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本日から授業の合間を縫って、プレハブを加工場にゴホウラ貝輪の制作を始めました。先日西表島のS藤さんから素材をお送りいただいたので、これと対峙しようというわけです。電動器具を使用するというのが反則であることは重々承知しておりますが、現在抱え込んでいる石製品がらみの原稿の内容に少しでも当事者感覚を持たせるための苦渋の策です。 |
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こんにちは、ゲストさん
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本日から授業の合間を縫って、プレハブを加工場にゴホウラ貝輪の制作を始めました。先日西表島のS藤さんから素材をお送りいただいたので、これと対峙しようというわけです。電動器具を使用するというのが反則であることは重々承知しておりますが、現在抱え込んでいる石製品がらみの原稿の内容に少しでも当事者感覚を持たせるための苦渋の策です。 |
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はじめまして、先祖が秦野市から出た大分居住のものです。かねがねご本は沢山読ませていただいております。
ゴホウラガイ加工品遺物についてひとつ知りたいことがあります。
九州の橋口先生などはゴホウラの横から輪切りにした形状が巴形で。そこから孤文、孤帯文、蕨手文などさまざまの模様が生じてきたという説を展開しておられますが、では実際にゴホウラ横断した具体的遺物は出ていないように見受けます。いかがなものでしょうか?
2011/1/26(水) 午前 8:43 [ Kawakatu ]
コメントありがとうございます。ご指摘のとおりです。そのような遺物は未見です。ゴホウラの横割貝輪の実在を承知しておりませんし、殻の厚みをみれば、横割りは縦割りとは比較にならないほどの大変な労力を要するので、弥生人も選択しなかった可能性が大だと思います。
強いていうなら、イモガイの胴部を横に切断した際には、その断面は巴形を呈することになり、横割り貝輪を作製する過程では橋口氏のいうような巴形を意識する機会はあった、とまではいえるでしょう。もちろん、イモガイの場合、外舌部の比率はわずかなので、円形の比率が非常に勝った不格好な巴形ですが。
2011/1/26(水) 午前 11:31 [ flyingman ]
回答感謝申し上げます。
やはり横断ゴホウラは出ていませんか・・・。そしてゴホウラ貝殻は横には切りにくい・・・丁寧な説明でわかりやすいです。
橋口さんのゴホウラ切断面からの巴形派生はかんり魅力的ですが、ぼくもどうもここが弱点かなと見ています。しかし想像は可能だという先生の解説はかなり援けになります。
イモガイはゴホウラのような肉厚の外舌部がない分、渦巻きになってしまいますね。自分はもっと南海でしか採れないスイジガイがほとんど稀少だったゆえにゴホウラで代用したのが北部九州弥生時代人だったと感じます。そのゴホウラの現物でさえ、なかなか畿内までは入らない。そこで畿内では模様にしたのではないでしょうか?纒向の孤文円盤はそういう弥生の北部九州の好みが吉備・播磨・大和に入っっていったというあかしだと感じています。
TB勝手にしています。 Kawakatu
2011/1/26(水) 午後 11:36 [ Kawakatu ]
先生は秦野のような関東から瀬戸内を見ておられますね。秦野は海人系波多野氏から来ている地名だと思いますので、瀬戸内の海人族である河野・村上・越智などの大三島信仰を持った人々と、しまなみ海道を使った吉備児島や牛窓への往復交易や塩の交易などもご存知かと思いました。『古墳時代の開始と社会変革』を読み、記事が二つ書けたのは二年前のことでした。ありがとうございました。
2011/1/26(水) 午後 11:37 [ Kawakatu ]
kawakatuさま、ご返答ありがとうございます。私自身は、橋口氏の貝断面形=弧文円盤の祖型説には賛同しえないという見解をとっています。吉備地域の弧帯文発生説の方になります。それが特殊器台の向木見型の時点で個別巴形になり、基本モチーフとして派生したものが纏向の弧文円盤に、という道筋の方に軍配を上げられるかと。
もうひとつ補足させていただきますと、ゴホウラとスイジでは、スイジガイの方が生息域も北に寄っており、生息深度も浅く、再生力も強いようですので、ゴホウラガイがもっとも希少性の高い貝種になります。ですので、北部九州弥生人は、もっとも希少性の高い貝種を選んで乱獲に近い多量消費をおこなったのだと理解しております。このあたりの問題もはやく活字にしなければならないな、と感じている今日この頃です。
2011/1/27(木) 午前 0:17 [ flyingman ]
う〜ん、先生は反対でしたか。
自分としては、吉備でいきなり孤帯文・孤文が開始されたことがどうも納得できなくて、そのデザインの源流を見つけたい。そこへちょうど橋口先生のゴホウラ切り取り説を見つけたので、「これだ!」となった。ま、素人のあさはかさですが、それにしてもゴホウラは実にそっくりです。もちろん貝ならばイモガイでもかまわないわけですが、例の大きな外舌部の襞がない貝では孤文のような形状にはいかないだろうと見えます。難しいなあ!
先生のゴホウラ関連の出版物が出るのを楽しみにしております。
2011/1/27(木) 午前 9:41 [ Kawakatu ]
詳細な解説をしないまま意見を申し上げました。私が重視する点は、纏向遺跡弧文円盤に刻まれた帯表現の基本単位は様式的に定型化しつつあって直弧文との親密さを見せるのに対し、楯築弧帯文石の帯表現の方は帯そのもので、上下に折り重なった、忠実な巻き込みの表現だとみなされる点です。文様の変遷の一般論として、様式化を遂げていない写実性の高いものが、より原初的な様相だと考えられますので、楯築が初源的で、その後の様式化の過程で立坂型を介し纏向弧文円盤も派生したものとおおまかな図式を描いています。それを畿内が一元的中心だと前提して考えると、纏向の報告書で開示されたとおりの逆の図式になり、吉備地域の方へは波状的な影響が生じたということになります。特殊器台の発生地が吉備地域であることと、その型式変化を重視すると、畿内中心一元論のような理解には賛同しかねるところです。
2011/1/27(木) 午前 11:14 [ flyingman ]
再度補足します。橋口さんのゴホウラ断面説は、吉備地域初源説ではなく畿内起源説でもなく、北部九州起源説を提示した点でまことに重要だと思います。
その意味では、楯築弥生墳丘墓と、こそに持ち込まれた弧帯文石の由来を、北部九州地域をも考慮しながら解明することが先決になりそうだと思っています。要するに纏向遺跡の出現や成立に、北部九州地域と吉備地域がどう主体的に関与したか、という問いかけになるかと。
その点で注目されるのが、福岡市雀居遺跡出土の木製短甲です。立坂型の帯文表現が刻まれており、楯築との親和性が濃厚です。本例を参照すると、北部九州起源説は、橋口さんの提示した具体的根拠とは別に、吉備地域との連携性という形で充分に成り立つ可能性があるといえるのではないでしょうか。
2011/1/27(木) 午前 11:32 [ flyingman ]
ああ、コメントに岡安さんがこられているですね。久しぶりだなあ。
畿内中心一元論には自分も反対です。自分は今、纒向などではない別の場所を模索中です。おっしゃっていることは、自分の疑問点とまったく同じ方向だと見えました。心強いです。
さて直孤文ですが、自分の地元別府大学のT君(助教授)は装飾古墳の絵柄は、場合によってはですが、死者の肉体の魔よけよりもむしろ「帰ってこないように」貼り付けたものがある。ようなことを言っています。この考え方は自分も数年前に「直孤文は地元九州の人々が、大和から派遣されて来た国造、知事クラスに対し封じ込める意味で貼った可能性もある」という考えをブログに書いておりまして、仲間を得た気になったものでした。これが最後の質問です。先生はいかがお感じになりますでしょう?ここまでのおつきあい、まさかしていただけるとは思っても見ませんでした。自分は先生夜少し年長ですが、九州説や大和説には安易に準じられない、むしろ過去の学説には不満が多すぎる気がします。どうもどちうらも地元に偏り恣意的だとしか見えないのです。ありがとうございました。
2011/1/27(木) 午後 3:05 [ Kawakatu ]
興味深い考え方ですね。装飾古墳の絵柄のうち双脚輪状文はスイジガイの簡略化されたモチーフであることを、私の大学院生でいらっしゃる加藤俊平さんが解明しており、『考古学研究』の研究ノートで開示されております。そのスイジガイは魔除けの意味で軒に吊されるという民俗例がありますが、問題は防御正面がどちらなのか、です。
民俗例では当然屋外が防御正面です。石室の装飾も遺体側を正面とするものであれば、ご指摘のとおりの解釈も充分に成り立ちます。靭なども類似した解釈を適用することが可能でしょう。要するに死後の霊が妙な作用を後生の人々に及ぼさないようにと石室内への封じ込めを意図したものと考えることが可能です。前期古墳を含め、通時的にありうることだと思います。その意味では、ご指摘の解釈も、さほど実態と乖離したものとは言えないでしょう。ただし被葬者像を派遣された余所者と断定できるかどうか、そのあたりはわかりません。
なお装飾古墳の場合、奥壁に描かれる船と二重円が主題ではないか、との研究を私のゼミの卒業論文で書いてくれた学生が今年おり、それも興味深い視座だと思うのです。
2011/1/27(木) 午後 5:37 [ flyingman ]
いわゆる「天鳥船」と「太陽」ということだと思いますが、円文は太陽もさることながら、まず「的」だったと考えています。弓矢の的=太陽だと思うのですが、その源流は中国などにある「的矢神話」に求められないか?つまり十個の太陽を弓矢で落とす射日神話です。
装飾が魔除けだろうことは、茨城県の鴨志田先生も講演で似たような話をされていました。その魔除け観念というのは自分は、魂魄という観念ですが、そういうふるい民間信仰に求めます。魂と魄がたましいにはあって、魂は鳥が運び去るが、魄は居残り、肉体を守護し、再生されて魂が戻ってくる肉体を保持しようとしているというものです。これも中国の記録があります。すると装飾横穴墓などに刻み込まれている両手を広げた人物(熊本県鍋田横穴)などがどうやら石人の役割を持たされたオブジェだと気づくわけです。あれは「だいた」という名前のおそらくダイダラボッチに発展する・・・つまり猿田彦のごとき「さえぎ」の神になるんだと思います。要するに道祖神、さえぎる神なので「サイの神」になると。
2011/1/28(金) 午前 8:29 [ Kawakatu ]
だから装飾古墳の意味合いには二種類があると考えるのです。現地のものには再生を願うが、よそから来た為政者には逆の願い・・・
線刻の中に葉っぱを刻んだものがあって、そこらの地名にも「くさば」などがあったりします(豊前草場村など)が、あれにも上向きと下向きがあるのも、もしかするとそういう意味があるかな、などと妄想しております。^^
2011/1/28(金) 午前 8:36 [ Kawakatu ]
双脚輪状文はまず間違いなしにスイジガイでしょうね。そして宇佐市の貴船平下横穴墓の六脚輪状文もまったくスイジガイの形です。あそこはもうひとつ赤い装飾があるものを見つけましたが、そっちは同心円文でした。
スイジガイを外にかけておく風習は確か沖縄に残っていた気がします。それは本土では籠を棒にかけておく魔除け観念に共通しますし、諏訪地方の風切りの包丁を屋根に置くのとも共通でしょうね。
西洋でもヒイラギをツリーにしますね。とげとげが魔を除くという民間信仰でしょう。そういう人間の発想には洋の東西はないですから。
2011/1/28(金) 午前 8:45 [ Kawakatu ]
「古事記」の倭建命の段に出てくる、景行天皇から賜った「比比羅木之八尋矛」も関連する事象ですね。荒ぶる神を「言向」する際の必需品がこの矛だと読めますので、先端にヒイラギの葉をつけた長い棒をかざすことで鎮めの効果が期待できるとの信仰は、8世紀代の倭人にとっても祭儀上受け入れられたものであることがわかります。もし双脚輪状文埴輪に付託された観念がこのヒイラギ矛と同等ないし高度な親和性をもつと証明することができるなら、ヒイラギとスイジガイとの両者に付託された呪的意味を関連づけることも可能になるかと思います。
2011/1/28(金) 午後 1:29 [ flyingman ]
ああ!ヤマトタケルの「ヒヒラギ」の矛です!
確か以前、検索で福岡の王塚古墳にある杏葉に、そのヒイラギを象ったものがるということを知りました。あくまで馬具でしたので、『古事記』にある「矛」ではないから、面白い説として記述した覚えがあります。そのサイトは王塚被葬者のヤマトタケルであることを言いたかったようでした。^^;しかしなくはないなとも見えますよね?
双脚輪状文の円文部分周囲にある内行花紋のような、太陽の輝きのいようなとげとげが、最初は太陽光、あるいはメダルの輝きかと見て、ならば下部の2本の脚部分は金印紫綬のリボンかなくらいに思っておりました。しかしゴホウラであった場合、とても具体的になってきますね。どちらにしてもどれもが氏族のステータスであるのなら、やはり祖霊の依り代となるべき被葬者の肉体を守る魔除けであろうかと感じますし、その中の特にゴホウラ巴形が吉備や纒向というゴホウラ現物が届かない地域では孤文などに使われていたことに確定されれば、鏡ばかりで思考してこられた大和説には大きな方向転換を指し示す事件になろうかと思います。今後の展開、楽しみにしております。
2011/1/29(土) 午前 9:02 [ Kawakatu ]