私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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山辺赤人墓にて

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本日12月13日の金曜日は、朝から冷え込み曇りがちでした。予期せぬ知人の死を知らされ、榛原に向かいました。

唐古・鍵遺跡についてちょっとした発見があったものですから、彼にも話しを是非聞いてもらいたいと思っていたのですが、叶わぬことになりました。

水曜日にお邪魔した田原本町教育委員会で、藤田さんから訃報を聞かされ、動揺を隠せませんでした。

彼とは四国で何度かお会いし、弥生土器についていろいろと教えて頂いた思い出があります。その真面目で真摯な姿勢が印象深く刻みつけられており、その後も彼の論文には何度か眼を通させて頂きました。

冷たい雨が降るなか、思い立って式の後に訪れたのが山辺赤人の墓です。額井岳の東の斜面にあって、今は五輪塔が建てられていますが、万葉歌人の墓として地元の方々から慕われているようです。周囲は薄霧に包まれて、沈む想いを深みへと誘うかのようでした。

救いだったのは奈良への帰り道、雨の合間に龍王山の山並みに向けて、西から大きな虹がかかっていたことです。

奈良も本格的に冷え込んできて、冬に入ったことを実感させます。

12月7日の準備

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本日は朝から腕輪形石製品関連の資料整理とKeynoteづくりに励みました。イベントは来月7日に滋賀県草津市役所で開催される予定だとうかがっている「第29回草津市遺跡調査報告会 草津の古代を掘る2013〜中沢遺跡出土鍬形石にみる古墳時代の近江と草津〜」で、昨年中沢遺跡から出土した鍬形石に関する評価をめぐってのシンポジウムです。

調査担当者の北中恭裕さんからのご依頼で、私にも60分の講演を割り振っていただきました。

当日は北中さんが遺跡の概要や鍬形石の出土状況についてのご報告をなさった後、滋賀県文化財保護協会の細川修平氏や、栗東市の近藤広さんも演壇に立つ予定だとのことです。

私が担当する講演の題目は「中沢遺跡出土の鍬形石」で、鍬形石とはどのような性格の遺物なのか、なぜ古墳への副葬品としてではなく、溝へ投棄されたかのような”そっけない”出土状況を示すのか、似た出土状況を示す奈良県平等坊・岩室遺跡との関係はどのようなものか、という3項目に関する解答を求められています。

鍬形石とはなにか、この4月からの特別休暇を利用し、祖型貝輪の実情を理解すべく沖縄と九州の関連資料を見て歩きましたので、次回の講演では、その調査成果の「まとめ」を紹介させていただくことにしたいと思い、あれこれと写真類を引っ張り出してはスライドに貼り付けました。

要するに弥生時代以来、ゴホウラ腹面貝輪は一貫して死者に装着する腕輪であり、倭王権はその基本的性格を踏襲し、古墳祭祀に組み入れたという理解が可能だということ(つまり南方系の葬送習俗が象徴化されて古墳祭祀に組み込まれ、鏡や武器・工具の副葬に代表される北方系葬送習俗との混合ないし融合になったという理解)です。さらに腕輪形石製品は貝輪の代用品であったと同時に、素材は玉との共通性を帯びるので、集落や“首長居館”で執り行われる祭祀にも投じられる宿命にあったという内容になります。

また平等坊・岩室遺跡出土鍬形石との関係については、共に材質4だという点で一致しますし、奈良市菅原東遺跡出土の車輪石も材質4ですから、前期後半の奈良盆地一帯の動向のなかでこれらの資料は理解可能だという点と、なぜもう一点が草津なのかについては、同遺跡出土の伊勢湾型二重口縁壺や子持ち勾玉、それに滑石製模造品が鍵になるという趣旨の話になるかと思います。要するに原東山道の起点としての重要性を帯び始めていたのであろう、ということです。

車輪石の祖型はゴホウラ背面貝輪だという提言や、材質の整理が腕輪形石製品の編年の基礎になるといった点についても時間が許す限り触れようかと思います。

気がつけばいつしか日没となり、作製したスライドは40枚を越えてしまったので、これではとうてい60分間に収まりません。これからスリム化を試みなければならないようです。60分間の講演ですから、どうやっても30枚が限度でしょうね。先週もなす風土記の丘資料館では、「速すぎて着いていけない」との苦情が寄せられたところですし。

私の報告はともかく、細川氏や近藤さんの報告を通して、滋賀県域の古墳時代前期の腕輪形石製品や玉類に関する最新の調査・研究状況を知ることができるよい機会になりますので、石製品オタクとしての気持ちがうずき、実は楽しみです。

ともかく気分転換にと、夕食をとった後には、部屋の窓の目の前に見える、暖簾がたなびく例の銭湯「勇湯」に誘われることとなり、大学を後にしました。

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昨日は三重県の能褒野で陵墓限定公開があり、私は日本考古学協会の“地元枠”で参加させていただくことになりました。協会の陵墓担当理事は森岡秀人さんと菊地芳朗さんで、JR井田川駅からタクシーで現地に向かうという約束だったのですが、途中の柘植駅で草津線から乗り換えてきた森岡さんと偶然合流することになりました。

この機会を逃すまいと、さっそく車中で弥生文化論の個人授業をお願いすることに。主題は次の3項目でした。

その1) 弥生時代のコメは基本的に貨幣(商品貨幣・限定目的貨幣)であったとしたら、食糧依存度の問題は別の側面からの捉え直しが可能になるが、そのような提言は妥当性をもつか。

その2) 弥生文化とは交換価値の高いコメと布を構造的・組織的に増産することを通じて地域間の交易を活性化させるものであったと考えた場合に、土器様式の地域性が顕在化したり広域化したりする現象はどう理解可能か。

その3) コメと布の構造的増産とは、稲籾を男が作り、布を女が織るという男女分業の創出と固定化を意味するが、それが祭祀の構造にどのように組み込まれたと考えられるか。

ごく抽象的な議論に思われるかも知れませんが、森岡さんにご教示をお願いする場合には、この程度に一般化しつつ論点を絞り込んだほうが有効なので、そうしました。

議論は井田川駅を降りてからも終わりませんでしたので、近々に再度機会を設けてご教示を乞うことにします。

幸い、森岡さんも上記の問題群には以前から関心をお持ちだとコメントしてくださいましたし、森岡さんの近著を拝読するかぎり、私にもその確信はありましたので、短い時間でしたが非常に有益でした。

なによりも唐古・鍵遺跡の機能と性格について、私が抱いた素朴な疑問は、近畿の弥生時代研究者を代表する立場の森岡さんにも伝わることを確認できたことは最大の収穫でした。

盆地の中央部というすべての水が集まる一帯が初期水稲農耕の適地であったはずはなく、むしろ不適地の典型だったという理解は、やはり妥当だし、だからこそこの遺跡には、さまざまな非日常性が凝集され、喧噪に満ちたマーケットの場として周辺山際の農耕集落からは「見くだされつつ」繁栄し続けたのだ、という解釈を今後詰めてゆきたいと思うのです。

宮内庁の担当者による丁寧な解説に耳を傾けながら、このようなことを考え続けておりました。

30分の1マルシ

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今年の稲の収穫の季節ももう少しで終ろうとしています。先日訪れた静岡市登呂遺跡の復元水田でも収穫が始まっていました。そこで今回は、稲籾の話題を提供することにします。

奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡からは稲束が2例出土しています。その束をみてすぐに思い至ったのが表題の単位でした。なんの単位かといえば、沖縄八重山地域で20世紀の前半までは流通していた現地通貨ないし限定目的貨幣としての稲束のそれ、です。

八重山地域では日常的な交易に金属貨幣などは使用せず、その代わりに稲束をもちいることがままありました。委細は人類学者安渓遊地先生がその著作『西表島の農耕文化-海上の道の発見-』(法政大学出版局)で解説なさっています。

稲籾は日本列島の歴史において、長らく貨幣としての役割を演じてきました。租の基本であっただけでなく、近世の幕藩体制下では武士の家禄も稲籾で換算されました。水稲農耕民ならではの貨幣や給与の基本単位だったといえるでしょう。だとすれば、水稲農耕文化の起点となった弥生時代に稲籾を貨幣としてふるまわせる交換・交易があったと推定するのは自然だと思います。

そしてそうなると、唐古・鍵遺跡から2点も出土している稲束は、この問題に対して重要な意味をもつとみてよいのではないか、さらにその場合には、八重山地域で現実におこなわれていた民俗事例が非常に有効な参照項目になるはずだ、というのが私の意見です。

では問題の2点の稲束ですが、左手で握ってちょうどいっぱいになる程度の束に見えます。藤田三郎氏は、その著『唐古・鍵遺跡』(同成社)において、数十本の穂の茎を束ねたものと記述されています。そこで私も実験をおこなってみました。

幸い那須風土記の丘資料館から古代米の稲束を頂戴しましたので、それを使用して作製してみたものが3段目の写真です。片手いっぱいにはまだ少し余裕がありましたが、数えてみると70本の茎でした。一本の茎に実っている籾の粒は、多いもので110粒、少ないもので57粒、ランダムに10本を抽出して粒数の平均を出してみれば、70.3粒となりました。全体で4,921粒という計算になります。

次に西表島で栽培されているカトゥラ米という在来米系統の脱穀後の米粒を数えると、1合が約6.600粒となりました。すなわち私が実験的に作製してみた稲束は、籾で計量した場合に約一合、脱穀後の米で計量すると約4分の3合なのです。

要するに片手で握って一杯になる茎の束とは、脱穀後に一合となる程度の分量だった可能性が高いと考えられるのです。

安渓先生の著作でも、1マルシとは「周囲約6寸の束を30あわせたもの、普通作で白米3升に相当」とありますので、私の実験結果も、ほぼこれに沿うものだったと考えてよいように思います。ちなみに「周囲約6寸の束」のことを西表島では「カタティ」と呼んだそうです。片手いっぱいの稲束という意味ですね。

なお西表島では、田仕事に支払う賃金も稲束だったことがあり、1日当たり2マルシだったそうです。仮に現在の賃金が1日当たり9.000円だったとすると、「カタティ」は150円相当ということになります。

唐古・鍵遺跡出土の稲束も、弥生時代における30分の1マルシ、「カタティ」ではなかったか。そしてそれは、交換や交易の際に現地通貨としてもちいられる最少単位(最少額貨幣)だったのではなかったか。さらになぜこの遺跡からは2点も出土しているのかといえば、ここが奈良盆地内で最も栄えた市場であり続けたからではなかったか。このように考えはじめています。(しかし上述のような実験、半日を要しましたが、サバティカル中でなければ実現しえない代物であることも確かです。)

最下段の写真は、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の常設展示品の稲束です。

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去る11月16日には栃木県にお邪魔し、栃木県立なす風土記の丘資料館にて前方後方墳に関する講演をさせていただきました。会場には77名を越える方々がお集まりくださったようで、深く感謝です。

館長の篠原祐一さんによれば、前期古墳関係の講演だと人が集まるというジンクスがあるようです。確かに那須地域は関東でも指折りの前期古墳が集中するエリアですし、水戸光圀以来の伝統でしょうか、郷土の歴史については非常に熱心な文化人を代々輩出する土地柄だということでした。

先週の郷里での講演とは異なって、主題は前期古墳ですから私の本来の得意分野。Keynoteのスライドも45枚に膨らみ、否応なく熱が入るという状況でしたし、お聞きいただく方々の反応も上々で、相乗効果といいましょうか、私にとっても最近では珍しいハイテンポな講演となりました。

会場には群馬県の深沢さんや福島県の佐久間さん、栃木県の小森さんなど数名の業界関係者の方々もお見えでした。他界観や黄泉国あるいは高天原にたいする最近の私の考え方については、ご納得いただけるか否かは別問題としても、どのような根拠で提示しているかについてはご理解いただけたかと思います。

また途中に入れた10分間の休憩中に参加者の方から頂戴した感想は、「予想していた内容とはまるで違う話で驚いた」というものでしたが、予想よりつまらない話だというわけではなく、むしろ大風呂敷の広げぶりに驚いたという趣旨のコメントでしたので、少し安心。

ただ別の方からは「早くて着いていけない!」という声もあって、そこはお許しください、とお詫びするしかありませんでした。そりゃそうでしょうね。なにせ「日本列島の歴史をどう捉えるか」で始まり、「水稲農耕民の拡散過程である」として、南は北緯24度の西表島、北は北緯42度の北海道上川盆地までの拡散を現在の到達点です、といってお示しし、その過程の中に前方後円(方)墳の時代を置くという内容でしたので。

また講演会の後には、今回の企画展の会場となった大田原市立那須湯津上資料館の方々を含む2館の関係者の皆さんが温泉での会食を開いて下さり、そのまま篠原さんとは同宿。滑石製模造品の話にも花が咲き、温泉に浸かりながら大いに呑みました。

さらに篠原さんには翌日も近隣の遺跡めぐりでお世話になり、東山道がらみの諸遺跡をご案内いただきました。最下段の写真は、現在も残る古代東山道の痕跡です。この残りの良さには驚かされました。

さらに、講演会前日に収穫を終えたばかりだという古代米の籾を束ごと頂戴することもできました。ちょうど稲籾は弥生時代からずっと地域内通貨だった可能性について話をしたところでしたので、大助かり。次の講演のネタにさせていただくことができそうです。

そして再度驚かされたのは、古代の金山と那珂川・東山道の近さでした。ひょっとして川崎古墳がつくられた6世紀後半代には金山が発見されていたのではないか、との邪推が頭をもたげてしまいました。

ちょうどこの時期に北海道の富良野では須恵器のハソウも出るわけですから、東山道(およびその北側延伸線)とは、金をはじめとする鉱物資源を求める山師のゆきかう道路だったのではないか、とも考えたくなります。詳細については瀬川拓郎さんのブログをご参照ください。

ともかく今回の機会を与えてくださった篠原さんには返す返すも感謝します。

ちなみに今回の企画展の図録、非常に力の入った内容で、私の拙文は措くとして、関東の古墳時代前期の問題に興味のある方は必見です。聞けば300部を刷ったものの先週で完売し、会期中に完売では今後の来場者に申し訳ないからと、50部だけ増刷したそうです。

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