|
瀬川拓郎さんのブログ「北の考古学」で紹介されていた法政大学での「古代末期の境界世界ー石江遺跡群と城久遺跡群を中心としてー」に参加してきました。
本当は岡山の考古学研究会に行かなければならないところだったのですが、遠いし、こちらのシンポジウムのテーマがどうしても気になるし、大先輩格でなにかとお世話になっている安里進さんにもご挨拶したいし、で、こうなりました。
1日目の今日(日が変わったので正確には昨日)は、南西諸島。喜界島で発見された城久遺跡の歴史的評価をめぐる議論が中心でした。
記念講演や基調報告を含む8本の報告のなかで抜群に面白かったのは、やはり安里さんの琉球国家形成過程の話しでした。遺跡のスライド写真ももちろん有益でしたが、テーマから連想される議論の方向性とのマッチングは安里さんの報告がダントツでした。というわけで、写真は安里さんのお示しになったスライドが中心です。印象的なスライドを2枚アップさせていただきます。特に下のスライドは重要度満点です。キーワードは「2つの口」です。ちなみに江戸時代は四つの口です。
なお安里さんの論争相手である奄美市立奄美博物館の高梨修氏の議論も以前から気にしておりましたので、期待したのですが、今日は修辞に走っていらっしゃる観があって、対立軸の基本(というか歴史認識や空間認識)に立ち戻った論争を伺いたいところでした。
シンポジウムを聞いての個人的な感想を述べると次のようになります。すなわち城久遺跡を大宰府の出先として位置づけ国家的な施設としてみなす方向性を前提とするのであれば、現時点であっても掘り下げるべき側面がいくつもあるはずなのに、そこには踏み込まないまま歴史的意義については印象だけが語られたので、平板で深みのない議論に終始した観がありました。
さらに「なぜ琉球には国家ができたのに奄美には国家ができなかったのか?」などという問いかけが真面目になされたことには唖然とさせられてしまいました。
提示された諸情報をまとめて議論をごく単純化するなら、年代的には琉球国家形成期におけるグスクと城久遺跡(遺跡の読みもグスク)の連動性が指摘できるのです。さらには琉球王朝の成立とともに城久遺跡は歴史的な使命を終えるかのようにもみえるのです。
国家的な施設であって太宰府の出先である可能性すら指摘できるのであれば、そもそも太宰府とは日本の国家にとってどのような性格の施設として成立し機能したのか、そことの連動性のもとで城久遺跡を把握する必要がある、というのは当然検討されるべき課題なのです。そのあたりがまったく問われない議論には、はやり不満が残りました。その反面、バウンダリーとかフロンティアとかの、瀬川さんも駆使する最近なじみの用語だけは頻繁に登場してくるのですから、話しの中身との落差にも驚かされた次第です。
そんなこんなで不満が募ってしまい、シンポジウムのところでは、おもわずでしゃばって会場からコメントしてしまいましたが、おそらく壇上の方々に私の声は届かなかったのでしょう。そしてもしそうなら、このネタは私がいただくことにします。
こういうことにこらえ性がなくなったのは歳のせいかもしれません。いうまでもなく主催者側のご苦労はよくわかるので、以上は気楽な立場の参加者からみた勝手な印象です。
もちろんシンポジウムでの収穫はありました。安里さんに御礼かたがた久しぶりにご挨拶できたこと、高梨さんに初めて直接ご挨拶できたこと、鹿児島大学の新里貴之さんに貴重な情報をいただけたことです。慶応大学の名島弥生さんとK林君に会えていろいろと話しができたのも収穫でした。
北海道埋蔵文化財センターの越田さんも参加なさっていたのには驚かされました。さすがです。
明日(正確には今日)も是非参加したかったのですが、私は残念ながら入試業務です。
|
参加できず残念でしたが、シンポジウムの雰囲気はわかりました。ありがとうございます。
2009/11/15(日) 午前 7:32 [ walkingman ]
本日もようやく業務が終了しました。2日目の議論はそろそろ終盤なのでしょう。聞けず終いだったことが惜しまれます。
2009/11/15(日) 午後 3:09 [ flyingman ]
1450年(宝徳2年)から1462年(寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。
1466年(文正元年)に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた。
2017/9/9(土) 午後 3:50 [ 奄美は人も自然も食物も良かった ]