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春雨の 2019年3月3日に第33回の向丘まつりが挙行された。当≪愛唱会≫の演し物は次の通り:
弘田龍太郎の四季
小諸なる古城のほとり 作曲1925年 詩:島崎藤村
鯉のぼり 1913年 文部省唱歌
雨 1921年 詞:北原白秋
お盆が来るから 1940年 詞:権藤はな子
雲に寄せる 1942年 詞:安藤一郎
秋の山 1937年 詞:斎藤一正
浜千鳥 1919年 詞:鹿島鳴秋
春よ来い 1923年 詞:相馬御風
ひなまつり三題
うれしいひなまつり サトウハチロー/河村光陽 1936年
雛 祭 り 永井花水/藤井清水 1932年?
ひ な 祭 林柳波/平井康三郎 1941年
昨日愚痴ったように、楽器伴奏者を得られなかったため、練習録音を編集した特製CDを鳴らして男声2名で歌った。開き直りのリラックス気分はお客さんにも伝わって、会場の雰囲気は良かったのだが、相応にドジの多い出来となった。
演後にコーヒー販売カウンターで、年輩の御夫婦から声を掛けられた。最前列の席で聴いて下さっていたお客さんと判った。かなり興味を持たれたことは確かだが、ご主人は団員二十名ばかりの合唱団に参加していらっしゃるとのことなので、こちらに新規加入の御意志は無い。一頻り高齢合唱団の先細りを語り合って別れた。
相棒のTさんは直ぐにお帰りになった。当方は本日最後の出演団体である学生合唱団の演奏を聴いた。総勢四十余名、男1・女2ほどの割合の混声、今時の作品を力強く、あるいは軽快に、アクションたっぷりに歌い上げていた。学生仲間の応援もあり、大変な盛況であった。彼らには会場後片付けも担って貰っているようで、その点でも人気抜群の若者たちであった。
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“春のやよいの このよき日”とは、童謡「うれしいひなまつり」の歌詞4番の終節前半の文句だが、今日は好天に恵まれた、そんな“よき日”だった。
しかし、当方にとっては、気の滅入る厄日だった。
某ボランティア・コーラスグループの春季プログラム稽古始めに顔を見せたヴァイオリニストMさんに明日のアカデミー向丘まつりへの参加を改めて確認したところ、体よく断られてしまった。昨年は引き受けてくれたのだがなあ。楽譜は渡してあったし、試奏済みとも聞いていたのだが、どうも虫の居所が悪かったようだ。
そうなるとヴォーカル3名が特製CDの伴奏で歌うしかないと覚悟を決めていたところ、メゾソプラノのHさんから、明日は参加できないとCメールが届いた。別の行事との時間調整がうまくいかないからとのことだ。
弱り目に祟り目と相成ったわけで、意気の阻喪感は覆うべくもないが、テノールのTさんと二人で何とか遣り遂げなければならない。やけくその開き直りでストレス発散するしかない。来場されるお客さんには申し訳ないことだ。
出し物のうち厄介なのは四重唱曲「浜千鳥」だ。前回、生涯学習フェアでは5名で歌っており、一応は4パートをカバーしていた。それを二人で演奏するとなると、どのパートのどの部分を拾っていくか検討しなければならない。
終始主旋律担当のTさんは特に変更を要することも無いので、問題は当方に降りかかるだけだ。尤も、誰に指図されるわけでもないので、好きなように歌えばよいと思えば気楽なものだ。
明日は偶々上巳の節句であるので、プログラムの最後は、前回の「文京区歌」に替えて≪ひなまつり三題≫とした。 ところで、このブログサービスが今年12月に打ち切られるとの告示が最近表示されるようになったが、その後は、これまでの蓄積はどのようにして保存すればよいのか、これまた厄介な問題だ。
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今日は西暦8桁表示の日付「20190227」が素数の“由緒正しい”素数日で、しかも月日だけの「227」も素数とあって、素数遊び日和だ。
月と日の間に「0」累桁を施して素数の出現状況を見ると、50桁までの範囲で
(4)2027, (15)200000000000027, (27)200000000000000000000000027
( )内は桁数
の通り、3個と少なめであった。
月・日の分け目を無視して「22」と「7」の間に「0」累桁を施してみると、同じ範囲で
(4)2207, (11)22000000007, (15)220000000000007,
(16)2200000000000007, (17)22000000000000007,
(24)220000000000000000000007, (25)2200000000000000000000007
の通り、7個と多産であった。
数字の区切り方で素数出現状況に何らかの傾向があり得るのか、気になるところだ。たまたま目に
ついた 「199」の事例と比べてみた:
(5)10099, (7)1000099, (14)10000000000099, (15)100000000000099,
(17)10000000000000099, (18)100000000000000099,
(20)10000000000000000099
(5)19009, (7)1900009, (19)1900000000000000009,
(28)1900000000000000000000000009
「227」の場合と同じような傾向が見られる。これが一般的傾向であるなどとは到底言えないが、別の事例「1223」を出してみよう:
(5)10223, (8)10000223, (9) 100000223, (10)1000000223,
(12) 100000000223, (16)1000000000000223,
(26)10000000000000000000000223
(5)12203, (9)122000003, (15)122000000000003,
(22)1220000000000000000003
やはり同じ傾向だ。
面白そうだが、経験によれば、これは全く偶然の結果であって、事例数を増
やせばどうなるか分かったものではない。兎に角もう少し調べてみよう。
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先週は慌ただしい一週間だった。生涯学習フェアの直前リハと本番、義母の告別式、施設訪問コンサートが続き、その間に憩室炎を発症して医者に駆け込んだりした。
憩室炎は初めてだったが、家人が何回か経験していて、ほぼどんな病気か承知していたから不安は無かった。深夜の発症で、医院の開店まで痛みをこらえるのは一苦労だった。薬剤を服用して1時間も経たないうちに痛みが消えて楽になったのはちょっとした驚きだった。
もっとも、憩室炎の自己申告及び診断が当たりかどうかは、血液検査の結果を見ないと解らないそうだが。
告別式は、当初は無宗教での家族葬ということで、極めて簡素なものを想定していたところ、実際には、規模は小さいものの、形式としては通常の仏式葬儀とほとんど変わらないものになった。汗を流さずに口先介入する親戚筋の声に押されたためだ。
当方の想定された役割は音楽葬としての仕切り役だったが、会葬者が親密な仲間で集まって内輪の思い出話に興じたため、殆ど出番は無かった。出棺の際に個人の好んだ「千の風」と「涙そうそう」の斉唱の音頭取りを務めただけであった。
用意した音源CDと式場のプレーヤの相性が悪かったのか、「千の風」は無伴奏となった。歌い出しのピッチを出まかせに取ったところ、やや高過ぎたようで、皆さんには迷惑を掛けたようだ。「涙そうそう」は余り馴染みが無かったので、皆さんによる成り行きに任せた。
万全とは行かなかったが、歌による見送りは評判が良かった。読経の僧の声も見事で、単に職業柄という以上の聴き応えがあった。その僧が、当方の歌いっぷりにも“プロの方ですか?”と賛辞を呈してくれたのは意外であり、社交辞令と判っていても、嬉しくもあった。
“いやいや、お坊さんの美声には遠く及びませんよ”との返礼を計算して水を向けたのかも知れない、とは勘ぐり過ぎか。
音源CDと歌詞カードには約十曲収録していたので、不謹慎ながら、音楽葬のつもりで臨んだ当方には、些か消化不良の憾みが残った。BGMに用意した故人ご贔屓のヴァイオリニストの演奏も特に皆さんの耳には響かなかったようだ。
月例コンサートで訪問していた老人ホームの担当者から、三月以降のコンサート再開のスケジュールについて問い合わせを受けたが、全く見通しが立たない。ピアニスト確保の問題など依然解決できていないのだから。燃え尽き症候群の観もある。なし崩しに足を洗うことになりそうだ。
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図書館から借りたピエール・ルメートル/著「天国でまた会おう」(平岡敦/訳 早川書房 2015.10)を読み終わったタイミングで、その原作(Au revoir la-haut)の映画化の話題が今日の朝日新聞夕刊に載っていた(p.3)。
どんな書評に誘われて新刊でもない本書を読もうと思ったのか全く思い出せない。売り手側の内容紹介は次の通り:
≪膨大な犠牲者を出して、大戦は終わった。 ≪1918年11月、休戦が近いと噂される西部戦線。上官プラデルの悪事に気づいたアルベールは、戦場に生き埋めにされてしまう!そのとき彼を助けに現われたのは、年下の青年エドゥアールだった。しかし、アルベールを救った代償はあまりに大きかった。何もかも失った若者たちを戦後のパリで待つものとは―?『その女アレックス』の著者が書き上げた、サスペンスあふれる傑作長篇≫
カタカナ人名の氾濫で読みづらいのは我慢するとしても、決してわくわく、どきどきしながら貪り読むような面白い内容ではなかった。我が性癖で、随所飛ばし読みであった。それによって本書のエッセンスを汲み取り損なったとも思われない。
しかし、結局本書が読者に訴えたかったのは何か、さっぱり解らなかった。戦争の非人間性などという単純な問題意識ではない筈だ。むしろ、人の心の不条理を描いた小説なのかも知れない。当方のような唯物論者には向かないということか。
印象に残ったのは、情景描写に“匂い”あるいは“臭気”が頻出することだ。香しさではなく、不潔な体や衣服などから発する悪臭への言及が非常に多い。戦地で消耗品のように朽ちて行く兵士の遺体や貧困の極みに這いずり回る下層民が重要な役割を持たされる筋書きとあっては、致し方ないとは言えるが。
国家から報われることの無かった帰還兵二人が政府や社会への復習として仕組んだ詐欺は、二人に大金をもたらしたが、一人は復習相手の一翼である実父の車に撥ねられる事故で死に、もう一人は愛人を伴って外国に逃避を遂げるという結末にはどんな意味が込められているのか。
映画化とは、必ずしも原作の忠実な視覚化ではないだろうが、それにしても、砲弾で砕け散る人体、下顎を吹き飛ばされて奇跡的に生き延びた兵士の顔など、画面でどのように扱うのだろうか。特に、顎無し帰還兵は主役の一人であり、その容貌が話のアクセントになっているから、処理が難しそうだが。 |



