和33年9月1日の朝刊に市川紀元二中尉の銅像除幕式の記事が載っていました。 日露戦争当時首山堡の激戦に武勲をたて首山堡戦の華とたたえられた本県出身の故市川紀元二中尉の銅像除幕式が31日午後静岡市柚木護国記念館前で行われた。 この除幕式には、実弟工学士青山士氏、故市川紀元二中尉の親友工学博士 渋沢元治氏を始め、東京大学総長代理 尾佐竹徇(おさたけ となう)氏ら約千名が参列し、自衛隊富士学校音楽隊の演奏などで盛大に行われた。 この銅像は50年前、山川総長の主唱で当時の巨匠新海竹太郎氏が心魂を傾けて製作した高さ2m50に及ぶ名作で、学徒の手本としてたたえられた故市川中尉の勇姿をそのまま偲ばせるものでこのほど護国記念館前へ移転建立されたもの。” “本日嘗て東京大学の中央に設置してあった市川紀元二氏の雄姿を十余年を経た今日再びここに目のあたりに見ることのできますことは我々この銅像が建立されて以来今日までこれを御守りしていた者の一員として誠に感激に堪えない次第であります。、、、 当時の山川総長及び浜尾総長は市川氏の武勲をたたえ学徒の亀鑑としてこの雄姿を東京大学の構内の中央学生運動場に接した丘に建立し東京大学に学ぶ学生はこの勇姿に接するよう配慮せられたのでありました。、、、 終戦後進駐軍がGHQとして本学を使用する話が起きました際、この由緒ある銅像が米軍により撤去せられるに偲びず我々電気工学科の教官職員一同はこれを我々の教室の一隅に移し今日まで守り抜いたのでありました。、、、 昭和33年8月31日
孫引きとなった新聞記事で、市川中尉顕彰像の顛末は明らかになった。
そして、同じ記事の中にさり気無く列挙された人物の名に少なからず驚くこととなる。“ この除幕式には、実弟工学士青山士氏、、、”とある「青山士」という名は、かなり珍しい。
当ブログ( http://blogs.yahoo.co.jp/yhakrymd/62026454.html)でも言及したことのある人物に違いないと思われた。検索してみて、市川は青山の実兄であることが確認された。青山は、この除幕式の5年後に没する。当管理人は不肖の後輩として勉学を怠けていた頃だ。
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