私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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2014年07月

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太陽信仰と大和

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一昨日、奈良県の地域研究会「俚志」(サトビ・ゴゴロ)の機関誌『俚志』18号をお送りいただきました。昨年度末に私が奈良女子大学で行った表題の講演会をきっかけに取材頂いたインタビュー記事が掲載されています。

昨年11月から今年の3月までの半年間にわたる奈良女滞在では、いろいろと得るものが多く、さすがに奈良盆地は奥が深いと思い知らされたのですが、収穫のひとつが今回掲載された記事の内容です。大和東南部古墳群の配列がなぜ龍王山520mピークを背景の頂点とするものなのか、さらにこのピークと同緯度地点の真西に35km隔たった場所にはなぜ伝仁徳天皇陵の後円部中心点がくるのか、その理由がようやく判明したからです。根源は奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡でした。

この遺跡の西地区には独立棟持柱の大型建物が弥生時代中期初頭に築かれているのですが、この建物の位置から真東を見据えて一年間の日の出の位置を出してみたところ、二支二分の日の出の場所は龍王山520mピークを中心として南北両脇に展開していること、いいかえれば春分と秋分の日の出はこのピークからであり、夏至の日の出は??橋山604mピークから、冬至の日の出は三輪山からだったことが判明したのです(計算は北海道大学情報センターのHPとカシミール3Dに委ね、本当にそうなるかどうかを現地で実際に検証する、日の出の方角を確認しつつ拝む、という手法をとりました)。

とりわけ驚かされたのは??橋山の意味でした。この??橋山、拙著「東の山と西の古墳」では「石上604mピーク」と仮称した嶺で、西山古墳の墳丘軸線の視準先です。なぜこの山なのかが当時は分からなかったのですが、唐古・鍵遺跡の西区からみたときの夏至の指標だったのです。2月17日付けの記事に経緯を記しています。

要するに唐古・鍵遺跡の中心的建物が置かれた西区の一帯は、奈良盆地を流れる時間を支配する日の出の観測点であって、おそらく暦を司る特別な場所でもあったのでしょう。

そのような唐古・鍵遺跡を核に展開した長い歴史的な背景が作用したために、二分の指標である520mピークを<日の出の赤道>として東西方位観の中心軸におき、??橋山を<日の出の北極>に、三輪山を<日の出の南極>に定めるという象徴的な空間が出来上がったのだと理解できるのです。それぞれの嶺には、この節目となる日和や、それぞれの日和になぞらえた象徴性が付託されたとみることも可能です。このような背景があったことを確認できた、というわけです。

だからこそ大和東南部古墳群の配列は龍王山520mピークを頂点とするものとなり、この嶺の真西に伝仁徳陵も築かれたのだと考えられるのです。こうして「東の山と西の古墳」では解けなかった謎がようやく解明できました。今回掲載いただいた記事の内容に関連するスライドをいくつか貼りつけておきます。じつは2月にも田原本町の藤田三郎さんにお招き頂き、奈良女での講演と同様の趣旨の講演をさせていただいたのですが、そのときには冬至の日の出にとどまり、最下段の写真を上映できませんでした。3月19日の唐古池脇からの日の出の情景です。春分の日とは少しズレますが、古相の大型建物の付近からだと21日に龍王山520mピークからの日の出となるはずです。

昨年の半年の調査成果が意味するところは真に大きいと思うのですが、もっとも早くに活字化していただけたのが地元奈良の地域研究会だったことも、なにかのご縁かもしれません。取材いただいた神野さまに感謝します。

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