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本日10日も午前中は入試業務にいそしみながら、夕方には概報の原稿を執筆中のN谷と立岩山チャシ談義。アイヌの人々の伝承を拾い集めていたら血塗られた生々しいものばかりが目についてしまい、これ以上踏み込む考察は躊躇されるとのことでした。
もちろん、どこまでも踏み込むように要請しました。一旦書き上がった結論を全部破棄することになっても構わないからどこまでも追求せよ、などと、柄にもなく高飛車な「師」を演じています。
そういう師をもたざるをえなかった彼も明日には伊那谷の狐塚古墳を見に行くそうです。
昨日からの急激な気温の変化のせいか、夜には少しばかり鼻風邪気味だったものですから、次の論文原稿を放り出して、布団に潜り込みながら内田樹著『日本辺境論』(新潮新書)を読みました。
N谷の勧めもあり、また先日の学科懇親会でも西洋史の鍋谷・川崎両先生との談義の際に、同氏の『下流志向』が話題になったところでした。そのため、少し気になった次第です。
内容は表題どおりの日本文化論でしたが、途中までは村井章介氏の『中世倭人伝』を重ね合わせてみたり、イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本人とユダヤ人』を想起させる独特の「臭気」に少し辟易気味だったのですが、後半の第3章「機」の思想 に入ってからは俄然面白くなり、第4章 辺境人は日本語と共に のところでは、とうとう布団のなかで大笑いしてしまいました。もちろん記述された中身に共感し共鳴して、です。
たとえば前半の第2章のところでも「大学のシラバスは、典型的に欧米的な教育思想の産物ですが、これは学び始める前に、これから学ぶことの意味や有用性について初心者にもわかるように書かれた説明です。大学の教師はこれを書くことを義務づけられています。私は『このような考え方に立ったらもう学びは成立しない』と思っていますが、同意してくれる人は多くありません。しかし、学び始める前に、これから学ぶことについて一望俯瞰的なマップを示せ、というような要求を学ぶ側は口にすべきでない。これは伝統的な師弟関係においては常識です。そんなことをしたら……」(同書138頁)というくだりがありました。
このくだりなどは、昨今の私の職場事情に照らし、涙ものでした。同意する大学教師は本当のところは多いはずです(こうした「場の空気」ゆえにけっして表面化しないマジョリティの問題も本書のテーマでした)。
もっとも面白かったのは第4章です。これは日本語の言語としての特性を突いているように思え、普段私も日常的に直面している事柄を、ほとんど誤差なく正確にトレースされたように思いました。
たとえば氏いわく「本書ではここまでヘーゲルとかハイディがーとか丸山眞男とかを引用してきていますが、彼らの文章はいわば『真名』に相当します。ですから、引用の後に『というようなことを偉い学者は言っていますが、これは平たくいえば…..』というような『仮名に開く』パラフレーズ作業を必ず行います。コロキアルな生活言語の中に『真名』的な概念術語を包み込んで、コーティングして、服用し易くする。このような努力は日本人にとっては本態的なものだと思うからです。まさに私たちの祖先はそのような仕方で外来の文化を取り込んで『キャッチアップ』してきたからです」(同書238頁)。だとのことです。
私も講演の場などでは普段よくやってます。学術論文のなかでも常用しています。しかしこういう展開に知的リソースを投じる習慣は、欧米では非常に珍しいことなのだそうです。
こうした比較という習慣自体を見直すことを主張する書物なのですが、他者を参照するなかでしか自己の立ち位置を確認できない性というものの露呈が、また面白く感じられました。
ではどこで大笑いしてしまったのか、については具体的な引用を避けることにします。シンポジウムや対談の際のやりとり絡みで、どちらがより「上位」に立つかをめぐる駆け引きの構図が論じられているところですので、先日の小田原での記憶が甦り、私にとってあまりにも生々しいからです。しかし傑作でした。こうして笑ってしまえば、フラストレーションは確実に解消されるものですね。
ただし、こうしてまた布団から抜け出してブログを書いているわけですから、早めに寝ることもできなかっただけでなく、休息にもなったかどうか。
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私が惹かれたのは、他者を対照とすることでしか自己の立ち位置を把握できない→「絶対的価値者」との距離を縮めようとする方向でしか進むべき道が語れない、という指摘です。明治期の新聞記者(エリート在野知識人)の姿そのものに感じてしまいます。
それと「場の空気」の支配力。だからこそ、KY(空気読めない)という言葉が流行語となりえるのだなと納得しました。
先生も鼻風邪ですか?私もです。しかも重度の。…花粉症ではないですよね……祈。
2010/2/11(木) 午前 2:19 [ N谷 ]
そのあたりの問題には同意しかねるのです。それが日本文化に固有のものかどうか、という点にかんしてです。というのもサイードの西欧社会へ向けたオリエンタリズムの告発があるからです。多田文雄さんの免疫論で開示された免疫自身の自覚メカニズムがそうだからです。
本書の主題は、辺境としての日本に固有の性向を見いだすことですから、他者を参照することでしか自己の立ち位置を確認できない、という性癖は、日本に固有のものではなくて、人類全般に、あるいは生物界にまでもう少し普遍性をもったものといえるのではないかと。
それはそうと、本日の古墳行き、気をつけて。
2010/2/11(木) 午前 3:05 [ flyingman ]