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最近、私がはまっている稲束システムと水稲農耕民の歴史にかかわる暫定的な見解を示しておきたいと思います。
水稲農耕民の歴史の中で、原始・古代社会に貨幣の機能をはたした存在の代表格は稲束でした。文化人類学では「限定目的貨幣」と呼ばれ、古代史では「現物通貨」や「穀物貨幣」などと呼ばれています。しかし民俗学をあたってみると、稲束が貨幣の機能を担った時代はもっともっと最近まで続きました。
集落内での交換や取引に金属貨幣(銭貨)をもちいることなどほとんどなかった地域も多かったようです。金属貨幣は、集落内では入手できない商品を街に出かけて買うときにだけ使われたというのです。
この点と深くかかわることがらなのでしょう。私が調査をおこなっている西表島では、金属貨幣を「稲束で買う」という感覚すら普通にあったようです。だから上記の問題は、地域内流通通貨=稲束、地域間流通通貨=銭貨という図式のもとで理解可能です。
稲束が貨幣としての機能を担ったことを証明するもうひとつの側面として重要なのは、租税です。日本の古代では、田租として農民一人から徴収されるのは稲束でした。それは反あたり原則として二束二把というものでした。このようなかたちで徴収される田租でしたから、それは稲束で換算された徴税額だといってもよいでしょう。つまり稲束は、行政にまで深く浸透する貨幣だったといえるわけです。
その後はご承知のとおり、租税は稲束からの脱却が図られたといわれており、脱穀後の榖で換算されたり、畿内では銭納が奨励されたり、といった変化をたどるのですが、稲束は依然として根強く残ります。庸がそうですし、出挙がそうですね。
さらに興味深いのは、古代社会が崩壊して中世へと転換したとき、農民に負荷される租税は、ふたたび稲束を基準にした形態へ戻ることです。山間部など一部の地域では近世でもそうだったようです。水稲農耕民の歴史の中で稲束がいかに重要な役割を演じ、長期にわたって貨幣としての機能を果たしたのか、がよくわかります。
そして問題にしたいのは、出挙です。古代には田租・庸・調とは別に出挙という、稲束の貸し付けと利子をつけた返済制度があったことが知られています。そしてこの出挙こそが、もっとも原初的な租税ではなかったともいわれているのです。ただし古代史学からの言及はそこまでで、「相当古くまでさかのぼる可能性」の洞察にとどまるのです。そこで考古学の出番となります。
まず基本として押さえておきたいことは、出挙とは稲束の再生と循環だという構図です。その際に東南アジア地域での苗代の様相は興味深いものがあります。一部の地域では現在でも苗代への植え付けは、稲穂のまま籾を分蘖させずに並べ置く、「穂植え」という方式をとっているのです。稲束を結わえたワラを解いて、そのまま植え付け、収穫後には再び稲束に戻るのですから、それは稲束の再生そのものですね。
さらに出挙の場合、貸し付けられた稲束(原資)は、理屈上、稲作がもっとも順調に進んだときには約100倍になって再生されることが期待できるのです。そのなかから利息を付けて返納されるわけですから、出挙は現代の私たちの感覚でいうところの投資に近いといえるでしょう。元手をもたない農民にも稲束は貸し付けられたはずですので、それはあきらかに古代の稲作農耕奨励策としての意味をもちます。だから出挙とは、古代の銀行システムだったともいえるでしょう。
では考古学の側からはどのようなアプローチが可能でしょうか。いうまでもありません。稲束と倉の存在が、明確な解答をすでに用意している、そのように考えます。稲束は収穫後に村の共同の倉庫に収められたと考えられています。
もっとも典型的な事例は大阪府の池上曽根遺跡の大型建物跡です。この遺構の周囲からは異様な高密度でプラント・オパールが検出されていますので、まちがいなく稲束の収蔵庫だったとみてよいでしょう。床下にはワラ束が積み上げられた可能性を考えてもよいかと思います。
こうして収蔵された稲束は、次の作付け期を迎えるまでの冬期のあいだ、首長ないし司祭のもとでさまざまな呪術や祭祀が施されたと考えられています。場合によっては鹿の血液を振りまかれるような呪術や、首長ないし司祭者と乙女の聖婚の場ともなり、稲束に宿る榖霊に精気を与える秘技が展開したのかもしれません。さらに各地の民俗例を参照しますと、床下の稲ワラの上で(歌垣の季節でもある)早春の夜間には、若い男女の生殖行為が展開した可能性もありです。
すこし横道にそれますが、なぜ稲籾と生殖行為が関係するのかといえば、「納戸の神」とのかかわりが想起されるからです。のちの時代の独立自営農民の場合でも、翌年の作付けに回される稲束は、夫婦の寝室であった納戸に保管されるのです。つまり冬期に人間側の生殖行為をもって榖霊に活力を与えるという風習は、弥生時代にまでさかのぼらせることが可能だといえ、その場合には集落の中心に建てられた大型建物すなわち稲倉が、そうした儀礼・祭祀行為の舞台として浮上してくるのです。
池上曽根遺跡の大型建物が独立棟持柱建物であって、祖霊祭祀の場であるとも考えられていることは、先に述べた生殖行為だけでなく、祖霊との交換も榖霊への活力の付与として重要な役割を演じたことを示唆するものでしょう。夜間とは他界に開かれた空間でもあったわけですから、そこでの生殖行為は他界の住人である祖霊との交換を意味するものでもあったわけです。各地の民俗例をあたってみますと、稲ワラの上での男女の生殖行為というのも、水稲農耕民にとっては根深い習俗として長らく温存されたことがわかります。
主題に戻します。そうしたさまざまな祭祀を経て翌春の作付け期には、首長ないし司祭から村人たちに向けて稲束は再分配されるとしたらどうなるでしょう。秋には当然稲束として回収されることになりますが、この間、稲束を貸し付けられた村人たちは首長や司祭に対して負債感を負うことになり、その解消のためにも熨斗をつけて借りた分量以上の稲束を返すことに躍起になったはずだと推測できるのです。
こうした稲束の再生をめぐる首長や司祭と民衆との間の駆け引きこそが出挙の原型だといえるのではないでしょうか。
ではその正体とはなにか。みなさんもよくご存じの威信財交換ですね。この場合の稲束は循環型威信財として評価することが可能です。熨斗をできるだけ沢山つけて稲束を返済できた村人は、当然、首長や司祭にたいして威信を獲得することになります。返済後に手元に残った稲束は当然貨幣として、秋に開催される大規模な市の場に持ちこまれ、各種の財との交換に回されることになったでしょう。もちろん食糧として消費されることにもなったでしょう。当然、首長や司祭のもとには利息分の稲束が集積され、それらはさらなる稲束の拡大再生産に回されることになったはずです。
いっぽう負債感を解消できなかったケースもままあったと思います。その場合、村人は首長や司祭に対して完全な負い目を負うことになり、支配下に入らざるをえなくなります。命ぜられるままの従属的な立場におかれてしまうのです。現代の感覚でいうところの税の未納状態ですね。首長や司祭者は、こうして優位な立場と権力を身に帯びることになり、村の支配者として振る舞うことが可能になる、そういった図式を描くことが可能です。
なお古代にしばしば天皇から発せられたという徳政令とはなにか、についても考えておく必要があります。それは就任時や年頭などの節目にあたって支配者側から発せられる、未納税分の完全消滅宣言なのですが、それこそがポトラッチです。弥生時代にも同じ図式は当然適用できるでしょう。つまり首長や司祭は、こうした徳政令の発動権を一手に掌握する存在でもあるわけですから、未納税分の蓄積すら首長や司祭にとっては願ってもないほど効果的な威信の獲得手段ともなったはずなのです。そうなったら、もう完全な支配者ですね。
いいかえれば、なぜ首長制社会のもとで首長や司祭が世襲制になるのか、出挙の原型を弥生時代にもとめると、このあたりの問題に踏み込めることになるとも考えます。ひとことでいえば親の世代が首長に対して負った負債感の累積が、かれの息子を次世代の首長や司祭に押し上げさせる、そのような作用をはたすからにほかなりません。
なお銭貨は国家的威信財ともいわれ、故鈴木公雄先生は銭貨をさして「手のひらのなかの国家」と呼びました。稲束が貨幣としての機能をもつとすれば、当然稲束も威信財としての振る舞いを社会のなかで演じたはずなのですが、上記の推論は、やや異なった側面からではあるものの、稲束が威信財交換の場面で非常に重要な役割を演じただけでなく、それが租税の原初形態にもなったことを示すものだと思います。
私は稲束をめぐる上記の駆け引きを指して「稲束威信財システム」と呼びたいと思います。
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H様
随分、色んな方向に取り組まれているご様子。
浅田真央みたいで、傍から見ていても力が入ります。
昨年末はお世話様でした。
稲束威信材システムですか。考えもしなかったな〜(と遠い目)
収穫物に対する権利(所有)は弥生当初、水稲栽培が始まった時期にはどうなっていたのでしょうかね。脱稿を楽しみにしています。
2014/2/22(土) 午後 3:35 [ oddman ]
北條先生
「威信財」は首長が外部より入手して配布するものとの概念の利用がほとんどですね。威信財交易、威信財貿易、威信財交換などの概念をもっと主張していただきたいですね。
藤盛
2014/2/24(月) 午前 9:53 [ tos*ifj** ]
oddmanさま、コメントありがとうございます。威信財システムが首長層などのごく限定された階層にのみ現れる、といったような限定的なとらえかたではなく、もっと普遍的なとらえ方をしなければ全体構図は描けない、との思いで現在取り組んでいます。近いうちに宮??を訪問させていただきたく思います。パタリロ先生のご都合次第ですが。
藤盛さま、コメントありがとうございます。趣旨は先に示したとおりです。威信財システムを現在の学界情勢とは切り離してでも前に進めることが肝要かと私も考えます。
2014/2/24(月) 午後 7:35 [ flyingman ]
今、本日の訪問カウントをみて驚かされています。400を優に超えているではありませんか!。日本考古学協会の蔵書問題以来の??カウント数で、ご訪問くださった方々に感謝申しあげます。じつは明後日には、奈良県田原本町教育委員会の藤田さんにお願いして、稲束の数を数えるという試みをおこないます。その速報をご期待ください。
ただしその速報の前に、横浜で昨日と一昨日におこなった研究会の記事が入ります。若手の研究者が頑張っている様子に、感銘を承けたものですから、考古学も21世紀への飛躍が自信を持って期待できる、そう思いました。ともかく、ご訪問に心から感謝申しあげます。
2014/2/24(月) 午後 7:53 [ flyingman ]
おはようございます。
先日の電話はこれですね。
大変に興味深いです。
ただ気になったのは、ここで「威信財」概念を適用するのは適当か否かです。
日常財(生活必需財)と威信財をつなぐものとして機能した可能性はありますが、「威信財」そのものとするのはいかがでしょうか?
2014/2/25(火) 午前 8:17 [ nan*ts*2002 ]
先日お電話差し上げた際には、まだ稲束システムの基礎部分を整理する段階での問い合わせでした。明日、唐古・鍵遺跡で稲束の数を数えさせていただきます。問題の威信財概念を稲束に適用すべきかどうかですが、まず問題は、稲束がはたして日常財だったかどうかです。貨幣としての機能をみれば、むしろ交換財の最重要物品であり、食品としては主食ではなく贅沢品に該当するものだったとみたほうが自然ではないか、そのように考えるものです。
「稲作悲願民」という言葉どおりで、食材ではあるものの、簡単に食することはできない存在として稲束システムを位置づけます。ですから、稲作とは貨幣生産であったといったほうがわかりやすいのかもしれません。そのような意味で、稲束は普遍的な交換価値の付与された威信財の代表だったと考えるものです。いかがでしょうか。
2014/2/25(火) 午後 0:33 [ flyingman ]
「貨幣」が「威信財」なんですか?
経済人類学の学史を踏まえた議論の展開を希望します。
2014/2/26(水) 午前 8:27 [ nan*ts*2002 ]
マルセル・モースやポランニーあたりでしょうか。ただしヨーロッパ発の学史に拘泥することは避けたいと思います。さらに貨幣経済と威信財交換を対置して考えてきた学史は、たんなる誤認でしょうから取り扱いを避けます。むしろ経済史学の黒田明伸氏の研究や、本文でも紹介した鈴木公雄先生の銭貨論に重点を置きたいと思います。
2014/2/27(木) 午後 6:36 [ flyingman ]
威信財交換や、貨幣の起源を扱う以上、モースやポランニー、あるいはゴドリエは避けられないはずですが?
日本文化史論だけで閉じた話ではないはずですよ。
2014/2/28(金) 午前 1:12 [ nan*ts*2002 ]
>貨幣経済と威信財交換を対置して考えてきた学史
ポランニーがそんなこと言っていますでしょうか?
また、ある社会において、(限定的な)「貨幣」があるとしても、「貨幣経済」であるかどうかはまた別の話ではないですか?
2014/2/28(金) 午前 1:19 [ nan*ts*2002 ]
マーシャル・サーリンズを落としていました。大事な学史ですね。ただし私が「ヨーロッパ発の学史に拘泥することは避けたい」と申し上げた理由は「日本文化史論だけで閉じた話ではない」という主張の両面性を問題にするからです。彼らが理論を構築する際に依拠した原資料はヨーロッパでしょうか。そうではなく南太平洋島嶼部やアメリカ大陸ですね。だとすると事前に観察者の側からのバイアスのかかった理論が構築された可能性は大です。もちろん現象に与えた彼らの用語法は踏襲します。着眼点のヒントについても同様です。しかし同時に拘泥は避けるべきだと思います。翻訳的な考察になってしまうのと同時に、誤認や一面的な理解をも翻訳してしまいかねないからです。むしろアジア人である私たちが、足下でもある現地の原資料から直接引き出し、理論構築を目指すほうが、つまり東や南を含むアジア地域の伝統的習俗や習慣を、私たち自らがみつめながら日本文化を適切に把握するという方向性のほうが、むしろ有望であるという図式が構想されてくるのです。先に紹介した黒田氏や鈴木先生は、さらに今回の議論で私が多くを負う安渓遊地さんは、そういった手法を採られた方々です。
2014/2/28(金) 午後 2:53 [ flyingman ]
>彼らが理論を構築する際に依拠した原資料はヨーロッパでしょうか。
>そうではなく南太平洋島嶼部やアメリカ大陸ですね。
ポランニーについては、古代ギリシアから、中世および近代ヨーロッパ、大航海時代のヨーロッパが接触したアフリカ諸王国、古代オリエントなど、分析対象範囲はきわめて広く通文化的、全歴史的であり、上記の指摘は見当外れですよ?
2014/2/28(金) 午後 11:29 [ nan*ts*2002 ]
完全な的外れかどうかについては異論があります。それとポランニーの議論を那の津さまはどう評価されますか?今出先であるために特定の著作を思い出せないのですが、私には評価不能でした。今回の議論に深く関わる部分があるのでしたらご教示いただければ助かります。それとコメントの主題は、私の議論の展開に(ヨーロッパ発の、と私が限定した)経済人類学の学史への目配せがなぜ必要なのか、ではなかったですか。おそらく威信財交換の問題ではなかったかと思うのですが。この点について、貨幣経済との対置において威信財交換が注目されたとの私の見解を示したところ、学史への無理解を那の津さまは指摘されたものと認識しております。そのような学史はないと。では黒田氏や鈴木先生の貨幣論をどう位置づけるのか、私自身の議論の基礎は、こちらに重きを置いていることを再三述べました。そしてそここそが問題の核心であろうと思うのです。いかがでしょうか。
2014/3/1(土) 午前 0:48 [ flyingman ]
ちょっと待ってくださいよ?
「威信財経済」「威信財交換」という概念や議論自体、欧米の文化人類学からの概念ではないですか?
また貨幣の起源と意味に関して、東アジアにとどまらない通文化的考察は意味があるし必要と思いますが。
また、稲束が貨幣であり、かつ威信財であるとするなら、理論的整理は必要だろうと申しいるだけでで、実際のところ今回の議論を否定しようとしているわけではありませんので(むしろ大変な関心を寄せています)、誤解なきようにお願いします。
また「威信財」という概念、用語については、最近はI村氏やS垣氏のような批判的言辞があることにも留意する必要があります。その上でも理論的整理が必要と考えます。
2014/3/1(土) 午前 1:26 [ nan*ts*2002 ]
またポランニーに関しては、栗本慎一郎による学説全体の概説的整理がいくつかあり、そこから著作(『制度化された過程としての経済』など)の該当関連箇所をたどるのがよろしいかと思います。
貨幣の起源論や意味論に関しては、今村仁司によるの著作論考が参考になるでしょう。今村氏の議論を参考にすると、稲束を「貨幣」とした場合、「威信財」よりも「象徴財」としての「聖なる貨幣」とした方が要らぬ誤解(?)が少ないと思います。
2014/3/1(土) 午前 1:27 [ nan*ts*2002 ]
市場経済以前の貨幣については、カール・ポランニー『人間の経済?』所収「原始貨幣に関するノート」をご参考に。
またブログ主様が引用される、黒田氏、鈴木氏の文献についてもご教示ください。
2014/3/1(土) 午前 8:01 [ nan*ts*2002 ]
ポランニーにつきましては、ご指摘の文献にあたった記憶があります。今村仁司氏の文献についても2著あたっています。前者についての受け止めについては先にコメントしたとおりですが、後者については多くの刺激を受けました。なお黒田明伸氏の議論については『貨幣システムの世界史』2003,岩波書店、『中華帝国の構造と世界経済』1994,名古屋大学出版会が代表的かと思います。故鈴木公雄先生の著作については「手のひらの中の国家」『考古学はどんな学問か』(慶応大学出版)を今回の議論では引用しました。銭貨論については、今手元になく著作名を思い出せませんが、かなり有名な著作がありますよね。
2014/3/1(土) 午前 9:18 [ flyingman ]
次に稲束は貨幣だという理解に対し理論的整理が必要か否かについてですが、日本古代史・中世史と日本考古学との間で理解に大きな断絶がある、という不可思議な現象を説明することで足りる、という側面があるようです。つまりコメは貨幣であるという認識は、古代史以降の研究者間では通説というより常識的な見解で、コメの前に脱穀前の頴稲がそれを担っていたであろうとの理解や、頴稲が稲束であろうとの理解についても同様です。なぜ貨幣なのかといえば、交易や交換にあたっての換算基準になったと同時に、つねに優位な立場にあって、租税でもあったからです。だとしたら、私の主張は弥生時代に遡って稲束が交易対象品であったこと、社会のなかで特段に重要視される農産物であったことを明示できれば済む、ということに理屈上はなるのです。いいかえるとすでに解答は用意されていて、見方を少し変えてみるだけで大方のところは整理できるのです。その基礎認識に立った上での理論の整理、というより用語法の点検はご指摘のように少し必要でしょう。
2014/3/1(土) 午前 9:39 [ flyingman ]
なお現在の日本考古学における威信財交換概念(私が「交換」を入れていることの含意をお汲み取りください)の適用に関わる議論については、もちろん承知しております。しかしごく限定的で表層的な受け止めが目立つ点に大きな問題を感じているところです。たとえば首長間の関係や三角縁神獣鏡などに適用を限るべきだなどという議論は、その最たるものでしょう。
そのような硬直化を防ぎ、より実態に即した歴史像を構築する方向を目指すという意味でも、稲束は貨幣であったと理解できる以上威信財でもあった、という主張を展開したいのです。
2014/3/1(土) 午前 9:43 [ flyingman ]
那の津さま、今ネットで調べ、鈴木公雄先生の著作を思い出しました『出土銭貨の研究』1999,東京大学出版会でした。それと先に紹介した黒田氏の著作に関連してですが、三上喜孝氏の『日本古代の貨幣と社会』2005,吉川弘文館も参考になります。若い方のようですが、黒田氏の見解と響き合っています。
2014/3/1(土) 午前 9:56 [ flyingman ]