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先日“変な日本語”を取り上げたばかりのところ、“不自然さ”を論じたエッセーが目に付いた。
天野みどり「須賀敦子の文章を文法的に考える」(日本教育 No.427)で、著者・天野氏が高く評価する文筆家・須賀の独特の表現を詳しく論じている。
先ず、比喩の多さについて述べた後、文法論的観点から、“私は須賀の文章の心地よさは、それが持つ「文法的やわらかさ」にもあると密かに考えています。須賀の文には、そこだけ切り取って見れば現代日本語の文法規則を逸脱していると思えるものが散見します。”と言う。
一例として次を挙げている:
“ジェラード・マンレー・ホプキンズは十九世紀のイギリスの詩人だが、ながいあいだ、マイナーの宗教詩人としか考えられていなかったのが、近年、再評価の声が高い。”
学生さんに問うたところ、多くが不自然だと答えたらしい。
この文がやや不自然だと感じられるのは、「〜のが」が主語だとすると、それと結びつく述語が後続に見つからないことに起因すると思われる、と言う。
しかし、これは誤用とは言えず、パターン化された意味―――〈ある状態が異なる状態へと変遷したこと〉を表す、と言う。
例えば、“延滞額が融資全体の22%だったのが驚いたことに34%と急激に悪化している。”と同類の用法であるとしている。
さて、当管理人は、日本語表現にうるさいと自認するのだが、意外にも、上掲「〜のが」の例文には全く違和感を覚えない。つまり、不自然だとは思わない。
強いて批判めいたことを言うなら、「〜のが」表現で文が口語的印象を与える嫌いがある、ということか。天野氏が指摘するような主語・述語関係の不自然さは全く感じない。この辺りは、個人のセンスの問題なのかも知れない。
それより、天野氏自身の文の“〜と思えるものが散見します。”の方が気になって仕方が無い。今まで、“散見される”の用法しか知らなかった。他動詞だとすれば、“〜を散見する”もありということだが。
博士(言語学)にして大学教授の天野氏の用語法に誤りがあるとは考え難いから、“散見する”は自動詞でもあるのだろう。勉強になった。
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2013年11月06日
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