私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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 コメントの第2回目です。

 今回は、私がなぜ歴博グループによる先日の発表を信用しえないと確信するに至ったのか。その理由を説明することにします。なおこの点については、仮にどのような報告であったのなら納得したのか、をお話しするほうが文字数の節約になるかもしれません。ですから以下、そうした手法をとることにします。

 もし、春成秀爾先生(恩師なので敬称を用います)による基礎作業手続きの説明の段で、検討対象とした樹木が江戸時代の木造建築に用いられた材であったり、鎌倉時代や平安時代の材であったり、と、伐採年代の比較的新しい資料から相対的に古いものへとさかのぼる形で複数用意され、「それらの樹木を対象として年輪ごとに放射性炭素年代測定を実施しました。」とでも始めたら、多少の信用度は上がったかもしれないのです。

 そのうえでもし、「その中には飛鳥寺や山田寺への使用部材など、伐採年代の既に判明している木材も複数含まれております」などと解説されたのであれば、「おっ!弥生時代の開始年代をぶち挙げた際の研究姿勢とは質的に違うぞ。聴くべきところはありそうだ」となったはずなのです。

 しかし実際の解説はそうではありませんでした。ですから冒頭の解説部分を聞いたところで、暗い気分に陥った次第です。

 昨日の授業でも述べたとおり、放射性炭素年代測定法の較正曲線を導くためには年輪年代測定法の確立が前提条件であり、それなしにはなんら科学性を確保できないのです。だから歴博がこの課題と正面から向き合うためには、年輪年代測定法を独自に開拓するか、すでに開発されたところとのコラボを組むか、それが不可能な場合であっても、伐採年代の判明している木材すなわち暦年代資料を複数確保したうえで、古墳時代にまで相互につなぎ合わせながら遡らせる試みを最初におこなわなければならないのです。

 ところが、そうした試みを行ったという明確な説明はなく、しかも弥生の中期や後期から降ってきたので、もはやその時点で、だめだと確信した次第です。

 要するに年輪年代測定法との相互連携なしに日本版の較正年代曲線を構築することなど、原理原則上も理屈の上からも不可能なのです。だから会場では最後に「放射性炭素年代測定法の較正をおこなうために放射性炭素年代測定をもちいることがどこまで有効なのか疑問である」と伝えたのでした。

 あえて申し上げたのは、春成先生による解説の場面では、さかんに「年輪を一年ごとに測定していった」ことが強調されたからでした。紛らわしい表現です。あたかも年輪年代測定との連携が進行中であることを臭わす修辞とも受け止められかねません。

 そしてそれを本気でやろうとするのであれば、伐採年代の新しいところからさかのぼってゆくという手法が必然化されてくるのです。会場での説明も、この部分が肝心だったはずなのです。埋没林の埋没年代をどう導いたのかが気になりますが、先の説明を聞く限り、彼らの基本戦略があれだけの批判を受けたにも関わらず、一切の改善がみられないことを意味するものと判断せざるをえません。

 私の真意が伝わったのは会場の中では数人かもしれません。ただ学生諸君の目撃談によれば、そのとき壇上の小林謙一氏は、私の方を厳しく睨み付けたのだそうですから、本人には伝わったのかもしれません。年輪年代測定との関連性について私自身が質問すればよかったのに、と悔やまれてならないのです。

 図3の問題点の指摘から入ろうと思ったのですが、作者に掲載許可をとる必要があり、目下原図は掲載できません。そのため、次善の策を講じることにします。この点はまた次回以降に。

 なお昨日の本記事の内容の一部は、本日新しい情報が入りましたので一部修正しました。殺し文句も今は控えておきます。

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いきなり実名はないですよ。私はバレバレであろうがどうであろうが当面はどこまでもflyingmanを通すつもりなのですから。ところで良い話題を提供していただきました。池上曽根遺跡の部材を使ったというのは、弥生中期後半の暦年代を放射性炭素年代測定結果と比較してみる上で有効であることに間違いありません。もちろん、光谷氏の年輪年代測定結果が疑いようもなく「真」である場合に限定してですが。そして、ここを疑わざるをえないことも事実なのです。

というのは、もし光谷氏の測定結果が真であるなら、弥生後期以後の全木製品のうちスギの場合に50年以上の年輪をもつ資料であれば、いかなる資料であっても誤差なしで「個別年輪の形成年」をピタリと当てられる状態になっているはずです。そうなっていない現状をはなにを物語るのか。そうです。

どこかに嘘が紛れ込んでいるとみるのが正解です。この可能性については最終的にお話することにしましょう。

2009/6/3(水) 午前 0:31 [ flyingman ]

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N谷君、長野県の埋没林の年代測定は奈文研の光谷氏が実施したものであることを確認できました。地元の方が何点もの輪切りの資料を送りつけて測定を依頼したそうです。714年をどうやって導いたのか、はこの時点で頓挫してしまいました。

2009/6/3(水) 午後 11:29 [ flyingman ]

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光谷氏の研究概要を原理的にたどれば、現生の樹木からの年輪のつなぎ合わせですから、714年前後の年輪パターンは比較的早い段階で完成しているはずです。埋没林というのは、樹皮が残るため建築材よりもより正確に埋没年代を導けるので、資料としては適している側面があります。したがって、ここで問題にすべき事柄とは当面区別しておきましょう。問題は、240年前後までの年輪を714年に枯死した単一の埋没樹木資料からたどれたのか否か、ここです。樹齢474年の資料があったのなら、とりあえず歴博グループが希望する暦のところまでたどれることになる。ここを会場で質問したかったわけです。先に頓挫した、と言いましたのは、検討者が光谷氏だということが判明したからです。彼は一切のデータを公開していないからです。

2009/6/4(木) 午前 10:54 [ flyingman ]

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1.歴博年代と明確に矛盾し、歴博年代論を否定する重要な測定データに、何故ふれないのか。歴博の主張は、完全といってよいほど崩壊している。歴博仮説は、5%以下の危険率で棄却できることになってしまう。(グラフで見ると、1%以下の危険率)
2.何故、1年前に布留1式であったポイントに布留0式の上限に変えたのか。
問題解決は、適切なアンノン試料を、歴博から独立した機関(コントローラー委員会設置)が作成し、歴博をはじめ複数の施設にアンノン試料を配り、炭素14法による年代測定を行い、その結果をもって、この問題の検討を進めては。その際、保管したアンノン試料のキーは、委員会で厳選されたダブルコントローラーが厳密に保管しておくことにする。測定結果が出そろったところで、キーオープンする。測定方法の詳細は、同一プロトコル及びその手順により実施する。このような方法により、同一試料による測定誤差や年代誤差の検討から、検体の選択を含め、緒基準作りを始めないと、いつまで立っても客観的、かつ堅牢性のあるデータが得られないと思う。
再現性のあるデータが得られことが、ミニマムリクアイアメントだと考える。

2009/7/1(水) 午後 3:01 [ himikoyori ]

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コメントありがとうございます。ベータ社が実施した放射性炭素年代測定結果と今回の歴博のデータとの齟齬や矛盾点については、いずれ取り上げる予定です。いましばらくお待ちください。

2009/7/1(水) 午後 5:02 [ flyingman ]

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初めまして。
突然のコメントで失礼します。

>昨日の授業でも述べたとおり、放射性炭素年代測定法の較正曲線を導くためには年輪年代測定法の確立が前提条件であり、それなしにはなんら科学性を確保できないのです。

の部分ですが、これは「年輪年代測定法」の特徴に関する事実誤認に基づいているのではないでしょうか?

>検討対象とした樹木が江戸時代の木造建築に用いられた材であったり、鎌倉時代や平安時代の材であったり、と、伐採年代の比較的新しい資料から相対的に古いものへとさかのぼる形で複数用意され、「それらの樹木を対象として年輪ごとに放射性炭素年代測定を実施しました。」とでも始めたら、多少の信用度は上がったかもしれないのです。

の部分には全面同意しますが、その部分は手法的には年輪年代法とは全く独立の、別手法ではないでしょうか。

とはいえ、当の研究内容を見ない限り、まともなコメントはできようはずもなく。一門外漢からのタワゴトと受け取られるのが関の山だろうとは存じます。
それでは失礼します。

2009/10/24(土) 午後 11:25 [ 憂える杞人 ]

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コメントありがとうございます。日本産樹種にもとづく較正年代を求めようとして、定点となる個別木造建造物の伐採年代は具体的にいつかを知るためには、標準パターンに照らし合わせる必要があります。その意味で年輪年代測定法の確立が前提であると申し上げた次第です。

2009/10/27(火) 午後 11:58 [ flyingman ]

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でも、定点を作るための標準パターンは、「年輪年代法」を使わなくても作成可能ではありませんか。
山形大学理学部の櫻井敬久教授の研究のように、「(多くの場合に年代不詳の)古木の年輪をサンプルとして年代ごとのC14濃度変化を出す」という作業を繰り返し、年代の異なるパターンをつなぎ合わせていけば可能でしょう。年輪年代法は、各部分のC14濃度を測ることなく、年輪幅をパターン化するものですから、同じように年輪を用いていても、測定手法が全く異なっていますよね。

2009/10/28(水) 午後 8:24 [ 憂える杞人 ]

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ご指摘の手法は、14Cウィグルマッチなどと呼ばれる研究法かと思います。こうした手法で問題になるのは「つなぎ合わせ」です。現生の樹木から逐一辿るのは現実的ではないので、「既成の標準パターン」に当てはめるのが一般的だと思うのですが、その標準パターンは主として年輪年代測定法に依拠して作成されたもののはずです。
現在はそれが北米やヨーロッパの樹木年代によって作成されているので、日本に適用できるかどうかが問題視され、それを克服するための模索がおこなわれている段階です。歴博グループの研究は、本来そうした模索の一環として位置づけられるべきところだと思います。しかし議論の方向が決して生産的でないことを問題視しています。

2009/10/29(木) 午前 0:32 [ flyingman ]

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こちらからコメントを付けたにもかかわらず、長く間を開けてしまい、申しわけありません。
ウィグルマッチ、デコボコ合わせですね。以前、簡便な解説を読んだ際には、年輪試料ではなく、一定期間の幅に収まる複数試料(もしくは年代が近接する複数試料)をグラフに当てはめる際に用いる方を示しているものと理解しましたが、考えてみたら、正確な年代が分からない未知の木材試料の年輪でもウィグルマッチと呼ぶのでしょう。
現生の樹木から遡るのは、縄文杉を用いても弥生草創期まで届くかどうか、難しいとの異論を聞きました。杉は芯材が腐っている例が多く、まともな年輪を採取しにくいそうで。縄文杉の写真を見る限りは縄文中期ごろは無理でも後期か晩期までは測定できそうには思いますが。多くの樹種では弥生時代まで一本で遡ることができる長命の樹木は現生していませんから、地層から掘り出した古木、棺や柱などの古材も用いて継ぎ接ぎしなくては無理ですよね。
年輪年代法は、最終グラフを用いた実測定との照らし合わせの段階までは参照するべきではないと思います。現状では充分な確実度とは言い難いのではないか、という点では先生の見解に異論ありません。

2009/11/18(水) 午後 11:39 [ 憂える杞人 ]

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ご丁寧なコメントをありがとうございました。杉の年輪の継ぎ接ぎは奈良文化財研究所を舞台に日本でも試行されていて、現代を起点に縄文時代まではさかのぼらせることに成功したと言われています。しかし年輪の生長パターンが、たとえば屋久島と中部高地との間だで一致するのかどうか、疑問がある、との意見は10年以上前から指摘されてきたことです。最近は、むしろ地域ごとの生長パターンが不一致していることを前提に、産地同定か可能ではないかとの見解も出されているようですので、標準を作成するという当初の目論みの行方すら懸念される、というところかと思います。

2009/11/19(木) 午後 11:11 [ flyingman ]

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素人の質問はご迷惑とは存じますが、最近になって歴博の弥生時代開始発表に関心を持った者です。

「板付遺跡」の土器で紀元前10世紀とされたことを知り、不思議に思いました。私は、

北九州・山口県付近に華北出身の長身の弥生人がやってきて、弥生土器と稲作をもたらし、
弥生人形質を保ったまま、遠賀川式土器に地域性が出ないという、比較的短期間の内に、
北九州から伊勢湾沿岸まで、東進した、

と思っていました。それは、
1975年版岩波講座『日本歴史1』佐原真「農業の開始と階級社会の形成」からの印象でした。

華北出身というのは、朝鮮にも中国南部にも存在しない袋状竪穴が、北九州付近に多数あること、

弥生人形質維持のままの大移動というのは、現在ネットで国立科学博物館「日本人はるかな旅展」
でも確認できます。

遠賀川式土器の斉一性については、現代の書き手であるウィキペディア書き込み者も、同じのようです。

旧式の急速伝播説の方たちからの、歴博の緩慢伝播説に対する反対論は、どうして見えないのでしょうか。

2011/11/1(火) 午前 10:29 [ nannkai ]

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歴博の提起した「新年代」にはさまざまな批判もあり、現在も検討中だと思いますが、ご指摘の「急速伝播説」に関わる問題としては鉄器が弥生前期のどこから伴うか、という懸案があります。以前の定説的見解では、青銅器よりもむしろ鉄器の方が早く入ってきたかもしれないかのような同時伝播説だったと記憶していますが、この点についての検証が進み、現在は弥生時代前期前半までは石器のみの段階だった可能性が議論されているようです。「急速伝播説」で想起されるのは故佐原眞先生の描かれた図式、すなわち「稲作の伝播から国家形成に至るまでの時間が脅威的に短いことが日本列島の特質である」との見解です。このような見解が批判に晒されつつある、とまでは言えるのではないでしょうか。

2011/11/1(火) 午後 11:29 [ flyingman ]

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お返事ありがとうございます。鉄器といえば、2003年歴博報告
「弥生時代の実年代」(春成秀爾)によれば、

早前期の鉄器出土状況の悪さや、鉄器痕とされた杭の時期判定の誤りが原因だろう、とされているようです。
(佐原真先生と春成秀爾氏が師弟関係というのも他で知りましたが、これも不思議に思えました。)

2005年12月西日本新聞に載った九州国立博物館関係者、宮地聡一郎氏の文によれば、土器では弥生時代最古と縄文時代晩期が共存していたので、弥生土器の始原がわかった、と書いてあるのですが、

土器と鉄器と人骨と、杭や水田は、別々の時代のものである、と、判定されたのでしょうか?

つまり、土器は紀元前10世紀、鉄器は中期(紀元前5世紀?)、渡来人系弥生人の人骨はいつのもの?、
水田は杭なしで紀元前10世紀のもの?ということでしょうか?

2011/11/2(水) 午前 10:16 [ nannkai ]

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問題を単純化しますと、鉄器と鉄器加工痕とされた加工対象物が弥生文化の最初の時点から伴うか否か、そこに収斂されるものと思います。板付1式期の水田に杭が伴うことは状況証拠から見ても間違いなく、灌漑水田の技術は当初から完成された状態で朝鮮半島南部から伝わったとの見解に変化はないものと思います。
ただし渡来民が「お仕着せ」の文化要素を直接移入し、彼らのDNAが優勢になり支配的となる過程が弥生時代である、というような理解は再検討されなければならないようです。渡来が一回性に限定されないことと、稲作技術の定着、青銅技術の波及、鉄器の波及、集落景観や付帯施設の波及、祭祀形態の変化、といった諸要素は、それぞれ別の背景をもって弥生文化のなかに組み込まれた、というやや複雑な過程を考える必要性がでてきた、ということだと思います。
なお従来の紀元前4・5世紀だという年代観は、少し抑え気味であったし、紀元前10世紀という年代観もやや古すぎる、という石川日出志さんの見解(『農耕社会の成立』岩波書店)がもっとも正確な捉え方のように思います。

2011/11/2(水) 午前 11:04 [ flyingman ]

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なお春成秀爾先生と故佐原眞先生は、世間一般にいう師弟関係ではなく、兄弟関係ないし上司と部下という方が正確だと思います。兄弟関係というのは、銅鐸の研究を共に進めたことに由来するものです。そのため佐原先生を銅鐸の「大神様」と呼び、春成先生を「小神様」と呼ぶ方(酒井龍一先生)がいて、そのあたりからお二人を師弟関係に見立てる雰囲気も醸成されたのかと思います。
佐原眞先生の恩師は小林行雄先生(確かご本人は山内清男先生を加えていらっしゃった)であり、いっぽう春成秀爾先生の恩師は、といえば、世間一般的には近藤義郎先生である、ということになろうかと思います。

2011/11/2(水) 午前 11:21 [ flyingman ]

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弥生前期前半までは石器のみの段階だった、と言うのは歴博説ですよね。この場合、前期前半とは紀元前10世紀から9世紀くらいのことでしょうか。

先生ご自身は、完成された灌漑水田技術という言葉からすると、杭などは鉄器加工痕があり、前期前半から鉄器があったとお考えですか?
鉄器というのも、最近の動向は知りませんが、秦始皇帝などの使った剣は、青銅剣だったと本に書いてあります。
青銅剣の時代に、木を加工するものが鉄だったというようなことは、あるのでしょうか?
つまり、水田稲作に鉄器が使われたとするなら、それは秦時代よりあとのことになるのではないかと思うのです。

弥生早前期に鉄器があったのなら、秦時代よりあとと考えるのが自然なのではないでしょうか?

仮に渡来が何度もあったとして、同じ民族が、時期を変えて何度も来たとしましょう。
それなら、西日本一帯に広がるのに時間がかかったとしても、形質が変わらないこともあるかもしれません。
しかし時期・時代が変わって、共有する知識が変わった可能性が高いのに、常に非常に似通った土器を制作して東進する、というのも、考えにくい話ではないでしょう

2011/11/2(水) 午後 10:32 [ nannkai ]

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完成された灌漑水田技術は鉄器の使用を不可欠とした、などとは申し上げておりません。鉄器を伴わない段階で、完成された灌漑水稲農耕技術は渡来した可能性について申し上げたにとどまります。
また渡来や移住につきましても、従来型の単純なモデルはどうも実態に合わないのではないか、という再検討の余地とその方向性について申し上げたにとどまります。
歴博の新年代観は、そのような再検討の起爆剤にはなったのであろうと考えているところです。要するに「民族」の移住などといった括りで単純化することを拒む様相であるらしいことを申し述べたところです。

2011/11/2(水) 午後 11:26 [ flyingman ]

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歴博発表は信用できない、とお考えなのかと思ったのですが。では、歴博報告は成立する可能性がある、という方向で考えるべきだ、とお考えですか?

「弥生時代の開始年代・itou」の検索で出てくるサイトの下段に、「建国紀元前660年はあり得ない話ではない」と書いてあって、この文の原本までは未確認ですが、歴博報告の目指す方向の一端が垣間見えたようで、私はあきれてしまいました。

全国の人が、各地に5200基の前方後円(方)墳を築き、自分の目と手と足で確認し続けた350年間の古墳「時代」について、記紀は何も語りません。
記紀成立の100年前まで全国の人が知っていたこと、記紀成立の当時も、特徴的な小山となって目の前に見えていたはずの古墳について、
故意に書かなかったのか、知らなくて書けなかったのか、どちらにしても、この重大な情報欠落は、古墳時代にまで天皇家が遡るかどうか、
重大な疑問の出るところだと思われるのにです。

紀元前660年に天皇家が関係した建国の可能性がありそうだ、と書くのは、信じられません。

2011/11/3(木) 午前 8:34 [ nannkai ]

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私の見解は本文記事に記したとおりです。それ以上でもそれ以下でもありません。

2011/11/3(木) 午前 9:11 [ flyingman ]


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