私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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車輪石と石釧の誕生

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現在執筆中の原稿について、少しだけ触れておきます。古墳時代石製品の原稿ネタです。

上段の写真2点は福井県龍ヶ岡古墳出土ゴホウラ製腕輪です。ゴホウラ腹面貝輪は鍬形石の祖型であることが知られておりますが、背面貝輪のほうは、車輪石の祖型である可能性が濃厚になりました。本例はその証拠です。熊本大学の木下尚子さんがゴホウラであることを解明し、私はその所見を追認したに過ぎません。

2段目は環体部の裏側ですが、貝本来の軸線に沿って撮影したもので、奥が螺頂側、手前が水管溝側です。奥の面には螺塔の弧線が2重にみえ、それを丁寧に削り込んでいることがわかります。要するに腕輪自体の軸線は、貝本来の軸線から約80°振って(要するに螺軸とはほぼ直交させて)作られているのです。こうすることで外舌部の背面をもっとも広く取ることができるのですが、同時に左右の安定性は損ないますので、きわめて変則的な製品です。古墳時代になると、ゴホウラ製貝輪の一部には繁根木型と呼ばれる背面貝輪が誕生するのですが、このような軸線の振れは起こしておりません。したがって本例は唯一の事例となります。

ところで本例は、京都府芝ヶ原12号墳出土の青銅製釧とそっくりであることがわかります。放射状の沈線は、螺肋の隆起を利用し、その両側に数条の溝を施すことで出来上がっています。端部をみると、螺肋間に弧状の切れ込みを繰り返し入れて波状に仕上げております。だから本例は、より直接的には車輪石系青銅製腕輪の祖型というべきでしょう。

このように、最初の材質転換の試みは、まず青銅製品化が先行したことがわかっています。しかしその次の段階で、碧玉および緑色凝灰岩への材質転換になったわけです。ちょうど鍬形石の誕生の前史に、有鈎銅釧があるのと同じです。もともと楽浪系銅釧(円環系銅釧)が弥生時代の日本列島にはたくさん入ってきておりましたから、金属製釧は珍しくなかったのでしょう。その意味では、貝から青銅への材質転換が生じたのも自然な流れだったと考えられます。事実、石釧についても円環系銅釧や帯状銅釧を祖型とするものがあるのです。つまり一旦は貝から青銅器への転換が模索され、その模索が破棄されたのちに石製品として誕生することになったのです。つまり本例と芝ヶ原12号釧との関係は、車輪石の成立過程についても途中に青銅器化が試みられた事実を垣間見せてくれているのです。

車輪石の祖型はオオツタノハガイ釧であるといわれてきました。しかし収まりが悪かったのです。なぜならゴホウラガイとイモガイは奄美・沖縄諸島に生息する、いわゆる南海産の希少性に富む貝であるのに対し、オオツタノハガイだけはそうでないからです。北部九州弥生社会での貝輪スタンダードはゴホウラ製腕輪を男用の威信財とし、イモガイを女用の威信財とするものでした。オオツタノハ腕輪は、幼児に着装されるケースがあるものの、完全な脇役的存在で、いうなれば縄文系腕輪の末裔ともいうべき過去を引きづった遺物です(北部九州弥生社会にこうした縄文系遺物が残る事実も、それはそれで重要なのですが、今は問いません)。

だから古墳時代になって、鍬形石の次に置かれる車輪石がオオツタノハ製腕輪からの材質転換だということになると、イモガイ製腕輪を祖型とする石釧との間で重み付けが逆転するという、奇妙な理解になってしまっていたのです。そのような収まりの悪さを解消する意味でも、本例の存在は重要です。要するにゴホウラ腹面貝輪ーゴホウラ背面貝輪ーイモガイ製貝輪という3層構造が弥生時代の終末期には成立しており、それを踏襲する形で材質転換が生じた結果、鍬形石ー車輪石ー石釧の誕生となった。そのように理解できるのです。

最下段の写真は、同じく龍ヶ岡古墳出土のイモガイ製貝輪です。縦の沈線と、横方向に2段に施された匙面状の加工を確認できます。私が第1群石釧と呼ぶ規格の祖型です(2段の匙面だけで作られた奈良県下池山古墳例も、本群の仲間であったことを、この資料をみて気づかされた次第です)。では、なぜこのような縦の沈線が施されたのでしょうか。それこそが石製品への材質転換に付帯する現象だったと考えられるのです。祖型は貝であることの表示・表象・記号以外のなにものでもありません。アカガイなどの二枚貝に由来する表現を、あえてイモガイに施すことで、それが貝であることを表明したのです。だから祖型腕輪がなんたるか、をよく知るものが本例を見つめると、邪道に映ります。上段のゴホウラ背面貝輪も同様です。本来は乳白色のにぶい光沢を放つなめらかな表面こそが、この貝輪の価値を高らしめたのです。そこに沈線や刻線など「ありえない」のです。しかしそれを知らない者にとっては、こうした記号が施されていないと、いったい祖型は何であったのかが伝わりません。いわばお節介な解説役を放射状沈線は担ったのだと考えられます。

なおこの点について付言しますと、大阪府紫金山古墳出土の3点のゴホウラ貝輪について、木下尚子さんは同じように感じました。邪道だと。だから鍬形石を逆に模倣した珍妙な製品だとみなしたのです。本来の伝統をよく知る方にとっては確かにそうでしょう。しかし邪道側の目線に立つ私にはそう映りませんでした。適度な記号が付加されていないと、価値がわからないのが貝本来の形状や色味の妙を知らない山国育ちの人間なのです。だからこの3点も龍ヶ岡例と同様の位置に置かれる存在、すなわち鍬形石の直接の祖型貝輪に違いないと踏んでいます。

では、なぜ貝輪から石製品への転換が生じることになったのでしょうか。解答は至って単純明快です。貝輪資源の枯渇です。ゴホウラガイの乱獲によってサイズは小型化し、内舌部だけを使う腹面貝輪用の大型貝は入手困難になり、外舌部までをも取り込む背面貝輪への転換が余儀なくされたのでしょう。弥生時代中期後半の北部九州社会における膨大な消費量をみれば、よくわかります。同時に気候の寒冷化が追い打ちをかけたに違いありません。海洋生物は気候の変動の影響をもっとも強く受けるからです。

こうして北部九州弥生社会では、貝輪を青銅釧に置き換える試みが後期から始まりました。原材料としての地金は華北産ですが、楽浪を通じて比較的調達が容易だったからです。しかしこの容易さは、ただちに威信財としての価値の低下に直結します。あまたの青銅製品のなかに埋没させてしまうことになるからです。

乳白色の鈍い光沢をギラギラの金属光沢に置き換えた瞬間に、形状がいかに似ていても、もはや貝の表象ではなくなってしまうのです。代替措置としての素材候補は、角か玉しかありません。しかし腕輪を作り出すことが可能な象牙のような大型の角資源は日本列島内では到底確保しえません。唯一残された選択肢は玉素材に置き換えることだったのでしょう。そうすれば素材は北陸グリーンタフ地帯の広い範囲で確保可能です。だからあえて困難な石製品への転換を倭王権は選択したのだと思います。青銅器生産工人に委ねることを避け、北陸地域一帯の玉製作工人に石製品の製作を委託することになったのです。

そもそも古代中国の玉器が乳白色を指向し、それを「徳」としたのは、乳白色の精子に生命力の源泉を見いだしたからである、と林巳奈夫先生は指摘なさっておりますが、緑色の碧玉製品についても、大元をたどれば古代中国の玉=「徳」に行き着くので、「徳」つながりで貝製品と玉製品とのカップリングが起こった、ともいえるでしょう(なお乳白色の石材が日本列島の広範囲で確保できたら、緑色の碧玉やグリーンタフを捨てた可能性すらあると踏んでいます。このことをうかがわせるのが奈良県メスリ山古墳の小型鍬形石の存在です。蛇紋岩製のこの製品と、愛知県東之宮古墳出土の鍬形石の2例だけが白色系なのです)。

実は貝製品とのカップリングをめぐる上記のような駆け引きの背後には、鉄生産集団も関与していた可能性が高いと思います。なにせ弥生時代の中期後半以来、青銅器生産集団と鉄生産集団は日本列島における覇権をめぐりしのぎを削っていましたし、玉生産集団は鉄器生産集団との連携のもので生産体制を維持していましたから。石製品専用に考案されたであろう刳り貫き穿孔用の、縦軸ロクロの先端に鉄板を曲げた円筒形の管状錐を装着する「石鋸」は、鉄生産集団と玉生産集団のコラボのもとで、おそらく布留1式期直前には開発されたものと推測しています。

このようなことを、2011年の冒頭に考え、ツラツラと打ち込んでいます。大賀克彦さんが見れば「相変わらず進歩がない」と一蹴されるかもしれません。しかし現在執筆中の原稿の柱は、実は未定C群(半島系管玉)と石製品との関係になります。いわば舶載管玉の一括入手と倭製石製品の製作および配布が、前期古墳の築造を導いたという図式になります。大賀さんには再々指摘されておりながら、今まで気がつかなかった私の不明を恥じつつ、です。

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貝類の採集
縄文人が貝類を食糧資源・装飾品の原料として採取するようになったのは縄文早期前半で、代表的な遺跡として横須賀市の夏島貝塚が挙げられる。
縄文早期の半ばには瀬戸内海沿岸や東北地方でも貝塚が形成されるようになる。採取対象は当初はヤマトシジミであったが、やがてカキやハイガイなどにその中心は移る。

また、腕輪やペンダントの原材料として採取された貝類もある。特に目立つのがオオツタノハガイの利用である。
オオツタノハガイは主に屋久島やトカラ列島に生息するが、縄文期には、特に縄文後期・晩期を中心に、関東全域から北は北海道の有珠10遺跡でも出土している。
これについて、原材料となったオオツタノハガイは南九州から運ばれたという説と、三宅島以南の伊豆諸島にも生息域があったのではないかとの説が対立している。

2012/5/3(木) 午後 11:01 [ 底質汚染 ] 返信する

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