私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

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徳島が生んだ偉大な考古学者である笠井新也の説が、このところ注目されるようになりました。箸墓古墳を、その後円部径の規模に着目して女王卑弥呼の墓だと断じ、『魏志倭人伝』の女王卑弥呼は『日本書紀』にあるヤマトトトヒモモソヒメであろうとの学説を唱えた学者として有名です。

このたび徳島の地域学会である「考古フォーラム蔵本」は、この笠井新也特集を企画しました。次回の会誌『青藍』はこの特集となります。
ちなみにこの会名は、忘れもしない私自身が命名したものです。当時は私の勤務先であった徳島大学埋蔵文化財調査室が事務局でした。

現在は徳島県埋蔵文化財センターの栗林誠治さんが担ってくれています。今や徳島県を代表する中堅どころの古墳時代研究者としてご活躍です。その栗林さんから、また後見人である天羽利夫先生から、箸墓古墳と笠井新也の問題についての学史的な評価を是非書け、との依頼を受けて半年が経ちました。

そしてこの問題を調べてゆくうちに、表題の命題へとたどり着いたのです。そうだったのです。小林行雄は箸墓古墳の考古資料としての価値を、彼の墳丘変遷観に沿って新しい時期のものだと判断したのです。ちょっとした発見でした。しかしどの論文や著作をたどってみても、「箸墓古墳古墳は明確な根拠をもって新しいと断定できる」などとは書かれていません。逆に小林行雄は1937年の論文で箸墓古墳を古く置いたことを評価する声の方が強い影響力をもっています。しかし肝心なのは、その論文のなかで箸墓古墳はどう評価されたのかです。現在の日本考古学史研究の趨勢とは逆の解釈をおこなったほうがはるかに整合的なのです。

点検作業は文脈をたどりながらの推論の積み上げになります。この問題については論理の整合性が重要な鍵になるのですが、その証明には成功したという自信があります。

だから笠井新也説は、戦後から1976年まで、表向きは顧みられなかったかにみえるのです。小林行雄の古墳時代開始年代論が強い影響力をもっていましたし、なによりも箸墓古墳は成務陵程度の時期のものだと小林行雄は判断していましたから、箸墓伝説だけは随所で取り上げられたものの、考古学の論述の際に登場することはなかったのです。

こうした学史整理の論文を昨日ようやく書き上げて、栗林さんにお送りしたのです。かなりしんどい論文でした。だれも証言者はいないのですから。

栗林さんには申し訳なく思いますが、さわりを紹介しますので御寛容を。下の文面をご確認いただければ、箸墓古墳の築造年代にかんする議論がどのような経緯をたどって現在の評価にいたったのかを解説するものであることがおわかりいただけるかと。

そして興味のある方は、是非『青藍』次号をご購入ください。次回の日本考古学協会総会の会場でも販売される予定だと聞いています。

               笠井新也と箸墓古墳の築造年代
                                          北條芳隆
1. 笠井新也説再評価の機運
 日本列島における巨大前方後円墳の成立を考えるうえで、奈良盆地の東南部に築かれた箸墓古墳(別称―箸中山古墳)が鍵になることは疑いない。埴輪の起源論が提起された1967年を下地とし、宮内庁による表面採集資料が公表された1976年を画期として、この古墳が最古の巨大前方後円墳であるという見解は広く注目されることになった(近藤・春成 1967, 中村・笠野1976)。相前後して、兵庫県養久山1号墳や岡山県備前車塚古墳などの調査結果にもとづき、撥形を呈する前方部形態が古相であると指摘され(近藤1968)、箸墓古墳も同様の特徴をもつことが追認されて以降、こうした評価は学界の共通認識になったとみて差し支えないであろう。
 いっぽう現在の論争の焦点は、その築造年代である。3世紀にさかのぼるとする見方と4世紀以降だとする見方の対立があって、さらに前者には3世紀の中頃(西暦248年頃)だという意見と、後半から末(266年より後)だとする意見が提示されている。つまりごく大づかみにみれば、現在はこれら3説が並立した状態だとみてよい(1)。
 このうちもっとも古く見積もる年代観については、今年度(2009年度)の日本考古学協会総会において、春成秀爾氏や小林謙一氏ら国立歴史民俗博物館の研究グループから放射性炭素年代測定結果として強調されたところでもある(春成ほか2009)。この古墳の築造年代にかんし、現状の学界においてもっとも影響力のある見解はどれか、を判定する際の参考になろう。
 なお考古学的な論拠をどこに求めようとも、箸墓古墳の築造年代を3世紀代に見積る2説のうちのどちらかに選択肢を絞り込むばあい、年代的に重なる『魏志倭人伝』との調整を避けては通れなくなる。それは戦後の日本考古学が、表向きは解決済みの事項として取り合わなかったかにもみえる邪馬台国の所在地問題にとどまらない。女王卑弥呼ないし台与の墓は具体的にどれを指すのか、という被葬者問題との対峙が要求される。さらには『日本書紀』に記載された、いわゆる箸墓伝説についても、先の『魏志倭人伝』にある「径百余歩」との関わりかたも含め、改めて系統だった解答を迫られることになるからだ。
 そして、このような脈絡のなかで笠井新也の先駆的業績(笠井1942,1943)が見なおされ、再評価の機運が高まるのは必然である。笠井こそが、上記のすべての問題と真正面から向き合い、論理的にもっとも整合性の高い解釈をいち早く提示した人物であるからにほかならない(2)。
                     以下 つづく

雪野山古墳と石製品

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次の土曜日、といってももう明日になりますが、滋賀県の竜王町で開催される「渡来文化講座」に出かけてきます。

雪野山古墳の発掘調査から20年経ったのを記念して、連続講座が開催されることになり、大阪大学の福永伸哉さんをトップバッターに、大阪市立大学の岸本直文さんが2番バッター。お二人は既に講座を終え、私がどん尻。私の出番は今度の土曜日12月5日、という次第です。竜王町教育委員会の冨田さんにお世話になっています。

あれからもう20年が経ったのか、と思うと感慨深いものがあります。それと長いこと読みなおすこともなかった報告書を改めて見直してみれば、その後の20年間、私はいったいなにをしていたんだろう、という後悔の念も否応なく込み上げてきてしまいました。

さすがにあの頃は若かったのでしょうね。元気だったのでしょうね。あの頃、喫緊の課題として羅列したはずの事柄を次第に思い出してきて、奇妙に新鮮な気持ちになりました。直弧文の問題を交えた研究を直ちに進める予定だったことすら完全に忘れていました。歳をとりました。


さて、当日の講座はこんな切り出しになります。以下、昨日冨田さんにお送りした当日配布資料のレジュメの書き出し部分を転載します。

                    要 旨

 20年前に行われた雪野山古墳の発掘調査は、古墳時代の石製品研究にとっても重要な発見をもたらした。ここでは鍬形石と呼ばれる独特な形状の腕輪、紡錘車形をした形態の製品、琴柱形石製品と呼ばれる杖状の品からなる3種類の石製品が、遺骸の周囲を取り囲むかのように副葬されていたのである。どれも碧玉と呼ばれる硬質で緑色に輝く玉用の材質をもちい丁寧に作られていた。
 このうち鍬形石と紡錘車形石製品の2種類は、南海産の巻貝で作られた腕輪と装飾品を碧玉で模造したものであり、鍬形石の祖型はゴホウラ(腹面)釧、紡錘車形の祖型はイモガイ(殻頂部利用)の円盤形装飾品である。祖型となった貝製品は弥生時代の終末期に登場するが、滋賀県域では当時誰ひとり眼にすることのなかったであろうと思われる、非常に珍しい製品である。だから祖型は貝製品であることを、これら石製品を目の当たりにした人々皆が認識しえたとは考えがたい。系譜の不明な琴柱形石製品もしかりである。そのような珍奇な品々が雪野山古墳に副葬されていたのであるから、各種の鏡や胄・靭などの豊富な副葬品と同様、石製品の組み合わせをみても驚くばかりであり、被葬者の力量のほどが偲ばれた。
 ただしこの時代に各地の有力者が身に付ける装飾品として普遍的であった勾玉はなく、碧玉製の管玉も1点だけ、ガラス小玉も2点だけであって、被葬者が生前身に付けていた装飾品としては、いささか貧相であった。
 なお石製品の豊富さと玉類の極端な少なさという「ちぐはぐさ」は何を意味するのであろうか。それは被葬者の生前の活躍ぶりとは別に、この当時産声を上げたばかりの倭王権(大和政権)側からの政治的配慮や要請が強く働き、雪野山古墳での葬送祭がとびきり盛大なものに仕立てられた、というような消息を物語るのかもしれない。このような興味深い問題を含む発見ではあったが、今回は雪野山古墳出土の石製品がどのような意味で重要な意味をもつのかをお話ししたい。  ー後略ー

この後、石製品の話が展開してゆくのですが、上記の部分までだと「人身御供論」の書き出しだといっても充分に通用しそうですね。

もちろん、明日はそちらの方向には向かわないつもりです。真面目に石製品の話に徹します。

1段目の写真は20年前に私自身が撮ったものです。肖像権については微妙ですが、東近江市にはお許しいだだけることを祈ります。

もちろん2段目から4段目までの写真の貝輪の話を、時間の許す限りしたいと思いますし、明日は現物を会場に持ち込もうかと考えています。なおこれら3枚の写真ですが、驚くべきことに女性の腕には普通に通るのですね。普通に。モデルはK池嬢です。

纏向ランドスケープ

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去る11月14日に桜井市で開催された纏向遺跡第166次調査の現地説明会に、我が考古学第1研究室からはN谷君が参加してくれたようです。何千人もの参加者に揉まれながらよく耐えたものだと感心しましたが、「これ、どうです!」と、いわくありげに見せられた写真には改めて驚かされました。

今回検出された大型建物Dの東側中央正面には、なんと穴師山409mピークがそびえているのです。

最上段の写真がそれを示しており、このアングルを確保するために、説明会現場では相当苦労したそうです。その労作を有り難く拝借しました。柱穴列の延長上には、確かに見覚えのあるピークが。

この建物Dは以前に検出された建物B・Cと東西一線に揃うのだということですが、その中心軸は、要するに穴師山を基準に、その頂を示準しつつ設定された可能性が浮上するのです。

この軸線、正方位からは5度前後逆時計回りにズレているのだそうです。だとすればそのズレの意味は東西を指向するという大前提のもと、現実には示準点に穴師山を選定したことに起因する、といえるのかもしれません。

この穴師山409mピークは、私にとって因縁のある頂です。箸墓古墳の軸線設定にも用いられたことを私は先の論文で指摘し、それは大和水稲農耕民にとって他界の象徴(の南側を画する頂)に祭り上げられ聖域化されることになったところだ、と論じた経緯があるからです。

こうした理解を前提にすると、今回検出された建物群と最古の巨大前方後円墳は、ともに穴師山を背にして西側に向くか、あるいは穴師山を正面にするか、のどちらかである、という考察も不可能ではないような気がします。前者であれば「坐東朝西」ですし、後者であれば「坐西朝東」になります(柵列の配置をみれば、建物については後者の可能性も捨てきれないようです)。当然ですが、建物Dの側面には箸墓古墳が並ぶ格好で見えることになります(最下段の写真)。

もちろん、両者が同時に存在したことにはならず、建物の廃絶の方が1様式分古いようですが。

なお2段目と3段目は、ではこの大型建物群から春分の日の日の出と日没はどう見えたのか、を点検したものです。カシミール3Dで作成しました。日の出は穴師山409mピークの後背(にあって現地からみたとき4度ほど南に振れる)巻向山山頂付近からです。画面に三輪山を入れるために軸線から画角をかなり南に寄せていますので、穴師山は左から2番目の高まりになります。ご注意ください。いっぽう日没の方は大和川が流れ下る盆地のもっとも低いところに沈んでゆくようです。

夏至と冬至については西暦3・4世紀代の黄道傾斜角の計算が面倒なので行っていません。ひとつだけ確認しえたことは、今回の建物群と三輪山とは、二至二分の観点からみても関係性をうかがえそうにない、ということです。注目すべきは、やはり穴師山409mピークです。

なお今回の表題は小林達雄編著2005『縄文ランドスケープ』(アム・プロモーション)をもじったものです。本書には北海道の畑宏明先生も執筆なさっていました。

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今回私見を開示したいと思うのは、紫金山古墳(大阪府茨木市所在)出土貝輪3点の型式学的な位置づけの問題、および鍬形石との関係についてです。

前回紹介した京都大学大学院文学研究科考古学研究室編2007『紫金山古墳の研究ー墳丘・副葬品の調査ー』がテキストになります。本報告書の中で貝輪の項目を担当された秋山美佳さんは、貝輪3点の型式学的検討結果を紹介しています。
それは板状部(上唇部から外唇部)の表裏に直弧文が彫刻されていることで著名な貝輪?鵯を最古に置き、もっとも簡素で、かつ華奢な造りで小型の貝輪?鶚を最新に位置づけるという理解です。

しかし貝輪自体の制作技法や施文の付加といった派生的要素の状況などを総合的にみれば、この順序は逆転するとみる方が正しいようです。貝輪?鶚が古く、貝輪?鵺・?鵯の順で新しく置くことが可能です。そしてこのような理解が学問的にみて真である蓋然性が高いと判断されるならば、祖型貝輪と鍬形石の関係について、もうすこし詳しい説明が可能になることを主張したいのです。

では貝輪?鶚が古く貝輪?鵯が新しいと判断される根拠を以下に列挙します。4項目にわたります。

第1の根拠:立岩型貝輪から大坪・竹並貝輪まで一貫した切断法は、螺背側(裏面)において水管溝から殻頂までを一直線に切るというものでした(先日の記事参照)。切断面が直線になる理由は、平坦な砥石の上で全体を磨り落とすからです。
紫金山貝輪において、この原則を踏襲するのは貝輪?鶚だけです。つまりこの個体だけが古相です。

第2の根拠: また体層部の水管溝側に当たる環体上方を薄く削り込んで成形する手法は、大坪貝輪や松ノ尾貝輪など弥生終末期の貝輪にまでに普遍的に認められる成形上の特徴です。側面観でいえば、笠状部側(水管溝側)がもっとも薄く仕上がるのです。
そして貝輪?鶚にはこの特徴が過不足なく当てはまるのに対し、貝輪?鵯と?鵺にはまったく該当しません。それどころか、逆に笠状部を強調するために厚く残すことを志向する作り方であることが明らかです。つまり貝輪?鶚のみが伝統的手法のもとにあって古相なのです。

第3の根拠:第2の根拠とも関連するのですが、笠状部頂にあたる環体最上面(体層の水管溝側端部)の切り離しの位置も注目されるところです。裏面をみると貝輪?鶚だけが螺軸を残さず、貝輪?鵯と?鵺には明瞭に残されるのです。写真の上段が貝輪?鶚と同様の状況で、下段が貝輪?鵯と?鵺に認められる状況です。
前者の切り離しの位置が弥生的な古相のそれであることはいうまでもありません。立岩型から松ノ尾・大坪貝輪の段階まで一貫してそうなっています。
いいかえますと螺軸が残されるという現象は、螺背側における環体上方の削り込みが不十分であることと、伝統的な切り離しの位置より上方にずらして切断したことに起因します(最下段の写真参照)。
要するに笠状部を広く厚く作出する意図が作動した結果です。つまるところ貝輪?鵯と?鵺の2個体だけが、伝統的な成形技法からの逸脱をみせるのです。

第4の根拠: 紫金山貝輪?鵯と?鵺には、板状部(上唇部)の裏面ないし背面側へと装飾が及んでいること、つまり装飾の両面性への志向性が認められることにも注目したいと思います。貝輪?鶚だけは表側のみの彫刻であり片面性が顕著です。こうした点は第1の根拠と不可分に結びつく重要な要素です。
貝輪?鵯と?鵺については、結節の側面を背面側にまで延伸させる形で残しながら打ち欠く、というきわめて変則的な切断法を採用しています。そのうえで、突起の表面から側面にかけての全面を覆う形で装飾を施します。先に述べた笠状部についても同じです。
つまりこれら2個体にみえる弥生的な切断技法や成形手法からの逸脱は、直弧文や鍵手文などの施文範囲を極力広く確保する、という装飾部位拡張性への志向が働いた結果であると理解できるのです。そうした志向性の行き着いた先が貝輪?鵯で、貝輪?鵺はそこへの過渡的な様相です。直弧文の様式化という観点でみても、貝輪?鵺の方が古く貝輪?鵯の方が新しいことがわかります。
そして貝輪?鶚にだけ片面性が顕著なのは、こうした施文範囲の拡張志向が未だ立ち現れなかった時期の所産であるがゆえだといえるでしょう。

以上の4つの根拠をもって、貝輪?鶚と他の2個体の間には、型式差として認定可能な有意な差が認められると私は判断します。必然的に、鍬形石の誕生にあたって参照された祖型貝輪は、貝輪?鶚に象徴されるような、弥生的古相を顕著に引きずるものと、笠状部と突起部および板状部を強調する貝輪?鵯・?鵺のような新相のものとの、2段階ないし2相に区分するのが妥当だということもできるでしょう。

もとより直弧文を入念に施された貝輪?鵯の出現が鍬形石の誕生に先立つ、などといった無理な解釈は破棄されるべきです。あわせて紫金山古墳出土貝輪は鍬形石からの模倣であるという熊本大学の木下尚子先生のご指摘も、根拠を失いました。貝輪?鶚の型式こそは忍岡古墳出土鍬形石の祖型だと考えられるからです。こうした問題についても、やっと論証にまでこぎ着けた観があります。

なお秋山さんは貝輪?鶚について、小型の貝が用いられたと記述されています。しかしゴホウラ腹面貝輪の場合、外唇部を除去するという非常に贅沢な設計のもとに作りますので、貝自身のサイズは既に一定以上です。後はどこをどう切断するかの相違と、磨き込みと削り込みの程度の差違こそが問題で、それが完成品の大小を導く最大の要因であることを実感させられました。

まあ、このような理解に立ちいたれたのも、実際に貝輪の模造品を作ってみたからこそです。20年前に労をいとわず模造を完成させておけば、もうすこし早く、より合理的な理解ができていたかもしれません。もちろん、執筆者の秋山さんを責めるつもりはありませんし、むしろ感謝しています。詳細な実測図と丁寧な記述が公表されたからこそ、こうして踏み込んだ考察ができるのですから。同時に、これまでサボってきた私自身の怠慢さを後悔してもいます。
さらにゴホウラの標本を入手して相応の加工グッズを揃えるのは、学生さんでは相当な無理があると思うからです。作業場の確保だってままならないでしょう。

まだ考察は序の口です。が、ここまで書けば、今度は本気だということが大賀克彦さんにも伝わるのではないかと思います。

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以前、京都大学からご恵贈いただいた『紫金山古墳の研究』(2007)の中で、森下章司さんや秋山美佳さんが腕輪形石製品の問題・祖型貝輪の問題を積極的に論じています。そのなかでは、私がかつて示した理解に対する批判的検討も多く含まれており刺激的でした。

いっぽう本報告書では、藁品哲男先生によって石材分析結果が提示されたことが非常に重要だと思います。玉類との比較点検が改めて可能になるからです。

こうした魅力的な素材が揃いつつあるのに、一向に腰をあげる気配のない私の怠慢さに呆れかえったのでしょう。夏に非常勤講師としてお越しいただいた大賀克彦さんからは改めて叱咤激励されていまいました。かねてより矢継ぎ早に出された大賀さんからの注文に応えられないまま(西表島へと逃避している間に)、彼自身の手によって外堀は着々と埋められてしまった観があります。

またそうこうしているうちに、九州大学の辻田淳一郎さんからも腕輪形石製品にかんする意欲的な論考をお送りいただきました。この論考からも学ぶべき点は多かったし、私自身がやっておかなければならなかった課題や問題が山積している事実を再確認させられました。率直に反省しています。

そのうえ12月には古代学研究会でも、腕輪形石製品をテーマとするシンポジウムを大阪で開催するようです。
ところでその趣旨説明文にも「昨今の研究は停滞ぎみで….」とありました。シンポジウムの趣旨それ自体をみれば、辻田さんの論考の内容と重複する部分が多いようにも感じましたし、冒頭で紹介した紫金山古墳報告書があるのに、どうなのでしょう。

ここ数年間に限定してみても、石製品の生産地問題について石川県の三浦俊明君(後輩なので「君」にします)が解明してくれています。だから停滞気味とばかりは言えないような気がします。
もちろん、私についてのみ言えば、「昨今の停滞ぶり」は確かに当たっていますが。
しかし来月のシンポジウム、せっかくの機会なのに、私は札幌出張のため出向けないのが残念です。

とはいえ、この秋には腕輪形石製品の成立過程や系統上の問題と改めて対峙する気になりました。西表島に逃避していたお陰でゴホウラガイの標本を入手できたことがきっかけですが、鍬形石の祖型貝輪を実際に複製実験してみると、気がつく点がいろいろとあるものです。

次回はそうした成果の一端を披露したいと思います。まず鍬形石と祖型貝輪の問題から。

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