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本ブログではお馴染み、旭川市博物館の副館長、瀬川拓郎さんの新著です。途中で編集者の意見を汲み変更になったという副題は「奇習をめぐる北東アジアと日本」とありました。新典社刊で税抜き800円です。いつもどおりの軽快な筆致でアイヌ民族と北方集団との間で繰り広げられた沈黙交易の問題を論じていらっしゃり、読みやすさと内容の深さの共存状態には唸らされるばかりです。
今回の新書は瀬川さんの前著『コロポックルとは誰か―中世の千島列島とアイヌ伝説―』(新典社新書2012)の続編として執筆されているのですが、第3章2節に「ライチュアル・ヒストリー」とあるとおり、経済的側面からの押さえだけでなく、呪術的・宗教的側面からも沈黙交易を支えた背景が導かれる、との斬新な見解が示されています。
ここでの呪術的・宗教的側面とは、これまでにも幾人かの歴史・民俗・民族学者が注目してきたところの、交易や交換それ自体が帯びる宗教性の問題(たとえば「市場」という特殊な人為施設が、交易や交換が孕むさまざまな危険性を妥協的に解消させる装置でもあったという趣旨の議論や、貨幣そのものが帯びる宗教的側面についての議論など)とは少し性格が異なっています。
なぜかといえば、千島アイヌと北海道本島アイヌとの間で展開された沈黙交易(それがコロポックル伝説を支えた歴史的背景でもあることを前著は解明しているのですが)は、同一民族内でのそれであって、一般的にいわれる「同化や交流の進展を忌避しつつ積極的に展開される交易形態としての沈黙交易」とは同一視できず、その特殊性のありかを解明しなければ、同一民族内部でも展開することになった沈黙交易の意味を歴史的に把握したことにはならない、という瀬川さんの課題設定の妙があるからです。
その結果、島嶼部に居住する人々が共通して抱いたであろうところの、外部から寄り来る病魔への危機意識およびそれを祓う呪術的側面の作用が介在する必然性があって、陰陽師や修験道者が持ち込んだ祓えの呪術的儀礼も採用されたし、同じ脈絡のもとで、たとえ同一民族同士であっても島外に居住する人々との恒常的な接触は忌避され、彼らにとっては北方異民族との交易において古くから馴染みでもあったところの沈黙交易が、島外に居住するアイヌ集団との間で採用されることになったのではないか、との斬新な見解が示されています。
当該箇所を瀬川さんのブログ記事から抜粋的に引用しますと、「千島アイヌは村人が島外へ狩りに行って帰ってくる際、これをすぐには迎え入れず、ウケエホムシュと呼ばれる行進呪法をおこなったうえで上陸させていました。この行進呪法は魔神退散の呪術で、戦勝祈願や病魔退散、あるいは芸能としてもおこなわれていたもので、すでに14世紀初めにはアイヌ社会に存在したことが『諏訪大明神絵詞』によって確認できます。私は、この行進呪法が古代陰陽道の反閇儀礼に由来したと考えています」(「北の考古学」2013年2月7日付け記事)とあるのです。実際の本文は、これにかなり手が加えられていますが。
このように、今回の著作で特に目を引くのは、アイヌの人々が行った行進呪法の系譜が古代日本の陰陽師や修験者のそれに求められることを論じていらっしゃる点です。だからアイヌの人々がいかに日本側からの強い影響力のもとにあったのかを強く印象づけるものとなっています。
具体的には7世紀末から9世紀までの間に起こった第一の波(農耕・竈・刀子・機織技術)、10世紀に生じた第二の波(陰陽道・修験者)、13世紀以降15世紀に顕在化する和人居住域の拡大と交流、として整理されており、瀬川さんのアイヌ史論は『アイヌ・エコシステムの考古学』(2005)に端を発し、好著『アイヌの歴史』(2007)から本書までの4冊の著作を経て、ほぼ骨骼が固まったという印象です。
そうしたこともあってでしょうか。7世紀から13世紀に展開したアイヌの祖先集団が残した文化だと考えられる「擦文文化」という名称は、今回の著作では登場しません。代わりに「アイヌ」や「古代のアイヌ」と読み替えられています。さらに古墳時代の終末期に東北北部から北海道へと移住を敢行した人々についても、古墳文化を携え北海道のアイヌに「日本化」という名の強い影響力を発揮した「エミシ集団」となっています。松本建速さんの考古学的蝦夷論と底流で響き合ってもいます。
今述べたような意味でも、島嶼部における異民族との交易や交換、あるいは文化の融合や境界領域の問題に関心をおもちの考古学研究者にとって、必読の書であることは間違いありません。先の引用文にある「反閇儀礼」(ヘンバイ・ギレイ)という用語や意味も、それが「疱瘡(天然痘)神」を祓う儀礼の一環であるという見解についても、私は恥ずかしながら本書で初めて知りました。そうなると疱瘡神と源為朝との関係が気になりますし、沖縄での為朝伝説との関わりについても、なにか関連がありそうな気もしてきます。
なお不肖私も、同じく島嶼部にありながら、千島とは対極にある与那国島の歴史について、近く刊行される「町史」に執筆させていただく機会を与えられました。私が主題として掲げたのは、沈黙交易の対極にある海上での「お祭り宴会交易」(民族学者安渓遊地氏の聞き取り結果にもとづく、台湾島民と与那国島民との間で繰り広げられたそれ、本ブログ2012年2月5日記事「クブラバリ・トングダ伝説の背景を考える」参照)ですから、交易の形態も対極にあって、その意味でも興味深いのですが、瀬川さんのような軽快な筆致にはほど遠く、昨日ゲラ刷りを点検してもらった妻からは「あなたの文章は相変わらず硬いわね」との寸評をもらってしまいました。
瀬川さんが前著で示した女性の「文身」(イレズミ)の問題も、同じく南西諸島には広まっていたのですが、私は取り扱えていません。瀬川さんの背中を追いかけたいと常々思う私ですが、まだその背中は遠く、本書を読むと、さらに遠く感じられてしまいます。
今週の後半からは、私も奥尻島の青苗遺跡を訪ね、瀬川さんの議論の舞台を垣間見ようと思っています。玉の研究者大賀克彦さんを誘いました。現在は苫小牧市で修行中のN谷君も現地で合流する予定です。
瀬川さんの熱烈なファンであると常々おっしゃっている西川修一さんも当初参加を切望され、瀬川さんとの懇談を楽しみにしていたのですが、勤務の関係もあって今回は断念されました。もちろん私としても、今年でなければ敢行しえない資料調査です。
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どのような仕事も疎かにしない貴殿に、「本の紹介頼むネ」などと気易くお願い(脅迫?)して後悔しています。お忙しいのに(忙しいのか?)長文の紹介をいただき、感謝しております。それにしても、あんな美しい奥様に「相変わらず文章硬いわね」などと直球突っ込まれたら、ちょっと立ち直れそうもありませんが、その点貴殿は打たれ強い!!ある意味感心します。硬質な貴殿の文章に心酔する若人も少なくないであろう、と拝察します
2013/6/5(水) 午後 6:38 [ 沈黙の艦隊 ]
それにしても「お祭り宴会交易」とは愉快ですね。ケガレ祓い=「祭り」ですから、沈黙交易と対極とはいえないのかもしれません。
2013/6/5(水) 午後 6:43 [ 沈黙艦隊 ]
文章の癖って、なかなか直らないものでしょうね。それと与那国の「お祭り宴会交易」ですが、ご指摘のとおり「祓え」の要素も含まれているように思います。本島から派遣されてくる役人に収奪されるのを避けて海に漕ぎ出し、台湾の民を交えて飲み尽くし食い尽くすわけですから。それと普段は、台湾からの襲来に怯えて、海岸で「祓え」の儀式をやってもいるのです。こちらは巨大な草鞋を流すというものですけどね。
2013/6/5(水) 午後 9:04 [ flyingman ]
それと「忙しいのか?」との問いかけは、今年の私には答えづらいですね。なにせ「今年は考古学の研究に専念せよ」との大学からの命令ですから。ですから毎日とても忙しく研究していますが、唯一言えるのは、フラストレーションとだけは無縁だということです。これまで溜めてきたものをどんどん解消しています。大学で夕方帰宅時に「お疲れ様」と声をかけられると、「全然疲れていません!」と返答しています。申し訳ありません。
2013/6/5(水) 午後 9:17 [ flyingman ]
元朝によるアイヌ攻撃
1264年の遠征
アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した。
翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。
ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指している。
この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した]
。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」の初めであり、日本に対する侵攻(文永の役、1274年)より10年早かった。
1284-1286年の連続攻撃
冬に征東招討司による骨嵬征伐が20年ぶりに実行に移されている、その翌年にも元朝は征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・楊兀魯帯(ウロタイ)に命じて骨嵬を攻撃させた。
さらにその翌年(1286年)にも3年続けてアイヌ攻撃が行われた。このときの侵攻では「兵万人・船千艘」を動員したとされ]、前年もほぼ同様の規模であったという。
2014/7/21(月) 午後 0:39 [ 元寇を学び日本を護る ]