私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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太陽信仰と大和

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一昨日、奈良県の地域研究会「俚志」(サトビ・ゴゴロ)の機関誌『俚志』18号をお送りいただきました。昨年度末に私が奈良女子大学で行った表題の講演会をきっかけに取材頂いたインタビュー記事が掲載されています。

昨年11月から今年の3月までの半年間にわたる奈良女滞在では、いろいろと得るものが多く、さすがに奈良盆地は奥が深いと思い知らされたのですが、収穫のひとつが今回掲載された記事の内容です。大和東南部古墳群の配列がなぜ龍王山520mピークを背景の頂点とするものなのか、さらにこのピークと同緯度地点の真西に35km隔たった場所にはなぜ伝仁徳天皇陵の後円部中心点がくるのか、その理由がようやく判明したからです。根源は奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡でした。

この遺跡の西地区には独立棟持柱の大型建物が弥生時代中期初頭に築かれているのですが、この建物の位置から真東を見据えて一年間の日の出の位置を出してみたところ、二支二分の日の出の場所は龍王山520mピークを中心として南北両脇に展開していること、いいかえれば春分と秋分の日の出はこのピークからであり、夏至の日の出は??橋山604mピークから、冬至の日の出は三輪山からだったことが判明したのです(計算は北海道大学情報センターのHPとカシミール3Dに委ね、本当にそうなるかどうかを現地で実際に検証する、日の出の方角を確認しつつ拝む、という手法をとりました)。

とりわけ驚かされたのは??橋山の意味でした。この??橋山、拙著「東の山と西の古墳」では「石上604mピーク」と仮称した嶺で、西山古墳の墳丘軸線の視準先です。なぜこの山なのかが当時は分からなかったのですが、唐古・鍵遺跡の西区からみたときの夏至の指標だったのです。2月17日付けの記事に経緯を記しています。

要するに唐古・鍵遺跡の中心的建物が置かれた西区の一帯は、奈良盆地を流れる時間を支配する日の出の観測点であって、おそらく暦を司る特別な場所でもあったのでしょう。

そのような唐古・鍵遺跡を核に展開した長い歴史的な背景が作用したために、二分の指標である520mピークを<日の出の赤道>として東西方位観の中心軸におき、??橋山を<日の出の北極>に、三輪山を<日の出の南極>に定めるという象徴的な空間が出来上がったのだと理解できるのです。それぞれの嶺には、この節目となる日和や、それぞれの日和になぞらえた象徴性が付託されたとみることも可能です。このような背景があったことを確認できた、というわけです。

だからこそ大和東南部古墳群の配列は龍王山520mピークを頂点とするものとなり、この嶺の真西に伝仁徳陵も築かれたのだと考えられるのです。こうして「東の山と西の古墳」では解けなかった謎がようやく解明できました。今回掲載いただいた記事の内容に関連するスライドをいくつか貼りつけておきます。じつは2月にも田原本町の藤田三郎さんにお招き頂き、奈良女での講演と同様の趣旨の講演をさせていただいたのですが、そのときには冬至の日の出にとどまり、最下段の写真を上映できませんでした。3月19日の唐古池脇からの日の出の情景です。春分の日とは少しズレますが、古相の大型建物の付近からだと21日に龍王山520mピークからの日の出となるはずです。

昨年の半年の調査成果が意味するところは真に大きいと思うのですが、もっとも早くに活字化していただけたのが地元奈良の地域研究会だったことも、なにかのご縁かもしれません。取材いただいた神野さまに感謝します。

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本日先ほど、某女子大副学長にせかされて書いた論文の原稿と挿図を編集者(といってもご本人)に手渡しました。この土日の2日間の猶予をいただき、ようやく仕上がりました。

論文の題名は表題のとおりです。改めて数えてみれば(400字詰め原稿用紙換算で)本文64枚、註と文献リスト8枚の合計72枚となりました。

査読は某副学長ですが、枚数制限などないものですから、気がついたらこうなりました。サバティカル中だからこそこなせたことですが、さすがに3日間で70枚はきついですね。

さて、前回の記事からの修正点を申し上げます。唐古・鍵遺跡の稲束(下段の右から2番目)推定茎数を79本から73〜76本に減じました。圧縮されて潰れている部分に該当させた推定本数を少し多めに見積もりすぎた可能性が高いと判断したからです。

それと稲束の結束にもちいられたワラ茎の端部を、それと気づかずカウントしていたことも接写写真の点検の結果わかりました。どういうことかというと、結束の端部を巻のなかにくぐらせて収束させていたのです。そういうことか!と改めて本例の結束の丁寧さに気づかされました。

今回の原稿は、この巻の丁寧さにも注目して、それが流通に供された稲束であり、唐古・鍵遺跡まで巡ってきたのち、この場で他の束とともに竪臼のなかに穂先が入れられ、杵で挽きとられるようにして籾の部分は脱穀のために失われ、残りの束の残滓が下段の写真なのだという復元案を提示します。

まるでみてきたかような言い方をしますが、これら5束は土坑内から多量の籾殻とともに出土したものだと藤田さんにご教示いただきましたので、出土状況はむしろ私の解釈を支持するものなのです。言い方を変えれば、これらの稲束は籾殻層のなかに一括放棄されパックされていたがゆえに、ここまで良好な遺存状態だったということになるのです。束と籾殻との共伴事例であるところがミソなのです。

比較のために上段には、大中の湖南遺跡の出土稲束の写真を報告書から転載します。こちらの束の結束は、稲ワラ紐で3重に弱く巻いたまま(水田域近くの)溝に破棄された状態です。ですからこのような束は、収穫時の様相をそのままとどめていると評価できるのです。じっさいにこちらの例では、まだ穂先に籾が残っていたと報告されています。

なお唐古・鍵の穂束残欠が5束というのも非常に興味ぶかく、断定はできないものの、5握1把となる可能性を示唆するものです。5カタティ1タバリ(西表島的呼称、ただ西表島では2カタティ1タバリが実態)ですね。

なお今回の原稿、先の記事に対して福岡の久住さんから頂戴したコメントをふまえ、後半ではなぜこの稲束が貨幣だといえるのかについて、理論的な整理に力を入れました。ご指摘いただいたポランニーの用語法「限定目的貨幣」と「一般目的貨幣」も参考例として取りいれ言及しています(しかしいかにも翻訳用語ですね)。

ですから論文の後半は、経済人類学、アジア経済史学、社会思想史、各地の民族誌や民俗学などからの情報をとり込んで、私には不似合いな(と私自身は思うところの)抽象的議論になりました。弥生時代社会は市場経済下にあったのだという主張を展開するものですから、しかたありません。

ただし改めて気づかされたのは次の点でした。これまでにも弥生時代の交易、とくに遠距離間の交易の問題は普通に論じられてきましたよね。弥生都市論だってそうです。こうした事象が貨幣なくして現れるのか、貨幣の不在ないし存否保留のままで議論を進めることはどこまで有効なのか、今となっては強い違和感を覚えるのです。

もちろんこれまでの私自身への反省をこめて、ですが、流通論や都市の問題、さらには集団関係論について早急に見直しの必要性を感じています。理論面でも実証面でも、です。

しかし、肩は凝るし腰は痛くなるし寝不足だし、と大変です。今も肩がガチガチで文字入力さえ痛みを感じています。といっても書き込みが進むのは、頭が依然原稿モードだからです。

やはり肩を揉んでくれる妻と一緒のほうが、たしかに楽は楽ですね。妻にも送りつけて査読をしてもらっています。

夕方になりましたので、宿舎に帰って酒を飲んで寝ることにします。本日は正面の「勇み湯」も定休日だし。

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約79本の束

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この本数が、昨日私が数えた唐古・鍵遺跡第33次調査出土稲束に含まれる茎の概算本数です。田原本町教委の藤田三郎さんのご厚意によって、現物から数えさせていただきました。

といっても私がとった方法はきわめて原始的なやり方です。まず稲束の各部を接写させていただき、持ち込んだパソコンで加工し、おなじく持ち込んだプリンターで引き延ばし印刷をおこなったうえ、現物を目の前にしてルーペで睨みながら一本一本数えてはマーカーで色塗りを施すというものでした。藤田さんにはさぞ呆れられたでしょうが、これが一番手っ取り早いと考えた次第です。硬化処理が施されているとはいえ、現物はボロボロですので緊張しました。

実際にカウントできた本数は61本ですが、残りは圧縮されて潰れている部分の断面の面積にどの程度の本数が含まれるのかを推計し、76〜79本まで、としたものです。

ちなみに滋賀県の大中の湖南遺跡から出土した稲束は、約90本だという所見も残されていますので、今回私が数えさせていただいた稲束は、それより少し小さめか、といえるのかもしれません。なお大中の湖南遺跡例については、報告者の水野正好氏が指摘するとおり(左手の)親指と人差し指で握れるだけの分量で、径2.5cmだったようです。今回の資料については硬化処理前の計測値で径2cm弱だとのことでした。

ですからじっさいに唐古・鍵の稲束は、大中の湖南例よりは小さかったとみるべきでしょう。ただし大中の湖南例は未熟性の稲束だったとされており、写真をみると束の結びも撚りの施されたワラ紐がもちいられ、かつ2重巻程度の乱雑な結びだったことがわかります。このことは、たとえば「ひこばえ」を対象とする念のための収穫や、子供の真似事などといった変則的な資料である可能性は高いと思います。

それに対して唐古・鍵例は、籾殻層中から部分的な残存稲束を含めると6束の出土をみたようですから、まちがいなく最終消費時たる脱穀・精米時に籾殻と一緒に破棄されたとみてよいものです。私が秋に実験した古代米の稲束も約70本でした。ですから径2cmから2.5cmまでの束として見積もっても、さほど誤りではないのかもしれません。

この稲束、畿内第2様式期のものだとのことですが、非常に丁寧に結ばれており、結び目が見えないことが注意されましたし、もっとも根本側には撚りをかけたワラが2重分だけ巻かれておりました。おそらく収穫後に再度きっちりと結び直されたものであろうと推定されるのです。

なにを言いたいかといえば、この束が貨幣の最少額単位として弥生時代に各地で流通した可能性です。稲束システムの根幹を支えた存在として、私はこの稲束を「一握」と仮称します。精米後にはちょうど古代の一合に、現在の約4.5勺(一合の45パーセント)に該当する分量です。

今回の稲束本数計算の機会を与えていただいた藤田さんには心から感謝申し上げます。そしてここ二ヶ月間の「稲束威信財システム」かんする私の研究成果については『日本史の方法』の次号に掲載される予定です。てっきり廃刊になったものだと私は思っていたのですが、先日某副学長から「次号に掲載するので書け」と命ぜられてしまいました。

この学会誌と私は相性がいいのか悪いのかよくわからないのですが、次回こそは、少しまともな論考になるかと思います。奈良女子大学の小路田研究室から刊行予定だそうです。これから原稿に取りかかりますが、締め切りは明日だというので、急がなければなりません。

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最近、私がはまっている稲束システムと水稲農耕民の歴史にかかわる暫定的な見解を示しておきたいと思います。

水稲農耕民の歴史の中で、原始・古代社会に貨幣の機能をはたした存在の代表格は稲束でした。文化人類学では「限定目的貨幣」と呼ばれ、古代史では「現物通貨」や「穀物貨幣」などと呼ばれています。しかし民俗学をあたってみると、稲束が貨幣の機能を担った時代はもっともっと最近まで続きました。

集落内での交換や取引に金属貨幣(銭貨)をもちいることなどほとんどなかった地域も多かったようです。金属貨幣は、集落内では入手できない商品を街に出かけて買うときにだけ使われたというのです。

この点と深くかかわることがらなのでしょう。私が調査をおこなっている西表島では、金属貨幣を「稲束で買う」という感覚すら普通にあったようです。だから上記の問題は、地域内流通通貨=稲束、地域間流通通貨=銭貨という図式のもとで理解可能です。

稲束が貨幣としての機能を担ったことを証明するもうひとつの側面として重要なのは、租税です。日本の古代では、田租として農民一人から徴収されるのは稲束でした。それは反あたり原則として二束二把というものでした。このようなかたちで徴収される田租でしたから、それは稲束で換算された徴税額だといってもよいでしょう。つまり稲束は、行政にまで深く浸透する貨幣だったといえるわけです。

その後はご承知のとおり、租税は稲束からの脱却が図られたといわれており、脱穀後の榖で換算されたり、畿内では銭納が奨励されたり、といった変化をたどるのですが、稲束は依然として根強く残ります。庸がそうですし、出挙がそうですね。

さらに興味深いのは、古代社会が崩壊して中世へと転換したとき、農民に負荷される租税は、ふたたび稲束を基準にした形態へ戻ることです。山間部など一部の地域では近世でもそうだったようです。水稲農耕民の歴史の中で稲束がいかに重要な役割を演じ、長期にわたって貨幣としての機能を果たしたのか、がよくわかります。

そして問題にしたいのは、出挙です。古代には田租・庸・調とは別に出挙という、稲束の貸し付けと利子をつけた返済制度があったことが知られています。そしてこの出挙こそが、もっとも原初的な租税ではなかったともいわれているのです。ただし古代史学からの言及はそこまでで、「相当古くまでさかのぼる可能性」の洞察にとどまるのです。そこで考古学の出番となります。

まず基本として押さえておきたいことは、出挙とは稲束の再生と循環だという構図です。その際に東南アジア地域での苗代の様相は興味深いものがあります。一部の地域では現在でも苗代への植え付けは、稲穂のまま籾を分蘖させずに並べ置く、「穂植え」という方式をとっているのです。稲束を結わえたワラを解いて、そのまま植え付け、収穫後には再び稲束に戻るのですから、それは稲束の再生そのものですね。

さらに出挙の場合、貸し付けられた稲束(原資)は、理屈上、稲作がもっとも順調に進んだときには約100倍になって再生されることが期待できるのです。そのなかから利息を付けて返納されるわけですから、出挙は現代の私たちの感覚でいうところの投資に近いといえるでしょう。元手をもたない農民にも稲束は貸し付けられたはずですので、それはあきらかに古代の稲作農耕奨励策としての意味をもちます。だから出挙とは、古代の銀行システムだったともいえるでしょう。

では考古学の側からはどのようなアプローチが可能でしょうか。いうまでもありません。稲束と倉の存在が、明確な解答をすでに用意している、そのように考えます。稲束は収穫後に村の共同の倉庫に収められたと考えられています。

もっとも典型的な事例は大阪府の池上曽根遺跡の大型建物跡です。この遺構の周囲からは異様な高密度でプラント・オパールが検出されていますので、まちがいなく稲束の収蔵庫だったとみてよいでしょう。床下にはワラ束が積み上げられた可能性を考えてもよいかと思います。

こうして収蔵された稲束は、次の作付け期を迎えるまでの冬期のあいだ、首長ないし司祭のもとでさまざまな呪術や祭祀が施されたと考えられています。場合によっては鹿の血液を振りまかれるような呪術や、首長ないし司祭者と乙女の聖婚の場ともなり、稲束に宿る榖霊に精気を与える秘技が展開したのかもしれません。さらに各地の民俗例を参照しますと、床下の稲ワラの上で(歌垣の季節でもある)早春の夜間には、若い男女の生殖行為が展開した可能性もありです。

すこし横道にそれますが、なぜ稲籾と生殖行為が関係するのかといえば、「納戸の神」とのかかわりが想起されるからです。のちの時代の独立自営農民の場合でも、翌年の作付けに回される稲束は、夫婦の寝室であった納戸に保管されるのです。つまり冬期に人間側の生殖行為をもって榖霊に活力を与えるという風習は、弥生時代にまでさかのぼらせることが可能だといえ、その場合には集落の中心に建てられた大型建物すなわち稲倉が、そうした儀礼・祭祀行為の舞台として浮上してくるのです。

池上曽根遺跡の大型建物が独立棟持柱建物であって、祖霊祭祀の場であるとも考えられていることは、先に述べた生殖行為だけでなく、祖霊との交換も榖霊への活力の付与として重要な役割を演じたことを示唆するものでしょう。夜間とは他界に開かれた空間でもあったわけですから、そこでの生殖行為は他界の住人である祖霊との交換を意味するものでもあったわけです。各地の民俗例をあたってみますと、稲ワラの上での男女の生殖行為というのも、水稲農耕民にとっては根深い習俗として長らく温存されたことがわかります。

主題に戻します。そうしたさまざまな祭祀を経て翌春の作付け期には、首長ないし司祭から村人たちに向けて稲束は再分配されるとしたらどうなるでしょう。秋には当然稲束として回収されることになりますが、この間、稲束を貸し付けられた村人たちは首長や司祭に対して負債感を負うことになり、その解消のためにも熨斗をつけて借りた分量以上の稲束を返すことに躍起になったはずだと推測できるのです。

こうした稲束の再生をめぐる首長や司祭と民衆との間の駆け引きこそが出挙の原型だといえるのではないでしょうか。

ではその正体とはなにか。みなさんもよくご存じの威信財交換ですね。この場合の稲束は循環型威信財として評価することが可能です。熨斗をできるだけ沢山つけて稲束を返済できた村人は、当然、首長や司祭にたいして威信を獲得することになります。返済後に手元に残った稲束は当然貨幣として、秋に開催される大規模な市の場に持ちこまれ、各種の財との交換に回されることになったでしょう。もちろん食糧として消費されることにもなったでしょう。当然、首長や司祭のもとには利息分の稲束が集積され、それらはさらなる稲束の拡大再生産に回されることになったはずです。

いっぽう負債感を解消できなかったケースもままあったと思います。その場合、村人は首長や司祭に対して完全な負い目を負うことになり、支配下に入らざるをえなくなります。命ぜられるままの従属的な立場におかれてしまうのです。現代の感覚でいうところの税の未納状態ですね。首長や司祭者は、こうして優位な立場と権力を身に帯びることになり、村の支配者として振る舞うことが可能になる、そういった図式を描くことが可能です。

なお古代にしばしば天皇から発せられたという徳政令とはなにか、についても考えておく必要があります。それは就任時や年頭などの節目にあたって支配者側から発せられる、未納税分の完全消滅宣言なのですが、それこそがポトラッチです。弥生時代にも同じ図式は当然適用できるでしょう。つまり首長や司祭は、こうした徳政令の発動権を一手に掌握する存在でもあるわけですから、未納税分の蓄積すら首長や司祭にとっては願ってもないほど効果的な威信の獲得手段ともなったはずなのです。そうなったら、もう完全な支配者ですね。

いいかえれば、なぜ首長制社会のもとで首長や司祭が世襲制になるのか、出挙の原型を弥生時代にもとめると、このあたりの問題に踏み込めることになるとも考えます。ひとことでいえば親の世代が首長に対して負った負債感の累積が、かれの息子を次世代の首長や司祭に押し上げさせる、そのような作用をはたすからにほかなりません。

なお銭貨は国家的威信財ともいわれ、故鈴木公雄先生は銭貨をさして「手のひらのなかの国家」と呼びました。稲束が貨幣としての機能をもつとすれば、当然稲束も威信財としての振る舞いを社会のなかで演じたはずなのですが、上記の推論は、やや異なった側面からではあるものの、稲束が威信財交換の場面で非常に重要な役割を演じただけでなく、それが租税の原初形態にもなったことを示すものだと思います。

私は稲束をめぐる上記の駆け引きを指して「稲束威信財システム」と呼びたいと思います。

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昨日は三重県の能褒野で陵墓限定公開があり、私は日本考古学協会の“地元枠”で参加させていただくことになりました。協会の陵墓担当理事は森岡秀人さんと菊地芳朗さんで、JR井田川駅からタクシーで現地に向かうという約束だったのですが、途中の柘植駅で草津線から乗り換えてきた森岡さんと偶然合流することになりました。

この機会を逃すまいと、さっそく車中で弥生文化論の個人授業をお願いすることに。主題は次の3項目でした。

その1) 弥生時代のコメは基本的に貨幣(商品貨幣・限定目的貨幣)であったとしたら、食糧依存度の問題は別の側面からの捉え直しが可能になるが、そのような提言は妥当性をもつか。

その2) 弥生文化とは交換価値の高いコメと布を構造的・組織的に増産することを通じて地域間の交易を活性化させるものであったと考えた場合に、土器様式の地域性が顕在化したり広域化したりする現象はどう理解可能か。

その3) コメと布の構造的増産とは、稲籾を男が作り、布を女が織るという男女分業の創出と固定化を意味するが、それが祭祀の構造にどのように組み込まれたと考えられるか。

ごく抽象的な議論に思われるかも知れませんが、森岡さんにご教示をお願いする場合には、この程度に一般化しつつ論点を絞り込んだほうが有効なので、そうしました。

議論は井田川駅を降りてからも終わりませんでしたので、近々に再度機会を設けてご教示を乞うことにします。

幸い、森岡さんも上記の問題群には以前から関心をお持ちだとコメントしてくださいましたし、森岡さんの近著を拝読するかぎり、私にもその確信はありましたので、短い時間でしたが非常に有益でした。

なによりも唐古・鍵遺跡の機能と性格について、私が抱いた素朴な疑問は、近畿の弥生時代研究者を代表する立場の森岡さんにも伝わることを確認できたことは最大の収穫でした。

盆地の中央部というすべての水が集まる一帯が初期水稲農耕の適地であったはずはなく、むしろ不適地の典型だったという理解は、やはり妥当だし、だからこそこの遺跡には、さまざまな非日常性が凝集され、喧噪に満ちたマーケットの場として周辺山際の農耕集落からは「見くだされつつ」繁栄し続けたのだ、という解釈を今後詰めてゆきたいと思うのです。

宮内庁の担当者による丁寧な解説に耳を傾けながら、このようなことを考え続けておりました。

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