私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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去る2月22日と23日には横浜市博を会場に西相模考古学研究会の記念シンポジウムが開催されました。今回は2001年度に続く大企画として、岡本孝之さんの講演を含む2日間の開催となりました。弥生後期の関東の様相を問うという「久ヶ原・弥生町期の現在」と銘打つテーマで、初日は関東・甲信各地の集団関係をどう把握するかに焦点があてられ、二日目は広域流通品の様相を整理するというものでした。

企画立案とメンバーの選定・依頼者はいうまでもなく西川修一さんです。よくぞここまでフルキャストを揃えたものだと感心することしきり。資料集も真に充実したもので、これまでにありがちな図面のオンパレードではなく、それぞれ完全な論考となっていました。関連する研究者たちのコメントまでも添えられて、すでに論文集とシンポジウム集を抱き合わせた体裁。これで2000円は絶対にお買い得です。編集にあたった土屋了介君にも頭が下がりますし、事前の準備会を仕切ってくださった池田さんや押方さん、それに販売担当の伊丹さんにも感謝です。

さらに事前の宣伝は比較的抑えられたものの、会場には近畿地方から福井・新潟・東北までの遠来からも研究者が集い、まことに盛況でした。妻も西相模一円の弥生後期の様相には業務上の関心もあるらしく、一日目はデートを兼ねてふたりで参加しました。

一日目の報告を列挙すると次のとおりです。 
① 相模湾の様相 中嶋由紀子(平塚市教育委員会)
② 東京湾西岸の様相 古屋紀之(横浜市ふるさと歴史財団)
③ 東京湾東岸の様相 小橋健司(市原市埋蔵文化財センター)    
④ 関東東部の様相 稲田健一(ひたちなか市埋蔵文化財センター)
⑤ 関東北部の様相 深澤敦仁(群馬県教育委員会)
⑥ 記念講演「久ヶ原・弥生町問題の過去・現在・未来」 岡本孝之(元慶応義塾大学)

今回の報告は、どれをとってみても集団の動きや集団間の関係を積極的に描こうとする姿勢が明確で、厳しい環境のもとでのサバイバルを模索した弥生後期人の姿が具体的にイメージできる内容だったことが最大の特徴ではなかったかと思います。メンバーをご覧いただいてもおわかりのとおり、蒼々たる顔ぶれで、まことに充実した発表でした。

弥生後期の気候の寒冷化と、それによって引き起こされた集団の移住や新たな関係の構築、(鉄器や玉、青銅器類の流入によって引き起こされたーこれは二日目の内容との抱き合わせによって判明するのですが)地域性の顕在化、といった問題群があぶり出されています。

ひきつづき二日目の報告は次のとおりでした。
① 中部高地の様相 稲垣自由(大月市教育委員会)
② 青銅器の流通について 楠恵美子(國學院大学)
③ 玉類の流通について 斉藤あや(藤沢市教育委員会)
④ 鉄製品の流通について 杉山和徳(白岡市教育委員会)
⑤ 東北との関係―続縄文の南下 青山博樹(福島県文化振興財団)

表題は地味ですが、内容は非常に濃くかつ充実しており、それぞれ歴史的評価にまで踏み込む内容だったことに驚かされました。さらに特筆すべきことは、20代から30代前半の若手研究者の力と大活躍ぶりでした。古屋さん、楠さん、斎藤さん、杉山君の4名に土屋君を加えた5名は、昨年度のプレ発表から事前の打ち合わせなど、中年オヤジ・オバハンたちの助言をうけつつも下準備にかなりの時間を割いてくれましたので、それぞれの報告には迷いがなく、自信をもって明快な主張を展開することに結実したのでしょう。このことがとりわけ強い印象として心に刻みつけられました。

こういった若い世代の前向きな取り組みをみると、西相模考古学の招来は明るい、と断言してよいかと思います。彼ら彼女らには心から拍手を送りたいし、もっともっと前に前進していただきたいと思います。

なお二日目のシンポジウムの司会は西川さんと私とで担当しましたが、個別発表が非常に充実していたので、進行はとても楽でした。ようするにそれぞれの司会者が聞きたいことをパネラーに問いかければよいだけでしたから。

そしてあぶり出されてきた問題は、弥生文化と大森文化との間の明確な境界線でした。弥生後期から終末になっても、信濃川ー利根川ラインの北に弥生人は足を踏み込めなかった様相が非常に顕著だったことです。このラインを北に越えたところにある「弥生」をどう考えるかが今後の焦点となることはまちがいないところでしょう。さしあたりこのラインを指して「岡本防衛ライン」と呼ぶことにします。ただし大森文化側から引いた防衛ラインというよりは、弥生文化側の躊躇と遠慮が創りあげた最終境界ラインなのかもしれないな、と感じました。

さらにこの問題に関連して、最後に登壇された青山さんの報告はまことに示唆深いものがありました。境界域や交通の要衝に設けられ、境界を突破してしまう力を備えた舞台としての衢(ちまた)論です。青山さんは最近の彼の興味に引きつけ、歌垣(かがい)の重要性を強調されましたが、私のいう市の重要性とも関わって、こういった議論は、まことに楽しくかつ有望である。そう確信させられたところです。

なお初日の懇親会では歴史的な「和解」の握手もありました。なぜこのふたりの握手が歴史的和解なのかについては、『西相模考古』を検索していただければわかります。

ひとことでいって、今回の研究会は、さまざまな問題提起を含むという意味で、21世紀の前半を画する画期的な偉業となりうるものだったと思います。もちろん日本列島全域に普遍化可能な問題群満載です。その意味でも今回の資料集は、今後必携の書となるでしょう。

春の日本考古学協会での販売を予定してはいるようですが、おそらくその前に売り切れてしまうのではないでしょうか。まだ入手されていない方で、弥生時代後期から古墳時代への移行期の問題にご関心のある方は、早いうちにお買い求めを薦めます。六一書房で取り扱っています。

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最近、私がはまっている稲束システムと水稲農耕民の歴史にかかわる暫定的な見解を示しておきたいと思います。

水稲農耕民の歴史の中で、原始・古代社会に貨幣の機能をはたした存在の代表格は稲束でした。文化人類学では「限定目的貨幣」と呼ばれ、古代史では「現物通貨」や「穀物貨幣」などと呼ばれています。しかし民俗学をあたってみると、稲束が貨幣の機能を担った時代はもっともっと最近まで続きました。

集落内での交換や取引に金属貨幣(銭貨)をもちいることなどほとんどなかった地域も多かったようです。金属貨幣は、集落内では入手できない商品を街に出かけて買うときにだけ使われたというのです。

この点と深くかかわることがらなのでしょう。私が調査をおこなっている西表島では、金属貨幣を「稲束で買う」という感覚すら普通にあったようです。だから上記の問題は、地域内流通通貨=稲束、地域間流通通貨=銭貨という図式のもとで理解可能です。

稲束が貨幣としての機能を担ったことを証明するもうひとつの側面として重要なのは、租税です。日本の古代では、田租として農民一人から徴収されるのは稲束でした。それは反あたり原則として二束二把というものでした。このようなかたちで徴収される田租でしたから、それは稲束で換算された徴税額だといってもよいでしょう。つまり稲束は、行政にまで深く浸透する貨幣だったといえるわけです。

その後はご承知のとおり、租税は稲束からの脱却が図られたといわれており、脱穀後の榖で換算されたり、畿内では銭納が奨励されたり、といった変化をたどるのですが、稲束は依然として根強く残ります。庸がそうですし、出挙がそうですね。

さらに興味深いのは、古代社会が崩壊して中世へと転換したとき、農民に負荷される租税は、ふたたび稲束を基準にした形態へ戻ることです。山間部など一部の地域では近世でもそうだったようです。水稲農耕民の歴史の中で稲束がいかに重要な役割を演じ、長期にわたって貨幣としての機能を果たしたのか、がよくわかります。

そして問題にしたいのは、出挙です。古代には田租・庸・調とは別に出挙という、稲束の貸し付けと利子をつけた返済制度があったことが知られています。そしてこの出挙こそが、もっとも原初的な租税ではなかったともいわれているのです。ただし古代史学からの言及はそこまでで、「相当古くまでさかのぼる可能性」の洞察にとどまるのです。そこで考古学の出番となります。

まず基本として押さえておきたいことは、出挙とは稲束の再生と循環だという構図です。その際に東南アジア地域での苗代の様相は興味深いものがあります。一部の地域では現在でも苗代への植え付けは、稲穂のまま籾を分蘖させずに並べ置く、「穂植え」という方式をとっているのです。稲束を結わえたワラを解いて、そのまま植え付け、収穫後には再び稲束に戻るのですから、それは稲束の再生そのものですね。

さらに出挙の場合、貸し付けられた稲束(原資)は、理屈上、稲作がもっとも順調に進んだときには約100倍になって再生されることが期待できるのです。そのなかから利息を付けて返納されるわけですから、出挙は現代の私たちの感覚でいうところの投資に近いといえるでしょう。元手をもたない農民にも稲束は貸し付けられたはずですので、それはあきらかに古代の稲作農耕奨励策としての意味をもちます。だから出挙とは、古代の銀行システムだったともいえるでしょう。

では考古学の側からはどのようなアプローチが可能でしょうか。いうまでもありません。稲束と倉の存在が、明確な解答をすでに用意している、そのように考えます。稲束は収穫後に村の共同の倉庫に収められたと考えられています。

もっとも典型的な事例は大阪府の池上曽根遺跡の大型建物跡です。この遺構の周囲からは異様な高密度でプラント・オパールが検出されていますので、まちがいなく稲束の収蔵庫だったとみてよいでしょう。床下にはワラ束が積み上げられた可能性を考えてもよいかと思います。

こうして収蔵された稲束は、次の作付け期を迎えるまでの冬期のあいだ、首長ないし司祭のもとでさまざまな呪術や祭祀が施されたと考えられています。場合によっては鹿の血液を振りまかれるような呪術や、首長ないし司祭者と乙女の聖婚の場ともなり、稲束に宿る榖霊に精気を与える秘技が展開したのかもしれません。さらに各地の民俗例を参照しますと、床下の稲ワラの上で(歌垣の季節でもある)早春の夜間には、若い男女の生殖行為が展開した可能性もありです。

すこし横道にそれますが、なぜ稲籾と生殖行為が関係するのかといえば、「納戸の神」とのかかわりが想起されるからです。のちの時代の独立自営農民の場合でも、翌年の作付けに回される稲束は、夫婦の寝室であった納戸に保管されるのです。つまり冬期に人間側の生殖行為をもって榖霊に活力を与えるという風習は、弥生時代にまでさかのぼらせることが可能だといえ、その場合には集落の中心に建てられた大型建物すなわち稲倉が、そうした儀礼・祭祀行為の舞台として浮上してくるのです。

池上曽根遺跡の大型建物が独立棟持柱建物であって、祖霊祭祀の場であるとも考えられていることは、先に述べた生殖行為だけでなく、祖霊との交換も榖霊への活力の付与として重要な役割を演じたことを示唆するものでしょう。夜間とは他界に開かれた空間でもあったわけですから、そこでの生殖行為は他界の住人である祖霊との交換を意味するものでもあったわけです。各地の民俗例をあたってみますと、稲ワラの上での男女の生殖行為というのも、水稲農耕民にとっては根深い習俗として長らく温存されたことがわかります。

主題に戻します。そうしたさまざまな祭祀を経て翌春の作付け期には、首長ないし司祭から村人たちに向けて稲束は再分配されるとしたらどうなるでしょう。秋には当然稲束として回収されることになりますが、この間、稲束を貸し付けられた村人たちは首長や司祭に対して負債感を負うことになり、その解消のためにも熨斗をつけて借りた分量以上の稲束を返すことに躍起になったはずだと推測できるのです。

こうした稲束の再生をめぐる首長や司祭と民衆との間の駆け引きこそが出挙の原型だといえるのではないでしょうか。

ではその正体とはなにか。みなさんもよくご存じの威信財交換ですね。この場合の稲束は循環型威信財として評価することが可能です。熨斗をできるだけ沢山つけて稲束を返済できた村人は、当然、首長や司祭にたいして威信を獲得することになります。返済後に手元に残った稲束は当然貨幣として、秋に開催される大規模な市の場に持ちこまれ、各種の財との交換に回されることになったでしょう。もちろん食糧として消費されることにもなったでしょう。当然、首長や司祭のもとには利息分の稲束が集積され、それらはさらなる稲束の拡大再生産に回されることになったはずです。

いっぽう負債感を解消できなかったケースもままあったと思います。その場合、村人は首長や司祭に対して完全な負い目を負うことになり、支配下に入らざるをえなくなります。命ぜられるままの従属的な立場におかれてしまうのです。現代の感覚でいうところの税の未納状態ですね。首長や司祭者は、こうして優位な立場と権力を身に帯びることになり、村の支配者として振る舞うことが可能になる、そういった図式を描くことが可能です。

なお古代にしばしば天皇から発せられたという徳政令とはなにか、についても考えておく必要があります。それは就任時や年頭などの節目にあたって支配者側から発せられる、未納税分の完全消滅宣言なのですが、それこそがポトラッチです。弥生時代にも同じ図式は当然適用できるでしょう。つまり首長や司祭は、こうした徳政令の発動権を一手に掌握する存在でもあるわけですから、未納税分の蓄積すら首長や司祭にとっては願ってもないほど効果的な威信の獲得手段ともなったはずなのです。そうなったら、もう完全な支配者ですね。

いいかえれば、なぜ首長制社会のもとで首長や司祭が世襲制になるのか、出挙の原型を弥生時代にもとめると、このあたりの問題に踏み込めることになるとも考えます。ひとことでいえば親の世代が首長に対して負った負債感の累積が、かれの息子を次世代の首長や司祭に押し上げさせる、そのような作用をはたすからにほかなりません。

なお銭貨は国家的威信財ともいわれ、故鈴木公雄先生は銭貨をさして「手のひらのなかの国家」と呼びました。稲束が貨幣としての機能をもつとすれば、当然稲束も威信財としての振る舞いを社会のなかで演じたはずなのですが、上記の推論は、やや異なった側面からではあるものの、稲束が威信財交換の場面で非常に重要な役割を演じただけでなく、それが租税の原初形態にもなったことを示すものだと思います。

私は稲束をめぐる上記の駆け引きを指して「稲束威信財システム」と呼びたいと思います。

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今日は午前中に天理市埋蔵文化財センターにお邪魔し、青木さんをつかまえて先週登った石上町604mピーク付近の古墳状の高まりや磐座の名称をお聞きしました。

しかし青木さんも松本さんもご存じないようでした。そのあたりは開発の予定もなく山深いところなので、文化財地図にも未登録でした。

場所は氷室と両墓制で有名な、かの福住地区にあるので、いっそ地元の方にお聞きするのが一番だろう、ということになりました。青木さんと昼をご一緒したのち、センターを辞して一路、天理市福住公民館に向かいました。

山間部の谷間にある集落ですし、まだ雪が残る旧国道25号線には若干のたじろぎを覚えながらのノロノロ運転でしたが、公民館に到着後、職員の方に事情を説明したうえで郷土史に詳しい方を紹介していただきました。「普段は外出されていることが多いのだが、今日は雪も残っているから自宅にいらっしゃるかも」との言葉に勇気づけられ、直接ご自宅を訪問したところ、幸いにもご在宅で、お話を伺うことができました。

お会いできたのはOさん、地元の文化財や伝統文化の保護や保全に長期間取り組んでこられた方でした。非常に熱心に郷土史を研究されていることは、お話ぶりからもすぐにわかり最適な方とおみうけしましたし、私の知りたかった設問にも即座に答えていただきました。

まず古墳上の高まりについてですが、古墳ではなく入会地として利用されていた当該ピーク一帯の境界に設けられた近世の塚だとのことでした。土地争いの末、奉行所に願い出て裁定を受けた結果つくられた2基の塚だそうです(『天理市史』にある近世の「高橋山の山論」のことかと推測)。これで、なぜあんな山間部に古墳状の高まりが二基も近接してつくられたのか、という疑問は解けました。

そして最大の収穫は、現地一帯は通称「八つ岩」と呼ばれていたことを教えていただいたことと、名称の由来は、私も先日眺望の良いところを求めてさまよったあげく裏側からとりついた件の磐座にあるようでした。

この磐座の名称が「八つ岩」で、由緒はなんとスサノウや八岐大蛇にまつわり、石上神宮境内にある出雲建雄神社と深い因縁があり、この磐座こそが石上神宮の奥宮だとする伝承もあるようでした。興味のある方は天理市観光協会HPをご検索ください。

私がこのピークと唐古・鍵遺跡からの日の出の位置との関係や、西山古墳の軸線がここを向いていることなどをお話しすると、Oさんは、さもありなんという、非常に前向きな反応を示して下さいました。そのうえご自身も都祁地区で冬至の日の出を撮影しようと試みられた体験談を語ってくださり、「じつは私もおなじ穴のムジナです」といって去る冬至の日の出撮影時の様子を申し上げたところ、俄然話しは盛り上がりました。

山そのものの名称については、最初「高橋山」かな、というお答えでしたが、今後ともお調べくださるとのことでした。この「高橋山」とは、武烈紀に出てくる山の名称で、布留川を上流に向けてさかのぼってゆく途中で登場しますので、文脈上はまったく一致します。写真は現在の天理ダム近辺から東側を写したもので、谷の最奥に少しだけ顔を覗かせた、左側が高く途中が窪む台形上の高まりが石上町604mピークと私が仮称してきた「八つ岩」なのです。この谷を抜ける格好で「八つ岩」からの眺望は西南西(と大国見山をはさんで西北側)に開けているのです。

突然の訪問者であるにもかかわらず、ご丁寧に対応してくださったこと、Oさんには心から感謝します。

明日は奈文研での資料調査に向かう予定です。

石上604mピークへ登る

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長らく記事の更新をサボってしまいました。何人かの読者の方から問い合わせを頂戴してしまい、恐縮しております。なにも体調を崩していたわけではありません。相変わらす元気です。

もちろん病気をしていたわけでもないつもりです。ただ、いまお世話になっている女子大学の副学長の影響を強く受けていますので、「それなら間違いなくビョーキだ!」と断言される向きもあるかもしれません。この点についても相変わらずです。

週に一度は夕方に私の部屋に現れ、呑みに連れ出されていますが、彼はよく呑みます。それに強いのでしょうね。前々回は私のほうが責め役にまわり「近代史の再構築はどうなるんだ!」などと口走っていたものの、2軒目では私が酩酊状態となり、気がついたら朝でした。どうやって宿舎に戻ったのかまったく思い出せないのです。

たしかに某副学長には煽られっぱなしです。12月にシンポジウムをやって私のノルマはこなせたかな、と思っていましたら、お礼奉公だから、ということで3月の末にもう一回、市民講座をやることになりました。

さて、本日は天理市にある「石上町604mピーク」に登ってきました。今年の冬は天候が不順でなかなかタイミングが掴めないまま時間が過ぎてゆきましたが、今週も今日と明日ぐらいしか日中に日が差さないとの天気予報でしたので、強行しました。

さすがにGPSは強力で、途中から道はなくブッシュ漕ぎになったのですが、目的地には迷うことなく2時間半の行程でたどりつけました。このピークこそ、唐古・鍵遺跡の古相の大型建物の位置からみたときに夏至の日の出の場所となるところです。西山古墳の墳丘主軸線もここに向けられています。

なんとピークの付近には古墳らしき高まりが2基確認できて、これには驚かされました。後期古墳なのでしょうか。それにしては標高580mもある尾根の上ですから、少しばかり違和感を感じました。

さらに少し降りたとこには磐座まであるし。来週にでも天理市教育委員会に遺跡名をお聞きしようと思います。しかしなにせ雪のなかのハイキングでしたから、靴と靴下は完全に濡れてしまいました。

ところで、さきほど登頂成功を妻に報告したところ、痛く叱られてしまいました。そんなところで遭難でもしたらどうするの!と。

しかし私としては奈良市内の飲み屋街で遭難する確率の方がはるかに高いだろうな、との確信があるのです。もちろん火に油を注ぐことになるので、もちろんそんな風には答えず、二度と無理はしないから、といって電話を切りました。

心配していただいていることに感謝しながら、部屋でひとり祝杯をあげています。これなら遭難の可能性はありません。

明日は京都府に石製品の資料調査に出向きます。大賀克彦さんと一緒です。

2014年、年頭のご挨拶

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2014年の年頭にあたりご挨拶申しあげます。明けましておめでとうございます。

本年もどうかよろしくお願いします。

写真は2013年の冬至の日の出を唐古・鍵遺跡から写したものです。確かに三輪山山頂からでした。とはいえ、撮影に成功したのは12月25日朝でした。

昨年は12月22日が冬至でしたが、計算上、前後7日間程度は同じ場所からの日の出となりますので、身構えておりました。しかし21日までは連日の雨、22日の朝から24日の朝までは曇りがちで、龍王山山帯は日の出の時刻に厚い雲に覆われてしまいました。

暁より前の6時30分には決まって雄鶏が鳴き声を上げてくれ、まず生駒山側から紫色に霞む朝焼けになることもわかって、それはそれで感動的ではあったのです。しかし7時前になると決まって三輪山の背後は厚い雲で覆われて....。ようやく成功に漕ぎ着けたのが25日朝というわけです。

私の大和原風景、大和東南部古墳群の基本構図は、この光景にあったと考えておりますが、なんとか実証できそうです。といっても唐古・鍵界隈からみた冬至の日の出が三輪山山頂からだ、というのは地元の方々の間ではほとんど周知の事実です。

妻も前日には奈良に来たので、このご来光をふたりで観ることになりました。前日までは残念な結果に終わっていたのですが、そうなると今回の成功もじつは妻のおかげなのかもしれません。


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