私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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浦島太郎状態

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本日は風もなく陽光もおだやかだったので、再び車ででかけました。ルートは高塚遺跡―西山古墳―大神神社(狭井神社)―唐古・鍵遺跡―馬見古墳群でした。次の著作に使うための写真撮影が目的でしたが、車でしたので私の調査完全セットを持参。

西山古墳は夏場と違って篠竹が刈られているために撮影にはまことに良環境でした。ただし日曜日とあって、大神神社境内はけっこうな人出でした。当然、狭井神社の遙拝所のまえでGPSを取り出す気にはなれず、三輪山との位置関係をスマホの方位磁石と地図ソフトで確認したにとどまりました。

メジャーな神社ですし休日ですから人出が多いのはあたりまえなのですが、私の場合、どうもそのあたりの常識的感覚が鈍っているようです。ここから三輪山への登山が許可されることにはなっているのですが、山内の写真撮影は厳禁ですし時間の関係もあって次回まわしにしました。

その後は唐古・鍵遺跡に出向き、昨日の補足調査を実施したのち、馬見古墳群に向かいました。

午後3時過ぎの到着でしたが、綺麗に整備された公園内には家族連れや少し年齢層の高いカップルが多く、思いの外賑わっていることに驚かされました。ナガレ山古墳も墳丘の軸線から東側が築造当初の姿に復元整備されており、葺石と埴輪列の様子がよくわかるという仕掛け。

この古墳の調査時には現場を見学させていただき、滑石製模造品類を見せていただいた記憶があるのですが、当時は狭く曲がりくねった道を抜けてこの古墳にたどりついたのに、まったく隔世の感があります。倉塚古墳なども墳丘には芝が貼られていて、それは端正な遺跡・古墳公園になっていました。表題のとおり、浦島太郎の状態でした。

見晴らしはよいし歩きやすいし、で良いことづくめではあるのですが、ナガレ山古墳の後円部では、とうとう恐れていた事態に直面してしまいました。誰もいなくなるのを見計らってGPSを取り出し、後円部頂にあぐらをかいて位置観測を始めたところにカップルが上がってきて「なに?このオジサン?」的視線を浴びてしまったのです。

せっかくのデート中なのに、まことに申し訳ない。いかに天候に左右されるからといっても、休日にやるものではないですね。もちろん興味津々な反応で声でもかけてくだされば、それは懇切丁寧に説明しますのに、本日がそうであったように、大抵は怪訝そうな表情で避けて通られてしまいます。

とはいえ、この古墳は東側への眺望がよく、後円部頂からは龍王山山帯が非常によく見えます。朝からねらってきたのは石上604mピークが盆地の各所からどう見えるか、でしたが、馬見古墳群からみた状態がもっとも象徴的かと思います。

ここからだと龍王山520mピークは沈んでしまい、龍王山山頂から南北へと左右対称的に下る稜線の様子が非常によく見えますし、石上604mピークについても北側の高まりとしてはっきりみえるのです。私は三輪山を含めたこれら三つの嶺を「原大和三山」だとみています。

それになんといっても龍王山の背後に聳える貝ヶ平山と鳥見山がくっきりと顔を出すのです。ようするにここまで視線を引けば、物理的な標高差が明確になって「見かけ上」が意味を失うのでしょう。

浦島太郎状態だった私にとって唯一のなじみは乙女山古墳でした。ここだけは以前とまったくかわらず竹林の中にたたずんでいました。GPS観測を落ち着いてできたことはいうまでもありません。

さて、明日からは再び貝製品・石製品調査のロードです。東広島−岡山−福井−金沢に4泊の旅程を組んでいます。

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まことに寒い3月上旬となりました。この冬は奈良も不順な天候がつづきます。

しかし花粉が飛散する時期になり、気温が上がれば霞がでるし、と、山歩きには不都合な条件が重なり始めてきましたので、少し焦り気味。今年は節分と立春の日の出写真を取り損ねています。当日は大雨でしたから。どこからの日の出か、といえば、申すまでもありません。唐古・鍵遺跡からみた日の出です。


そしてこの遺跡からみた年間の日の出の位置を確認する計算にどうしても必要なので、本日午後、角測を強行しました。午後を選んだのは太陽の方向との関わりです。この季節、午前中よりは午後のほうが、東側の山並みがよく見えるからです。

最初の観測点は現在の唐古池際の土手上からです。付近からは弥生中期中頃から後半にかけての時期の方形区画がみつかっているので、その近辺からのデータが欲しいのです。といっても立木に邪魔されずに東方の龍王山山帯がよく見える場所でなければ観測できませんので、すこし計算上の場所からは移動しています。2回目の観測点は、西殿塚古墳とほぼ同緯度の場所で、なるべく古相の大型建物に近い場所、といっても結局唐古池脇の立木を避けるためにすこし場所はずらしています。

4段目に示した写真が、唐古・鍵遺跡から東の龍王山山帯をみたもので、この間が年間の日の出の範囲(北端は八つ岩のある石上604mピーク、南端は三輪山)です。このうち冬至の日の出写真の撮影には一応成功してはいるのです。

本日も寒空の中での作業でしたが、ときおり風がやんでくれましたので、なんとかこなせました。しかしトータルステーションまで神奈川から持ち込む私に、呆れ返る読者の方はきっと多いでしょうね。

かくいう私自身も3年前までは、今こうしている私を予測もしていませんでしたから。仙台市の齋野さんに「若さがない!さわやかさもない!」と痛いコメントを頂戴した、かの「東の山と西の古墳」に関する総仕上げの作業となります。

先日、大和弥生の会の主要メンバーからさまざまなコメントを頂きましたが、そのなかには遺跡周辺の立木で龍王山への眺望が遮られる可能性について点検が必要ではないか、とのご意見がありました。そのため本日は、仰角の観測も簡単におこないました。

作業の終了後には、混み合う下ッ道ルート(国道24号線)を避けて、上ッ道ルート(169号線)を帰り始めたのですが、昼を抜いていたことに気がついたので、回転寿司のスシロー柳本店に立ち寄り、夕食を兼ねた昼を食べました。この寿司屋、ちょくちょく利用しますが、結構うまい店で気に入っています。

店を出ると夕日が綺麗でした。二上山の影が映えていて印象深いものがありました。奈良での休日もあと3週間となりました。日の出の写真、最後は3月21日の春分の日の朝の日の出です。冬至のときもそうでしたが、こればかりは天候次第。龍王山520mピークからとなる計算ですので、それを現場で確かめたいのです。

妻と娘の奈良ツアー

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先ほど二人を近鉄奈良駅に送ってきました。一泊二日の予定で奈良に来てくれたからです。

昨日の昼に到着した後は一旦大学に来てもらい、小雨のなか小路田さんのお薦めだというパスタ屋に連れてっていただいてゆっくりと昼食を楽しみ、絶品のパスタを(私はワインも)ご馳走になりました。小路田さんとそこで別れたのちは一路奈良町観光へ、というより雑貨屋めぐりに繰り出したのでした。

すでにふたりは目的の店を絞り込んでおり、さらに翌木曜日には定休日になってしまう店というのがあるらしく、そのような店に重点をおいて散策。途中でNAOTというイスラエル製の靴を扱っている店で、ふたりの目は履き心地とデザインに釘付けになり、結局2足を日頃からの感謝の意味を込めて購入させていただきました。たしかに内底にはコルクが使ってあって包み込まれるような感触ですしデザインも良いし…そんな具合のちょっと贅沢な散策でした。

しかし驚かされたのは、奈良町の次は北町界隈だという目的地の変転ぶりの激しさでした。奈良女子大学を超えて佐保川の近く、しかも路地裏の奥に迷い込んだかと思われるようなところにあった陶器屋さんとその二階にある雑貨店でした。ここでの陶器には私がはまってしまい、軽量な蕎猪口を購入して二階に上がってみれば、なんと前方後円墳がテーマの雑貨店。

年末にOGのT二ちゃんとN谷君が私にプレゼントしてくれた「曙光の前期古墳」「円熟の後期古墳」コーヒー豆も売られていました。そうだったのか、この店で買ったものだったのか!と、改めて彼らふたりのディープな趣味ぶりに脱帽。娘に誘導されなければ決してたどり着けないロケーションの、そんな店でした。

本来の目的は夕方7時からおこなわれる東大寺二月堂の“お水取り”修二会見物でしたが、水曜日だというのに結構な人出。10本の松明を見物しました。私にとっても15年ほど前に、まだ広瀬和雄さんが奈良女に居た頃、徳島から出てきて研究会のついでに見物したとき以来でした。

さて、妻と娘が泊まったのは紀寺近くにある民家をリフォームした一軒家で、それはまことにお洒落な家でした。ローカの窓もサッシではなく格子ガラスなのに隙間風などはまたく入ってこないし、柔らかい照明も快適だし、とふたりは完全に気に入っていました。

私は買い物袋をその家まで運び、備え付けのコーヒー、それも豆からお洒落なミルで挽いていれるタイプ!をご馳走になってから辞しましたが、その後もふたりは五右衛門風呂風の風呂やら庭やらをゆっくり楽しんだようです。さらに締め括りはまことに気の利いた朝食だったらしく、店の方がオカモチに入れて家まで運び入れてくれたという豪華な食事には歓声をあげたとのこと。

本日の昼食時に私はふたりと再合流したのですが、その朝食の写真を見せつけられるばかり。小雨のぱらつく冬の夜空のもと、一人とぼとぼと法蓮佐保田町の宿舎に帰り、朝食は日清のカップ麺だった私とは、なんと対照的だったことか。

ときおり雪がぱらつく寒い一日でしたが、本日も午前中から雑貨屋巡りに終始したふたりは、夕方、満足そうに奈良を発ちました。なによりです。そしてお疲れ様。せっかくだから私も帰り際にはNAOTの靴を買って帰ろうかな、と秘かに考え始めています。

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本日先ほど、某女子大副学長にせかされて書いた論文の原稿と挿図を編集者(といってもご本人)に手渡しました。この土日の2日間の猶予をいただき、ようやく仕上がりました。

論文の題名は表題のとおりです。改めて数えてみれば(400字詰め原稿用紙換算で)本文64枚、註と文献リスト8枚の合計72枚となりました。

査読は某副学長ですが、枚数制限などないものですから、気がついたらこうなりました。サバティカル中だからこそこなせたことですが、さすがに3日間で70枚はきついですね。

さて、前回の記事からの修正点を申し上げます。唐古・鍵遺跡の稲束(下段の右から2番目)推定茎数を79本から73〜76本に減じました。圧縮されて潰れている部分に該当させた推定本数を少し多めに見積もりすぎた可能性が高いと判断したからです。

それと稲束の結束にもちいられたワラ茎の端部を、それと気づかずカウントしていたことも接写写真の点検の結果わかりました。どういうことかというと、結束の端部を巻のなかにくぐらせて収束させていたのです。そういうことか!と改めて本例の結束の丁寧さに気づかされました。

今回の原稿は、この巻の丁寧さにも注目して、それが流通に供された稲束であり、唐古・鍵遺跡まで巡ってきたのち、この場で他の束とともに竪臼のなかに穂先が入れられ、杵で挽きとられるようにして籾の部分は脱穀のために失われ、残りの束の残滓が下段の写真なのだという復元案を提示します。

まるでみてきたかような言い方をしますが、これら5束は土坑内から多量の籾殻とともに出土したものだと藤田さんにご教示いただきましたので、出土状況はむしろ私の解釈を支持するものなのです。言い方を変えれば、これらの稲束は籾殻層のなかに一括放棄されパックされていたがゆえに、ここまで良好な遺存状態だったということになるのです。束と籾殻との共伴事例であるところがミソなのです。

比較のために上段には、大中の湖南遺跡の出土稲束の写真を報告書から転載します。こちらの束の結束は、稲ワラ紐で3重に弱く巻いたまま(水田域近くの)溝に破棄された状態です。ですからこのような束は、収穫時の様相をそのままとどめていると評価できるのです。じっさいにこちらの例では、まだ穂先に籾が残っていたと報告されています。

なお唐古・鍵の穂束残欠が5束というのも非常に興味ぶかく、断定はできないものの、5握1把となる可能性を示唆するものです。5カタティ1タバリ(西表島的呼称、ただ西表島では2カタティ1タバリが実態)ですね。

なお今回の原稿、先の記事に対して福岡の久住さんから頂戴したコメントをふまえ、後半ではなぜこの稲束が貨幣だといえるのかについて、理論的な整理に力を入れました。ご指摘いただいたポランニーの用語法「限定目的貨幣」と「一般目的貨幣」も参考例として取りいれ言及しています(しかしいかにも翻訳用語ですね)。

ですから論文の後半は、経済人類学、アジア経済史学、社会思想史、各地の民族誌や民俗学などからの情報をとり込んで、私には不似合いな(と私自身は思うところの)抽象的議論になりました。弥生時代社会は市場経済下にあったのだという主張を展開するものですから、しかたありません。

ただし改めて気づかされたのは次の点でした。これまでにも弥生時代の交易、とくに遠距離間の交易の問題は普通に論じられてきましたよね。弥生都市論だってそうです。こうした事象が貨幣なくして現れるのか、貨幣の不在ないし存否保留のままで議論を進めることはどこまで有効なのか、今となっては強い違和感を覚えるのです。

もちろんこれまでの私自身への反省をこめて、ですが、流通論や都市の問題、さらには集団関係論について早急に見直しの必要性を感じています。理論面でも実証面でも、です。

しかし、肩は凝るし腰は痛くなるし寝不足だし、と大変です。今も肩がガチガチで文字入力さえ痛みを感じています。といっても書き込みが進むのは、頭が依然原稿モードだからです。

やはり肩を揉んでくれる妻と一緒のほうが、たしかに楽は楽ですね。妻にも送りつけて査読をしてもらっています。

夕方になりましたので、宿舎に帰って酒を飲んで寝ることにします。本日は正面の「勇み湯」も定休日だし。

約79本の束

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この本数が、昨日私が数えた唐古・鍵遺跡第33次調査出土稲束に含まれる茎の概算本数です。田原本町教委の藤田三郎さんのご厚意によって、現物から数えさせていただきました。

といっても私がとった方法はきわめて原始的なやり方です。まず稲束の各部を接写させていただき、持ち込んだパソコンで加工し、おなじく持ち込んだプリンターで引き延ばし印刷をおこなったうえ、現物を目の前にしてルーペで睨みながら一本一本数えてはマーカーで色塗りを施すというものでした。藤田さんにはさぞ呆れられたでしょうが、これが一番手っ取り早いと考えた次第です。硬化処理が施されているとはいえ、現物はボロボロですので緊張しました。

実際にカウントできた本数は61本ですが、残りは圧縮されて潰れている部分の断面の面積にどの程度の本数が含まれるのかを推計し、76〜79本まで、としたものです。

ちなみに滋賀県の大中の湖南遺跡から出土した稲束は、約90本だという所見も残されていますので、今回私が数えさせていただいた稲束は、それより少し小さめか、といえるのかもしれません。なお大中の湖南遺跡例については、報告者の水野正好氏が指摘するとおり(左手の)親指と人差し指で握れるだけの分量で、径2.5cmだったようです。今回の資料については硬化処理前の計測値で径2cm弱だとのことでした。

ですからじっさいに唐古・鍵の稲束は、大中の湖南例よりは小さかったとみるべきでしょう。ただし大中の湖南例は未熟性の稲束だったとされており、写真をみると束の結びも撚りの施されたワラ紐がもちいられ、かつ2重巻程度の乱雑な結びだったことがわかります。このことは、たとえば「ひこばえ」を対象とする念のための収穫や、子供の真似事などといった変則的な資料である可能性は高いと思います。

それに対して唐古・鍵例は、籾殻層中から部分的な残存稲束を含めると6束の出土をみたようですから、まちがいなく最終消費時たる脱穀・精米時に籾殻と一緒に破棄されたとみてよいものです。私が秋に実験した古代米の稲束も約70本でした。ですから径2cmから2.5cmまでの束として見積もっても、さほど誤りではないのかもしれません。

この稲束、畿内第2様式期のものだとのことですが、非常に丁寧に結ばれており、結び目が見えないことが注意されましたし、もっとも根本側には撚りをかけたワラが2重分だけ巻かれておりました。おそらく収穫後に再度きっちりと結び直されたものであろうと推定されるのです。

なにを言いたいかといえば、この束が貨幣の最少額単位として弥生時代に各地で流通した可能性です。稲束システムの根幹を支えた存在として、私はこの稲束を「一握」と仮称します。精米後にはちょうど古代の一合に、現在の約4.5勺(一合の45パーセント)に該当する分量です。

今回の稲束本数計算の機会を与えていただいた藤田さんには心から感謝申し上げます。そしてここ二ヶ月間の「稲束威信財システム」かんする私の研究成果については『日本史の方法』の次号に掲載される予定です。てっきり廃刊になったものだと私は思っていたのですが、先日某副学長から「次号に掲載するので書け」と命ぜられてしまいました。

この学会誌と私は相性がいいのか悪いのかよくわからないのですが、次回こそは、少しまともな論考になるかと思います。奈良女子大学の小路田研究室から刊行予定だそうです。これから原稿に取りかかりますが、締め切りは明日だというので、急がなければなりません。


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